チーナ・マチャド死去 アメリカのファッション界で「壁を破った」非白人モデル

ファッション業界の草分け的存在が失われた。

ファッション業界の草分け的存在が失われた。生涯現役のモデル兼ファッションディレクターだったチーナ・マチャドが、ニューヨーク州ブルックヘイブンで心停止のため、86歳で死去した

マチャドはアメリカの主流ファッション誌に現れた初の非白人女性で、1959年、「ハーパーズ・バザー」誌を飾った。

「彼女は異質な美の観念、見る人の前に掲げた最初の人物でした。それは、異なる文化の記憶と他のイメージの断片を引き出します」と、ファッション誌「Wマガジン」の編集者ステファノ・トンチはニューヨークタイムズに述べた。「彼女はいつもそれを皮肉っぽく、ポーズをとることなく、モデルとしての表現や流行を追うことなくやりました。なぜか、踊っている間にそのすべてを表現しました」。

中国人とポルトガル人の血筋を引くマチャドは、12月25日、87歳の誕生日を1週間後に控えたクリスマスの日に亡くなった。彼女の2人目の夫リカルド・ロサ、2人の娘ブランチ・ラサール・ヒルズとエマニュエル・ラサール、2人の孫が残された。

1958年に撮影され、1959年2月に公開された、リチャード・アヴェドンによる最初の写真が「人種の壁」を破った。「当時はとても論争になりました。アメリカで撮影された私の最初の写真でもありました。パリでファッションモデルをしていたときは、まったく人種差別の問題はなかったので、どうしていいかまったく分からなかったのです」

マチャドは1929年、ノエリ―・デゾウザ・マチャドとして上海で生まれた(彼女のモデル名はチーナと発音し、南米の一部でアジアの女性を表す軽蔑的な表現「チニータ」からとっている)。ニューヨークマガジンによると、日本軍が上海を占領したときに父親の事業と財産が没収され、彼女は家族と共に南米へ逃れた。

マチャドの人生は、有名なスペイン人の闘牛士ルイス・ドミンギンとの情熱的なロマンス、オートクチュールモデルとしての輝かしい経歴、ハーパーズ・バザー誌のファッションディレクターや50代以上の女性のための雑誌リアーズの共同制作者など華麗だった。そして81歳で、業界最高齢の現役モデルのひとりとなった、とニューヨークタイムズは報じている。

マチャドの輝かしい経歴は、パリのカクテルパーティーで見いだされてから始まったと言われている。しかし彼女は、最初は自分自身の美しさを認めていなかったと語った。上海で育ったため、美人とは白人女優だというイメージが刷り込まれていたためだ。

「私たち(非白人)には何のイメージもありませんでした。私たち自身の美しさを教えるものは何も、何もなかったのです」とマチャドは2011年、ニューヨークマガジンのインタビューで語った。「ですから自分が美しいなどと考えたこともありませんでした。一度もなかったんです」。

1950年代半ばには、ジバンシィとバレンシアガの専属モデルとして成功を収めたが(CNNによれば、マチャドは当時がモデルとして最高額の契約だったという)、最初の数年はまだ業界内で人種差別を経験した。とはいえ、そのほとんどから守られていた、と彼女はニューヨークマガジンに語った。

実際には、ハーパーズ・バザー誌での彼女の画期的な登場は、もう少しで実現しないところだった。テレグラフ紙に載った2013年のプロフィールによると、当時の出版社は、自社の雑誌に非白人女性を載せることに反対したためだ。

撮影を担当した有名写真家リチャード・アヴェドンは、もしマチャドの写真が使われなければ、自分は同誌との契約を解除すると迫った。1959年2月、ハーパーズ・バザー誌に彼女の写真が掲載された。アヴェドンがこの舞台裏をマチャドに告げたのは20年後のことだった

国際写真センターの展覧会「アヴェドン・ファッション1944-2000」のキュレーターを務めたキャロル・スクワイアーズは2010年、Wマガジンにこう語った。「これは、1人の女性ができること、誰がファッショナブルになれるのか、ファッションが一般の白人以外の人々にどう関わってくるかを開拓する大きな一歩でした」。

テレグラフのプロフィールによると、マチャドは1962年にモデルを引退すると発表したが、数十年経った2011年に81歳で、IMGモデルと契約した。

同年、マチャドはバーニーズ・ニューヨークの秋の広告キャンペーンに起用され、ニューヨークマガジンの表紙を飾った。またヴォーグ誌のファッション特集を撮影した、とCNNが報じた。

最近では2016年10月に、ニューヨークマガジンで特集記事があり、同月にヴォーグ誌でもインタビューを受けた。11月には、レイバンの写真撮影に参加したばかりだった。彼女の最後のプロジェクトは、「活動的な女性のための」ウールのコートとケープの製品を扱う「チーナ」だった。

マチャドの鮮やかな人生と壁を突破してきたキャリアをしめくくるには、彼女自身の言葉が一番ふさわしいだろう。

「サバイバルだと思っています」とマチャドは2010年にWマガジンに語った。「男性に対しても、何についてもそれが私のやり方です。私は生き残りますよ」。

ハフィントンポストUS版に掲載された記事を翻訳しました。

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