ゲイをカミングアウトするまで「24時間、臨戦態勢だった」渋谷区の課長に半生を聞く

日本ではLGBT当事者であることを、周囲に打ち明けられない人は未だに多い。永田さんは性的指向をカミングアウトしたことが、自らのキャリアアップに繋がったが、Gap時代にカミングアウトするまでは常に気を張り詰めていたという。

渋谷区の「男女平等・ダイバーシティ推進担当課」の課長を務めている永田龍太郎さんはもともと、アメリカ衣料品大手「Gap」の日本法人の社員だった。永田さんはGap時代に、職場で自身がゲイであることをカミングアウトした。同社の東京レインボープライドの出展や、性的少数者のポートレート撮影をするプロジェクト「OUT IN JAPAN」へのサポートなどの活動を牽引してきた。その経験を買われて2016年9月、渋谷区でLGBTなどの性的少数者への取り組みを担当する部署の課長に就任した。

日本ではLGBT当事者であることを、周囲に打ち明けられない人は未だに多い。永田さんは性的指向をカミングアウトしたことが、自らのキャリアアップに繋がったが、Gap時代にカミングアウトするまでは常に気を張り詰めていたという。LGBT当事者であることを隠すために、何気ない日常会話であっても、事前に想定問答を考えるなど「24時間、臨戦態勢だった」と振り返った。

永田さんは、LGBT当事者としてどんな人生を送ってきたのか。渋谷区政について聞いた前回の記事に続いて今回は、自身の体験談を聞いた。

インタビューに応じる永田龍太郎さん

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■「想定問答集を常に用意」していたカミングアウト前

--現代の日本で、性的少数者の方がカミングアウトすべきか否かは、さまざまな議論があると思います。永田さんの考えは?

そこはケースバイケースですね。「どちらがいい」という訳ではないと思います。カミングアウトは自分でするものですけど、そこには相手や、そこを受け止める組織なり家族があるので、カミングアウトがどう転ぶかというのは出たとこ勝負なんですよね。だから、良い方向に転ぶこともあれば、悪い方向に転ぶことも十分にあり得るんです。

無邪気にカミングアウトを進めるつもりは全くありません。しかし、今の大人世代が少しでもカミングアウトして、ロールモデルとして「見える化」していくことを通じて次世代の子供たちがカミングアウトしやすい、もしくは気にしなくてよい時代を作れたらいいな、とは願っています。

--永田さん自身は、性的指向をカミングアウトしたことでのメリットは何がありましたか?

「僕は24時間、こんなに防御態勢を取っていたんだ」と気づけたことですね。海外でカミングアウトされていない方にとって憂鬱なことの一つとして「月曜日のコーヒー」があるそうです。週が明けた月曜日の午前中、コーヒーサーバーの周りに同僚が集まって「週末何をしていた?」という世間話をすることがありますよね。そんな時にたとえば「彼氏と旅行に行っていました」という話をどう言い換えるかを考える必要があるんです。要は、事実を言えないので、週末のプライベートについて話すっていうこと自体が苦痛でならない。

もちろん「月曜日のコーヒー」というのは問題の一端です。要は、そういったかたちで日常生活の中のあらゆる場面でLGBTであることを隠す必要がある訳ですね。ありとあらゆる質問に対して想定問答を用意しておかなければいけない。「こう聞かれたらこう答える」という想定問答集を常に用意しておかなければいけない。それはすごく壁を作っていたと思います。

--それは学生時代ですか?それとも社会人になってから?

いえ、カミングアウトするまで、ずっとですね。自分を守る為に透明な壁を作っているんですよ。その壁は四六時中、修繕しながら持ち歩いているんです。実際そういったシチュエーションが起こるのは1日に何回もあるわけではないんです。ただ、24時間ずっと臨戦態勢にあるっていうのは相当なストレスですよね。

なので、前職の職場でカミングアウトをしてからは同僚に対するコミュニケーションが、とても取りやすくなったんです。しばらくして「何でこんなに体が軽いんだろう?」って、ふと振り返ったときに「そっか!24時間、臨戦態勢じゃなくなったんだ」っていう。子供の頃から40年近くずっとその状態で生きてきていたから、自分がまとう鎧のような物を認識はしていました。でも、カミングアウトしたことで、その重さに初めて気づいたんです。

--ご自身でどのような少年時代を送っていたと思いますか?

親が割とのびのびと育ててくれたこともあって、自由な感じの子でしたね。福岡県内の中高一貫の進学校に通っていたんですが、非常に自主自立の校風がある学校でした。もちろんその時代にセクシュアリティに関して考えることはあったんですが、悩みこむことは僕個人としてはなかったです。

--自分のセクシュアリティに気づいたのはいつ頃でしょうか?

小学校高学年のころです。思春期に差し掛かるところでしたね。友達との話についていけないことがありました。男の子は「なになにちゃんが可愛い」とか「好きだ」とかそういう話を、わいわいしますよね。その時に本心からは肯定できず、とりあえず合わせておくか...みたいな会話しか出来なかったんです。

それで、何となく「違うんだ」っていうのは自分の中で気づきました。小学生の頃から時折いじめられることとかはありましたが、子供なので「じゃあどうしよう」とまでは深く考えていなかったですね。物腰が柔らかかったりしたので、「おかま」とか「女男」などと口頭で揶揄されたことはありましたが、幸運にも深刻化するまではエスカレートしなかったですし。子供って残酷なので、自分とは異質なものを徹底的に叩きますよね。

--子供の世界にダイバーシティは無いですからね。

そういった教育も受けていないですからね。そういった中で、幸いにも小学校入った頃から勉強は出来ない方ではなかったので、勉強が出来るっていうことを一つの武器にしていじめられないようにしていました。だいたい学校ヒエラルキーって、ガキ大将であるとかスポーツが出来るとかあるじゃないですか。そういう中でも「勉強が出来る」っていうのもポイントで、頭一つ出られるんで。そこで自分が守れるっていうのは意識していましたね。

--家庭環境的には伸び伸び育ったけど、当時特に一番辛かったのは小学生の頃ですか?

親の仕事の都合で何度か転校していたので、ずっといじめが続いたっていうことは正直なかったです。

--ちなみに、中高に行ってからはそういったいじめはなかった?

ないですね。「人は人」という校風で、とにかく自由な学校でしたので、本当に伸び伸びとできました。逆にあの伸び伸びと出来た時代がなければ、今の自分はなかったと思うくらい大事な時代でした。

実は先週も中高の同級生と同窓会がありました。東京にいる卒業生で年末に集まっているんです。今はもう彼ら全員にカミングアウトしています。今回は20人くらい集まりまして、仕事で遅れて行ったんですけど、「俺らの中で龍太郎が一番の男やと思う」っていう話で盛り上がっていたんです。素面でかけつけたら「お前が俺らの中の男の中の男じゃ」といったことを突然言われまして。

とっさに「あっ、面白いな」と思いました。男性性の社会の外側に今までずっと追いやられてきた、ゲイという存在の私が「男として尊敬する」と言われたっていうのはとても興味深かったですね。転職の経緯とか勇気も含めて、評価してくれたのだと思うんですけど。「そう来るか!」と面白かったですね。

--その後、東京の大学に進学しますが、なぜ郷里から離れた学校を受験したのでしょう?

九州って男尊女卑が色濃く残っている社会なんですよ。男尊女卑もキツい九州で、ゲイとして生きていけるはずはない、と考えていました。もちろん、当時はそんな言葉は知りませんでしたが......。

なので、中学の時に決意したのは勉強をちゃんと続けていって「どうやって九州から離れるか」ということでした。それで大学受験して東京の大学に入ることにしたんです。

--人々の価値観では、九州と東京で違いがありましたか?

地域性の問題よりも、これまでの地縁血縁がないところだったので、「生きやすい」ということでしたね。大学生で一人暮らしをしていると地域社会との接点が全くなく暮らせるので、そこで気持ち的に楽だということはありました。LGBTの人は地縁血縁を全部断ち切ることで自由を獲得する、というのはよくある話です。

それが一番自分のセクシュアリティに関して干渉されない。今や時代もかなり変わってきているので、そうではない方も増えてきているとは思いますけどね。若い方だとご家族にカミングアウトされている方も、僕らの世代より多い印象です。

--社会人になるまでの間で、周囲に性的少数者の方がいたり、自分から知人にカミングアウトすることはありましたか?

ないですね。20年以上前なので、それはさすがに。「自分の周りには同じような人がいる」なんて、想像もしていませんでした。就職活動する時も職場でカミングアウトをするっていう想定は全くなかった。「それが可能」みたいなそういう想像さえもつかなかったです。

■カミングアウトして「体が軽くなるなって感じました」

インタビューに応じる永田龍太郎さん

--その後、広告代理店などを経てGapに入ってカミングアウトしましたね。

そうですね。社内に「Zero means zero(ハラスメントは全て認めない)」というルールがあって、その中にその性的指向もしっかり入っていました。実際にカミングアウトしている従業員が、アメリカ本社も日本もたくさんいたので、逆に拍子抜けしたほどでした。同僚も「あの人はパートナーさんと、旅行に行ってたんだって」といった話を普通にしているので、呆気にとられました。「LGBTがごく当たり前のことで、それが何か問題になることだとは誰も思っていない」というその空間に驚いたんです。

--確かにそういう雰囲気だとカミングアウトしやすいですよね。

カミングアウトしても何もない。不利益もないので「想定問答集でいちいち回答しなくっても別にいいかな」と思うようになりましたね。

--それでカミングアウトしたら何が変わりましたか?

体が軽くなるなって感じましたね。やはり精神衛生上のストレスが減った気がしました。その後、Gapの中のLGBTのこといろいろやるようになりました。ただ、それはもう1つ別次元のカミングアウトで、同僚に対してカミングアウトしているっていう日常会話の話とは違いました。お仕事でゲイとしてプロジェクトをリードしていくっていうのは、やっぱりランチタイムに「ゲイの友達みんなで旅行に行ったんだよ」っていう話が出来るのとはちょっと訳が違う。社会的なカミングアウトなので、そこには守られた自社の外の世界から受けるかもしれない差別の恐怖を乗り越えるといった心理的なハードルがあって、ガクブルするところはありましたね。

--それでも引き受けたのは、どうしてですか?

ゲイであることをオープンにしている当事者として、LGBTコミュニティの中でいろんなご相談をいただくようになりました。そういった団体から「Gapさんは、アメリカではLGBTフレンドリーだから日本でも何かサポートしてもらえたりしないか」と相談を受けるようになったんです。個人レベルでお断りするのも勿体ないような話もあったので、社としての判断をちゃんとしてお返しした方がいいんじゃないかと思いました。それで当時の上司らにビジネスに関するトピックとしてと相談したのが、社会的カミングアウトのきっかけです。

流されての社会的カミングアウトではありましたが、こんな状況下の日本でこんなチャンスは二度とないかもしれないし、ちょっとリスク取ってでも頑張ったら何かLGBTコミュニティの力になれるかも、という思いも実はありました。

--ちなみに、ご家族にゲイであることをカミングアウトしたのはいつですか?

実は2016年の6月なんで、ごく最近ですね。渋谷区に転職するにあたって打ち明けた格好ですね。マスメディアも注目するでしょうし、渋谷区の同性パートナーシップ証明書など一連の取り組みに関連して私のことがメディアで報じられる機会も増えるでしょう。それであれば、家族に人づてに伝わるのではなく、ちゃんと報告をした上で次のステップに進まなければいけないと思いました。

--永田さんが理想とする社会は、どういうものでしょうか?

カミングアウトしなくて良い社会ですね。現在はカミングアウトしないと生きづらい状況がそこにあります。打破するためにカミングアウトして、いろいろな物をはねのければいけないのが今の状況です。でもLGBTであってもなくても、生きやすさに差がなくなれば、LGBTという言葉もなくなり、カミングアウトする必要のない社会に繋がっていくと思うんですね。

「自分の性別をどう考えるか」とか「誰がどう好きか」というところで、全く区別や差別されない社会になって欲しいです。それが本当の意味での平等だと思います。今は「あえてのカミングアウト」をする必要がありますが、それを「過渡期のことだった」と、振り返れる時代が来てほしいと願っています。

■永田龍太郎さんのプロフィール

1975年、福岡県生まれ。東大教養学部卒業後、広告代理店の東急エージェンシーに就職。2002年にルイ・ヴィトン日本法人のPR担当を経て、2007年にGap日本法人に入社。ゲイであることをカミングアウトした上で、同社のLGBT事業を牽引する。2016年9月に退職、3年間の任期で渋谷区男女平等・ダイバーシティ推進担当課長に就任した。

【※】永田さんに渋谷区役所に転職した理由を聞くインタビューを1月2日に掲載しました。

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