森信雄七段の引退決まる 故村山聖九段を育てた「将棋界の名伯楽」は偉大だ

夭折の天才棋士・故村山聖九段など、これまでに11人のプロ棋士を育て上げた「将棋界の名伯楽」の業績を振り返る。
日本将棋連盟公式サイト

将棋の故村山聖九段の師匠として知られる森信雄七段(65)の引退が5月16日、決まった。この日、関西将棋会館(大阪市福島区)であった竜王戦6組昇級者決定戦で大橋貴洸(たかひろ)四段(24)に敗れ、40年間の棋士生活に終止符を打つ。

名人戦の順位戦に参加しない「フリークラス」に所属する森七段は定年(65歳)を迎えており、この日の対局が現役最後の対局となった。

■「将棋界の名伯楽」 森信雄七段とは

森七段は1952年、愛媛県旧伊予三島市(現四国中央市)生まれ。家は貧しく、高校卒業後は大阪に出て工場勤めをしていたという。そんな中でも、小学5年で覚えた将棋だけは続け、19歳で奨励会を受験。1976年、24歳でプロデビューを果たした。

その後、竜王位の経験がある糸谷哲郎八段や初代叡王の山崎隆之八段ら多くのプロ棋士を育成。「将棋界の名伯楽」の一人として知られる。その門下は、所司和晴七段の門下とともに「東の所司、西の森信」と、名門として称えられる。

特に有名なのが、一番弟子だった夭折の天才棋士・故村山聖九段(1998年死去、享年29)とのエピソードだろう。村山九段の棋士人生は、映画化もされたノンフィクション『聖の青春』でよく知られている。故村山九段にとって、羽生三冠は「最強のライバル」。当時は「東の羽生、西の村山」と並び称されるほどだった。だが、幼少のとき診断された腎臓病「ネフローゼ」が村山九段を苦しめた。

そんな村山九段を支えたのが、師匠の森七段だった。

森七段は、村山九段が13歳の時から指導。自分の部屋で村山九段と同居し、身の回りの世話はもちろん、看病もした。師匠は弟子のために、ある時はマンガを買いに行き、ある時はパンツまで洗った。近くの定食屋に通う二人は「妻に逃げられた親子」のようであったという。

1995年の阪神・淡路大震災では、門下の船越隆文さん(当時17歳、奨励会2級)が亡くなった。福岡県出身の船越さんは、もっと将棋に打ち込もうと宝塚市の森七段の自宅に近いアパートで一人暮らしを始めた。だが、震災で建物の下敷きとなり、帰らぬ人となった。

朝日新聞(2006年1月17日夕刊)のインタビューに対し、森七段は「誘惑の多い大阪より宝塚に住む方が将棋に専念できる」と勧めた親心があだになったと悔やむ。「この地に住み弟子を育て続けることで、船越君の無念を少しでも背負いたい」と、毎年1月17日を「一門の日」として、門下とともに船越さんが住んでいた震災跡地で慰霊を続けている。

これまでに森七段は11人のプロ棋士を育て上げた。2014年12月には村山九段の弟弟子に当たる糸谷哲郎七段(当時)が、当時の森内俊之竜王に勝利。棋界最高峰の竜王位を獲得した。森七段も「村山君が果たせなかった打倒羽生世代を、糸谷君がやってくれた」と大いに喜んだ。

2017年に没後20年を迎えるのを前に、改めて村山九段の棋士人生が注目されている。森七段は2016年11月、映画『聖の青春』公開記念のイベントで村山九段との思い出を振り返りながら、こう語っている。

競争が厳しい時代の中、村山君の人柄にはほっとするものがある。どんなに深刻な場面でも何か間合いがあって、ゆったりしたところがある。そんなところが今の時代に合うのかという気がします。
(朝日新聞2016年11月26日朝刊・神戸版)

与えられた運命というのは、いくら怒鳴っても腐っても変わらない面があるのなら、気落ちするより、それをエネルギーに変え、何か自分に合っているものに向けて生きていった方が絶対にいい。
(朝日新聞2016年11月26日朝刊・神戸版)

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