障害者と一緒にワインを造り続けたアメリカ人「期待することが大事。ハンディと考えず本気でやってもらう」

「ココ・ファームはソロではなく、いろいろな人が一緒に造るオーケストラ」

栃木県足利市にある「ココ・ファーム・ワイナリー」(関連記事「慈善ではなく、おいしいから」障害者のワイナリー「ココ・ファーム」収穫祭を訪ねて)。ワイナリーに隣接する障害者施設「こころみ学園」の園生と様々な職種のスタッフが、ブドウを栽培したりワインを造ったり、一緒に働いている。「能力を生かし、それが仕事になる」というのは、障害の有無に関わらず大事なことだ。喜びを持って働く姿を、連載で紹介する。1回目はアメリカから園生の中に飛び込み、ワイン造りの技術を伝えたブルース・ガットラヴ(55)さんの物語。

ブルース・ガットラヴさん

■ ニューヨークでワインと出会う・カリフォルニアで学ぶ

ワインとの出会いは、植物生理学を勉強していた大学生のとき。大学のホテル経営部門であったテイスティングコースに友人と参加した。出身のニューヨークは、ワイン市場のトップ3に入るぐらいワイン好きが多いという。地元のワイン酒屋で働くうち虜になり、造ってみたいと思った。カリフォルニアの大学院に進んでブドウ栽培と醸造を学び、1984年にワイナリーで働き始めた。ワインの品質向上のため畑や醸造の責任者と話し、造りたいワインへの道をオーナーに助言するコンサルティングの仕事をした。

ココ・ファームは84年に醸造を始め、国産だけでは足りなくなってアメリカにブドウを求めた。ブルースさんの大学院の同級生がココにブドウを提供していた縁で紹介され、勤めていたコンサル会社で休みをもらって89年に足利へ。初めは半年の約束だった。「自分が知った世界と違って、言葉も文化も、景色や気候も違う。つかまるところが一つもなく、頭の中が真っ白でした」

ただ、知的な障害のある人たちが働いていると聞いて興味を持っていた。クリスチャンの両親から「人間はお互いに助け合うのが基本」と教えられていたし、アメリカでは障害者が働くワイナリーはなかった。「ワインは人を喜ばせることができるけれど、なくても困らないぜいたく品。それを造る仕事は、社会のために意味があるのかと疑問もあったので、大好きなワイン造りをしながら社会的な役割もあるのはいいアイデアだと思いました」

■ 醸造から着手、園生とはボディランゲージ・「言葉が上手でない同志、伝わった」

「仕事しよう」と思っても、何から始めるか。1日目。ココの蔵で作ったワインを飲んでみましょうと、できるだけたくさんの種類の栓を抜いてもらった。赤・白・ロゼ、どれも甘い。当時、日本のワインは甘いものが多かった。学園の園長・川田昇さんに「どうですか」と聞かれ、「悪くはないけれど、どれも甘い。西洋ワインは、辛口のほうが多くて、飲み飽きないし食事と合わせやすい。辛口で作ったほうがいいでしょう」と助言した。

いいブドウの栽培は後回しにした。気候も土壌もカリフォルニアと全く違って、栽培方法も違うし、進歩させるのが難しいと考えた。まず、醸造する蔵内の技術から取り組んだ。働いている学園の園生やスタッフには、掃除をしっかりやってきれいに保つことを教えた。ワインが醗酵するとき、雑菌が増えると味がずれるという。また、添加物を使わず、最低限のもので、自然の力を生かすよう伝えた。

園生と一緒に掃除をして、機械を回してブドウを仕込む。やり方はボディランゲージで見せた。ビンを洗ってほしければ、園生の後ろに回って一緒に洗って、こういうことですよと教え、底も洗ってラックに逆さまにして次のビンを取る。一緒に体を動かしてやった。「園生は言葉に頼らない人が多くて、私も日本語ができないからコミュニケーションがとりやすかった。先生(スタッフ)に質問されても、逆に考えすぎて言葉が伝わりませんでした」。職員寮で生活し、食事も一緒にした。「お風呂だけは、アメリカでは一緒に入らないスタイルだったので、別にしてもらいました」

■ 時間かけて日本を知りたい・米のコンサル会社辞め舞い戻る

当初、約束した半年が終わった。「もっといたい」という希望が出てきた。思ったより大きいプロジェクトで、半年ではそんなに変わらない。現在のワインと、理想のワインについて話そうにも、スタッフにどんなワインを造りたいか説明できなかった。ブルースさんの提案で、それまでと同じブドウのまま、すべて辛口のワインにした。だが、お客さんには「まずい」「酸っぱい」と言われ、評判が悪かったという。「私が日本のワイン文化を知らずに造ったから、そういう結果になった。もっと日本について勉強をしないと役立つアドバイスはできないと悩みました」。プロの醸造家に対するコンサルと違うし、日本の気候や品種を知り、しばらくいないといい結果は出ないと思った。

いったん帰国してコンサル会社を辞め、ココに戻ってきた。アメリカのコレクションから海外のワインを持参し、園長やスタッフに飲んでもらった。ブドウ畑を観察し、契約農家の畑も見に行った。日当たりのいい場所があっていいブドウができれば、そこだけ分けて限定ものを造ろうと提案したり、作業は一生懸命にやっているかチェックしたり。

ワイン造りに大事な、ブドウが熟しているかどうかを知るのに努力した。カリフォルニアに多いシャルドネやカベルネソーヴィニヨンといった種類は食べてわかるけれど、日本の品種は熟しているか、未熟なのかわからない。頻繁に畑に行って実をつまみ、熟している状態を知った。すでに着手していた蔵内の作業も、さらに進めた。

■ 障害をハンディと考えない・「仲間として本気でやってもらう」

そのうち、「栽培も醸造も、園生にもっとやってもらいたい。一人ひとりの才能や本能を生かしたい」と考えるようになった。学園は、ブドウのほか、シイタケや野菜も作っていた。「朝起きてご飯を食べると、先生が話し合って誰が何をするか決めるのが、当時の学園のスタイル。私は、毎日、入れ替わりではなくて、この仕事はこの人と固定してほしかった。そこで、畑と醸造でチーム分けして、それぞれ上手な人にやってもらいました」。うまくいくと思ったけどできなかったり、先生が「この人はできるよ」と教えてくれて試しにやったら抜群の仕事だったり。挑戦を繰り返した。「頑固な性格の人もいて、最終的には私が頭を下げてやってもらうしかなかったです」

ブルースさんは、障害をハンディキャップと考えなかった。「最初に学園と1つだけ約束したのは、ワインを造るなら本気でやってもらうということ。障害があるからという言い訳は使わないで、精一杯やってもらう。同じ会社で働いている仲間だから。私こそ日本語が使えなくて、心で思うことも伝えられず、ハンディキャップに近かった。そういう意味では園生と同じで、なじんでいました」

障害のある人と対等に接する中で、時には厳しいと思われることもあった。「人に期待して、チャレンジしてもらわないと、いい仕事はできません。障害があるからと特別扱いではなく、私と一緒に仕事する。これは、ケアする側の先生たちとぶつかり合ったところです。先生は、園生がちょっとせきをすると念のためと休ませて病院に連れていく。私は腹が立って、ちょっとしたせきなら働けるでしょ、仕事なんだからと言いました」

■ 北海道に移住しワイナリーと畑・若いスタッフを見守る

時にぶつかり合いながらも絆を深めた。剪定、袋かけ、ビン詰め...園生はそれぞれに得意な仕事を見つけていった。理想とするワインは最初の5~6年でできたという。その間、ブルースさんは、日本のシーズン以外はオーストラリアやニュージーランドに行ってワイン造りの勉強をした。次第にココのワインは評判がよくなり、生産量を増やした。醸造の技術が磨かれた一方で、天井にぶつかった。もっといいワインを造るには、もっといい原料が必要だった。海外の原料が多かったが、「日本のワインは日本のブドウで造るべき」と思って、契約農家を増やし、栽培の方法を検討した。

そこで後回しになっていたブドウ畑にやっと入って、ゼロから考えた。オーストラリアから栽培コンサルを呼び、栽培法を見直した。90年代の終わりに、新しい品種を入れて品質が上がったという。

ブルースさんは96年、日本人の女性と結婚し、家庭も築いた。2009年には北海道に移住。「完全にやり切れてはいないけれど、ココが知られるようになりスタッフも増えた。熱心な若いスタッフに任せてもいいぐらいの余裕ができたので」。ワイン造りに、1つの正しい方法はない。「どんなワインを造りたいか、自己表現で芸術でもある。同じ原料で始めても別のものができる。スタッフが、ブルースのやり方を守らないと...と遠慮してしまうなら、私は下がったほうがいいと思いました」

新緑のブドウ畑

■ ワイナリーはオーケストラ・委託醸造で応援

なぜ北海道を選んだのか。ココは2006年から完全に国産のブドウでワインを造っていて、さらにブドウ畑を増やしたかったが、周辺の土地は高い。もともと各地に契約農家があって様々な土地のブドウを知っている。ココを応援しながら、自分が飲みたいワインを造るには北海道だと思った。

「ココ・ファームはソロではなく、いろいろな人が一緒に造るオーケストラ。スタッフの皆さんに新しいプロジェクトをやりたいと相談しました。イタリアやフランスへの移住も考えましたが、日本でいいブドウが作れるとわかっていますし、国内なら妻にも活躍してもらえるので」

ブルースさんは家族で移り住んだ岩見沢市で、合同会社「10R(とある)」を始めた。野菜畑だったところをブドウ畑にして、醸造所を構えた。農家から委託を受け、ブドウをワインにして農家に売り戻す。いずれは農家が自らワイナリーを持って独立してもらう目的だ。北海道にあるココの契約農家とやり取りもするし、ココで販売するワイン「こことある」シリーズを造る。

「初めは北海道の雪に驚きました。真冬が寒くブドウの苗が枯れてしまうので、地元ならではの対策を教わりました。夏は涼しく、湿度が低くて雨が少ないのはブドウ栽培にいいですね」。ココの取締役は継続し、今もほぼ毎月、足利を訪れる。技術面で指導する必要はないというが、スタッフの悩みを聞くのも大事な仕事だ。

【ココ・ファーム・ワイナリー】

1950年代、地元の教師だった川田昇さんが、知的障害がある生徒と一緒に山の急斜面を開墾し、ブドウ栽培を始めた。69年、障害者の施設「こころみ学園」ができる。現在は入所を中心に18歳~90代のおよそ150人がいる。「園生が楽しく働ける場を」と、80年に保護者の出資でワイナリーを設立。約20種、年間20万本のワインを製造。ワイナリーが学園からブドウを購入し、醸造の作業を学園に業務委託する。ワイナリーのスタッフは30人。

なかのかおり ジャーナリスト Twitter @kaoritanuki

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