内川聖一、監督の父と目指した甲子園「こんなもんだろうと思うと、それ以上はない」

ソフトバンクの内川聖一選手。高校野球はすべてが新鮮だった。尻を大きくして強さを見せるために、スライディングパンツにタオルを縫い付けてはいた。

ソフトバンクホークスの内川聖一選手=福岡市中央区地行浜2丁目のヤフオクドーム、長沢幹城撮影

監督の父と目指した甲子園 タカ・内川「何事も貪欲に」

甲子園出場をかけた球児たちの戦いが今年も始まった。高校時代に大分工野球部で甲子園を目指し、いまはプロ野球福岡ソフトバンクホークスで活躍する内川聖一選手(34)に当時の思い出などを聞いた。

「この場所で野球ができたらすごいんだろうな」

初めて甲子園に行ったのは、小学5年の時。1993年夏、父が監督を務めていた大分工が45年ぶりに出場し、初戦を観戦した。最初はスタンドの上の方で見ていたが、途中から1歳下の弟と一緒に父が指揮をとるベンチのすぐ裏まで移動した。大歓声がアルプス席でこだましていた。

父は東京六大学、社会人を経て、郷里の大分で高校野球の指導者。小中学生の頃、雨で練習が休みになると、バッティングセンターに連れて行ってくれた。幼い頃から野球しかなく、野球が当たり前だった。

父と甲子園を目指すために大分工への進学を決めた。だが、入学前に父から言われた。「他の選手と実力が五分と五分なら絶対に使わない。10人の選手がいたら、10人がお前がうまいと言わないとだめだ」

金属製の歯が入ったスパイク、大きく名前を入れた全身白の練習着――。高校野球はすべてが新鮮だった。尻を大きくして強さを見せるために、スライディングパンツにタオルを縫い付けてはいた。

監督としての父は厳しかった。ミスが続いたり、声が出ていなかったりして逆鱗(げきりん)に触れると、最初のウォーミングアップから練習をやり直しさせられた。

外では「内川先生」と呼び、家では話をしない。夕飯を一緒に食べなくて済むよう、帰宅をずらした。

高1の秋、左かかとの骨が溶ける「骨嚢腫(こつのうしゅ)」を患った。3度の手術を受けて約3カ月入院し、生まれて初めて野球から離れた。「恵まれた環境にいたことを痛感した。より真剣に野球と向き合うようになった」

高2の春ごろ復帰。追って弟も進学してきた。高校野球漬けの3人を母が支えた。「家族4人で甲子園」が目標になった。

2000年7月、主将として臨んだ最後の大分大会。甲子園切符をかけて決勝を中津工と戦った。

序盤から互いに点を許さない展開。しかし五回、無死満塁から3点を失った。4番で臨んだが、安打は1本も打てなかった。チームは1安打に封じられ、0―4で敗戦。「力を全部出し切ったと思う」。そう言葉を残し、夏は終わった。

プロ野球選手になって、初めて甲子園のグラウンドに立った。ベンチから見たアルプス席やバックスクリーン。球場全体を見上げるような感覚だった。「高校時代に来ていたら、どんな感じに見えただろうか」

夏が近づくと、自然と高校時代を思い出す。

試合に勝った時の喜び、負けた時の涙。一球で試合の流れが変わり、一球で勝負が決まる。厳しいトーナメントを全国の人が応援してくれる。高校野球には、3年間という期間限定でやるからこそのすばらしさがあると思う。最後の夏から17年。甲子園に出場できなかった悔しさよりも、懐かしさが募る。

球児へメッセージがある。「可能性は自分が決めることではない。こんなもんだろうと思うと、それ以上はない。何事にも貪欲(どんよく)に取り組んでほしい」(藤山圭、甲斐弘史)

〈うちかわ・せいいち〉 1982年8月4日、大分市生まれ。大分工高で、野球部監督だった父一寛さんの指導を受ける。2000年秋のドラフト1位で横浜(現・DeNA)に入団。ソフトバンクにFA移籍した11年に史上2人目のセ・パ両リーグでの首位打者に輝いた。WBCでも第2回大会で日本の連覇に貢献し、3大会連続出場。右投げ右打ち。185センチ、90キロ。

(朝日新聞デジタル 2017年07月17日 15時47分)

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(朝日新聞社提供)

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