戦艦大和の光学兵器はニコン製だった。創業100年、苦闘の歴史を振り返る

世界的なカメラメーカーのニコンは、7月25日に創業100年を迎える。第二次大戦の敗戦で大ダメージを受けた軍需企業が、カメラメーカーに転換。朝鮮戦争で復活したという日本経済の縮図のようなニコンの歴史を紐解いてみよう。
時事通信社

世界的なカメラメーカーのニコンは、2017年7月25日に創業100年を迎えた。第二次大戦の敗戦で大ダメージを受けた軍需企業が、カメラメーカーに転換。朝鮮戦争で復活したという日本経済の縮図のようなニコンの歴史を紐解いてみよう。

■戦艦大和の「15メートル測距儀」とは?

ニコンの始まりは、大正初期の1917年。三菱財閥の4代目総帥、岩崎小彌太の個人出資で設立された「日本光学工業株式会社」だ。光学製品のほとんどを輸入に頼っていたが、第一次世界大戦で輸入が途絶、光学機械の自給自足体制の確立が急務となっていた

日本光学は日本軍との関係が深く、ライフルの照準器や望遠鏡など、軍事用の光学機器(光学兵器)を数多く生産した。中でも著名なのが、世界最大の戦艦「大和」と「武蔵」に搭載された光学兵器「15メートル測距儀(そくきょぎ)」だ。日本光学は製造を担当した。

大和と同型の戦艦武蔵の艦橋。最上部で左右に張り出している突起が「15メートル測距儀」

「大和」と「武蔵」は口径46センチという巨大な主砲を持っており、その射程は約40キロに達した。砲弾は放物線を描いて飛んでいくために、砲撃対象との距離を正確に計る必要がある。そのために、全長15メートルと巨大な測距儀が必要となったのだという。

二つの対物レンズで取り込んだ画像を重ね合わせて距離を測るのだが、当時の金額で40万円で今日の数億円に相当するという。

■94%の従業員をリストラして再出発

日本の軍需産業として大発展した日本光学にとって、第二次大戦の敗戦は痛かった。日本光学は双眼鏡やカメラなどの民生用光学機器の生産に事業転換。終戦時に2万5000人を擁したマンモス企業は、約1500人に縮小。実に94%の従業員を解雇する大リストラだった。

歴史的な役割を終えたかのように見えた日本光学が終戦から3年目の1948年に発売したのが、同社初のフィルムカメラ「ニコン I型」だった。現在まで続くカメラブランド「ニコン」はここに始まった。

オーストリアのオークションで約4600万円で落札された「ニコン I型」

1950年、日本光学のレンズ「ニッコール」はアメリカの写真週刊誌「ライフ」のカメラマン、デービッド・ダンカンが絶賛。「すごいシャープなレンズだ。いったいどこのレンズなんだ?」と驚き、朝鮮戦争の従軍取材で大活躍した。

同誌の別のカメラマン、カール・マイダンスは朝鮮半島に行く前日になって愛用のドイツ製カメラ「コンタックス」のシャッターが故障。やむを得ず日本光学の「ニコンS」を持って出かけた。摂氏マイナス30度の朝鮮北部ではカメラの故障が相次いだが、ニコンSのシャッターには問題がなく、その写真が「ライフ」の表紙を飾った。

ダンカンらのアメリカ写真家協会が選ぶ1950年度の最優秀写真賞「U.S.カメラ賞」に輝いた。戦場という過酷な環境の中で抜群の信頼性を発揮した「ニコン」は、アメリカで大反響を呼び、一躍世界的なカメラメーカーに仲間入りするきっかけとなった。

■7年ぶりの赤字に転落

そんな歴史を持つニコンだが、売り上げの約6割を占めるカメラ事業で苦しんでいる。スマートフォンに搭載されたカメラが一挙に普及したことで、コンパクトカメラの市場が急速に縮小したからだ。

共同通信によると、ニコンの2017年3月期決算は、最終損益が71億円と7年ぶりの赤字に転落。ニコン本体と国内グループ会社で希望退職者を募ったところ、想定を超える1143人が応募、3月末に退職した。これは国内の社員の約1割に当たる。

戦後の苦難の時期を乗り越えたように、ニコンが再び不死鳥のように復活できるのか。注目される。

参考文献:

小倉磐夫『カメラと戦争 光学技術者たちの挑戦』(朝日新聞社)

神尾健三『ライカにおいつけ! 戦後日本カメラの技術者の回想』(朝日ソノラマ)

【関連記事】

注目記事