超自然的な力を信じた「日本の戦争」 歴史家・磯田道史さんと僕たちのたどった道を考える【戦後72年】

歴史学者の磯田道史さんは、「日本は、これまで避けてきた問題と向き合い、同時に歴史的な時間軸で物事を考えないといけない時代に突入した」と語る。その真意とは。

「学校で教わる『歴史』って、暗記ばっかりで面白くないんです」。かつて予備校の教壇に立っていた頃、私は学生からそんな愚痴をよく聞いた。

でも、それで「歴史」を食わず嫌いしてはもったいない。「過去」を学べば、「いま」を知ることができ、より良い「未来」をつくるヒントが見つかるかもしれない。

2017年8月15日、終戦から72年を迎えた。今年は日本国憲法の施行から70年の節目。「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法(テロ等準備罪)や、200年ぶりとなる天皇陛下の譲位を可能にする特例法も成立した。いま、戦後の枠組みは、大きく変わりつつある。

歴史学者の磯田道史さん(国際日本文化研究センター准教授)によると、ある国の人々が持っている「くせ」や「たたずまい」、あるいは「国民性」は、100年や200年で変わるものではないという。それを知るヒントが、故・司馬遼太郎の作品にあると、磯田さんは指摘する。

国民的作家だった司馬がこの世を去って、はや20年。「歴史の流れ」や「国民性」を知り、いまの社会を見つめ直せば、この国の未来をより良くする「手がかり」が得られるのではないか。そんな思いに駆られながら、司馬作品の読み解き方と意義を磯田さんに聞いた。

磯田道史さん

戦後72年、なぜいま「司馬遼太郎」なのか

——磯田さんは5月に『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版新書)という本を出されました。出版の狙いは何でしょうか。

この500年くらいの日本の歴史を振り返ったとき、現代の日本人にもっとも影響を及ぼしているのが、司馬遼太郎さんの歴史観であろうと思います。

そういう歴史家は、司馬遼太郎さん以前では頼山陽(らいさんよう)や徳富蘇峰(とくとみそほう)が挙げられます。日本史の上ではだいたい100年に1回くらいは歴史観に影響を与える歴史家が現れるわけですね。

簡単に言えば、司馬遼太郎さんの小説で描かれている歴史を"鏡"として、日本史を学ぶきっかけにするという本です。

左から頼山陽、徳富蘇峰、司馬遼太郎

教科書が「無味乾燥でつまらない」と感じるのであれば、司馬遼太郎さんの小説を読むと良いでしょう。ただ、そのままではスルメと一緒。噛む回数が2、3回だと味が十分に出ません。

しかし、司馬遼太郎の作品は小説にすぎない。これを歴史、史実として理解するには、歴史家の案内による「司馬リテラシー」が必要です。NHKで司馬作品の解説番組を頼まれたことをきっかけに、放送テキストとして書いたのが本書『司馬遼太郎で学ぶ日本史』です。いくぶん加筆しましたが。

とはいえ、司馬さんはよく資料も読んだ上で小説を書いているので、噛めば噛むほど味がでます。この本を読んで司馬遼太郎を読むと、だいたい2、3回噛んだよりは、10回20回噛んだくらいの味が出てくる。そういう触媒みたいな本にしたつもりです。

戦後、日本は「フィクション」の中で暮らしてきた

——今の時代の日本人が歴史を学ぶ意義は何ですか。

2017年あたりから日本は、これまで避けてきた問題と向き合い、同時に歴史的な時間軸で物事を考えないといけない時代に突入しました。

世界の歴史も、新たな段階に入った。これまでアメリカと旧ソ連の超大国があり、その次に自由市場経済の国々のG7が力を持っていました。いま世界は絶対的な権力がない「G0(ゼロ)の時代」になろうとしています。「中心なき世界」が生まれようとしているんですね。

世界はG0(ゼロ)の時代になろうとしている

21世紀の半ばにかけて、アメリカ、ヨーロッパ、ロシア、中国、インドという、5つの「地域の核」が出来上がりつつあります。これらは、すべて域内に核兵器が存在します。どこかの国が別の国々を圧倒する、ということが起こりにくい状況になりつつあります。

そんな中で、日本人はこれまでのように「アメリカに守られている」というフィクションの中では暮らしていくことができなくなりました。北朝鮮のミサイルを完全に迎撃できるか分からない上、アメリカはトランプ大統領の外交施策で、「世界の警察官の座」を降りようとしています。

世界情勢だけでなく、社会の不透明さが増す時代、日本人は、歴史など現実の経験をもとに、現代の状況を判断していくことが迫られます。

戦後、日本はフィクションの中で暮らしてきた(1970年代の銀座)

自分たちの「政府」「権力」の成り立ちを知らないといけない

——たしかに、歴史を振り返れば、今の社会の「根本」が分かりますね。

日本に「公(おおやけ)」という権力が、どのようにできたのか。まずは、織田信長から戦後に至るまで、その「流れ」を1本の糸で体系的に見ることが必要です。新著『司馬遼太郎で学ぶ日本史』は、まさに、そういう意図で書いたものです。

世界をみるまえに、自分たちの「政府」や「権力」というものが、どのようにできあがってきたのだろうということを知らないといけない。

それには司馬さんの本が1つの視点として役に立ちます。なにしろ、日本人の歴史観に、この時点で、最も影響したものですから。この司馬遼太郎の作品を入口にして、この強風吹く世界史の中で「自分の国・政府は、どのようなできあがり方をしただろう」という1本のタテ糸を張ってほしい。糸の切れた凧になって漂流しないよう、みんなで共通の知識の基盤を持とう...そんな気持ちが大きいですね。

——今までの日本社会は十分に歴史と向き合ってこなかったのでしょうか。

戦後の日本は、安全保障など軍事の問題、核の問題、そして天皇の問題を避けてきました。さきほど「フィクションの中で生きていた」と言いましたが、大学では軍事の研究は、一応は本格的にしないことにしてきました。

あるいは、天皇についても、時間軸を考えないものだから「天皇が老いて仕事ができないようになる」ということは、戦後日本では、考えないことにしていた。明治時代は、皇室典範をつくるときに、この問題を議論するだけはしています。

2016年8月、天皇陛下は譲位を望むお気持ちを表明した

不透明な時代を迎えたいま、日本社会は、色々な価値観に基づいて、様々な考えがせめぎ合ってる状態だと思います。ある人は「安全保障を強くせよ」と言い、ある人は「共謀罪を盛り込んだ法律で、テロの驚異に対処すべき」と言う。「日本の周りにあるアジアの国々が強くなるから、対抗するため日本も強く出るべきだ」という考え方もある。

そして、それぞれに対する反論も根強い。「安全保障を強化すれば、日本の周辺国を刺激して、緊張関係が生まれる」「日本は依然として非核三原則を守るべきだ」「ドイツのような国、ヨーロッパの人権等を国際原則とする国々と仲良くしていこう」という考えも、もちろんあるわけです。

どの考えが正しいか分からない中、それぞれのテーマについて、広く考え、歴史を見つめ直す必要がこれまで以上に出てきたのだと思います。

歴史観をもって世の中を見るのに役立つ「司馬遼太郎の目」

司馬遼太郎(1970年10月)

——司馬遼太郎の小説の背景には、戦争体験がありました。

司馬さんは、満州で実際に死にかけたという意識が、心の中で強かったのでしょう。まるで「走る棺桶」というような、薄い装甲の戦車に乗せられて、ソ満国境で死ぬ思いをしている。

吉林省・四平の基地の戦車隊で、司馬さんは戦車隊の隊長をなさっていた。本部決戦に備えて栃木県の佐野というところへ移り、22歳で終戦を迎えた。そんな中で、「公とは何か」ということを見つめたのだと思います。

1939年ノモンハン事件(ハルハ河東岸の前線へ向かう日本軍戦車)

32歳で作家デビューした司馬さんは後に、「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐しています。終戦時、若い戦車隊の将校だった自分への手紙だったのです。

もう平成も四半世紀が経ちました。戦争を体験した人も少なくなってきた。そういう私たちが、歴史観をもって世の中を見る際には、「司馬さんの目」というものを借りて考えるのも、きっかけの1つとして良いかと思います。

——司馬遼太郎は、織田信長 豊臣秀吉 徳川幕府 明治までの日本の歴史を『国盗り物語』『花神』『坂の上の雲』などで描きました。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明治天皇

司馬さんは戦後の歴史が出発するまでの過程を、小説で説明したのだと思います。織田信長や豊臣秀吉のところから始めたわけは、戦国時代のきっかけとなった「応仁の乱(1467〜1477年)」があったからでしょう。

南北朝時代から応仁の乱の間で、日本の秩序は粉々に砕かれた。たとえば室町初め、近江の武将だった佐々木道誉(ささきどうよ)という人がいます。門跡寺院だった妙法院の美しい紅葉の枝を部下に折らせたところ、僧とトラブルに。すると道誉は手勢を連れて寺に殴り込みをかけた。そこにいた皇族の男の子は、顔が腫れるまで殴りつけられた。

こうなったらもうどうしようもない。自分ファーストもいいところです(笑)。

とにかく何でもあり。応仁の乱では、東軍方から西軍方に寝返った大将もいた。だいたい1300年代の後半〜1400年代半ばですよね。この100年間で日本はほとんどの秩序を破壊し、そこから力の世界、暴力の世界に入っていきますね。

応仁の乱

もちろん、全てが暴力の世界かというとそうではなかった。朝廷とか天皇とかいう権威は細々ながらに残っていた。

その状態で、また約100年過ぎて、1500年代の半ばに火縄銃が普及する過程で、もう1度秩序が回復していった。火縄銃というのは中央集権の権力を作りやすい戦(いくさ)の道具です。

そこから発生した数々の地域権力が、日本を統合していった。信長、秀吉、家康が作った権力体が、やがて江戸幕府になりました。

——歴史を学ぶとき、時代ごとにバラバラに勉強してしまいがちですが、織田信長から今に至るまでの日本の権力構造をとらえ直すと、視点が深まりますね。

憲法発布略図 橋本(楊洲)周延画(1889年)

歴史は続いているのです。江戸幕府の「頭」の部分が、よく似たような権力構造である「天皇」にかわり、明治新政府が発足しました。日本は、それを西洋風の法治国家、立憲国家に変えていくという作業をやった。

ちなみに、司馬さんはこの時代を日清戦争・日露戦争をテーマにした『坂の上の雲』で描き、最後に『この国のかたち』で、近代日本を破綻に至らしめた原因が「統帥権」というものだったと特定しました。

統帥とは、(中略)「軍隊を統べ率いること」である。(中略)英国やアメリカでも当然ながら統帥権は国家元首に属してきた。むろん統帥権は文民で統御される。軍は強力な殺傷力を保持しているという意味で、猛獣にたとえても良い。戦前、その陶酔機能を、おなじ猛獣の軍人が掌握した。しかも神聖権として、他から喙(くちばし)がはいれば、「統帥干犯」として恫喝した。

(司馬遼太郎『この国のかたち』より)

明治憲法はいまの憲法と同様、明快に三権(立法・行政・司法)分立の憲法だったのに、昭和になってから変質した。統帥権が次第に独立しはじめ、ついには三権の上に立ち、一種の万能性を帯び始めた。統帥権の番人は参謀本部で、事実上かれらの参謀たちはそれを自分たちが"所有"していると信じていた。ついでながら憲法上、天皇に国政や統帥の執行責任はない。となれば、参謀本部の権能は無限に近くなり、どういう"愛国的な"対外行動でもやれることになる。

(司馬遼太郎『この国のかたち』より)

「良い」「悪い」ではなく「なぜ、そうだったのか」を考えないといけない

磯田さんは、「僕は司馬さんに対して異論もあります」と語る

——歴史家である磯田さんが、司馬遼太郎の小説という「フィクション」を題材に歴史を解説するというのは意外です。

これまで歴史家が司馬遼太郎をまったく取り上げなかったわけではありません。ただ、その取り上げ方が多くの場合、近代史の部分だけを取り上げていたのですね。どうしても明治以後のことを取り上げて、司馬さんの歴史観は「大衆が抱きがちな歴史観を批判している」と分析するパターンのものが多いんです。

一方、私は司馬さんがなぜそういうことを言ったのか、考えました。戦国時代からの「司馬史観」の内容を検証していきましたね。

僕は司馬さんに対して異論もあります。例えば、司馬さんは「昭和から日本がおかしくなってきた」とおっしゃっています。そこは司馬さんと私では歴史観が違う。明治から「おかしくなる芽」は十分にあったと考えています。

それで、僕は『司馬遼太郎学ぶ日本史』ではなくて、司馬遼太郎を入り口に日本史を学ぶということで、『司馬遼太郎学ぶ日本史』を書いたわけです。

——「明治から『おかしくなる芽』は十分にあった」と。具体的にはどのような萌芽ですか。

そもそも軍隊というのは、たいてい上に対して責任が強く出るものです。そこは日本も西洋と近いのですが、いわゆる人命に対する考え方というのが日本と欧米で全く違います。ヨーロッパやアメリカの軍はめったにしないに違いない、特攻攻撃を、日本では国家が組織的におこないました。

日本軍は天皇への責任、上の方向への責任というのは非常に強かった。しかしながら、下方向への責任、住民や部下に対する責任、部隊に対する責任をとった大将というのは少なかったのです。

陸軍では今村均(いまむらひとし)大将という立派な大将がおられます。半藤一利さんもおっしゃるけど、上への天皇への責任で切腹した軍人はたくさんおりますけれど、下に対する責任を最後までとろうとした陸軍の大将というのは、今村大将を除いては非常に少なかったわけです。

今村均・陸軍大将。秀でた統率力や戦略眼、戦中・戦後の高潔な振舞いから「名将」との評が高い。

——なぜ、「上の方向への責任」が強かったのでしょうか。

「主君への忠義」を重んじた、戦国時代から江戸時代の武士集団の社会構造が大きく影響しているのだろうと思います。ただ、それを「良い」「悪い」で論じてはいけない。

——善悪で論じてはいけない、と。

明治以降、戦争の際に出された「宣戦布告の詔勅」についてもそうです。

これらの詔勅は、「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ...」という言葉ではじまります。つまり、「天皇は戦いに勝つため、天の助けを生まれながらに持っている」と宣言してから戦争を始めます。「天の助けがあるから勝てるんだ」と。

開戦の詔書(左:日露戦争、右:太平洋戦争)

これも「非合理だ」と笑うことは簡単なのですが、太平洋戦争中、日本軍は超自然的な神の力に守られている集団であるということを固く信じていました。非常に精神的にモチベーションを高め、勇敢に戦った。そういう軍隊だったという事実は見なければいけない。

それが「良い」「悪い」と断じるのではなくて、「なぜ、そうだったのか」を考えないといけないからです。

歴史を学ぶ目的は「普通の人の状況を良くするため」

——超自然的な力を信じる明治時代の日本について、司馬さんはどう描いてきたのでしょうか。たとえば『坂の上の雲』では、明治時代を非常に合理的な時代、リアリズムの時代として描いたような印象を受けます。

日露戦争(1904〜05年)の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を破った参謀・秋山真之も、「日本の軍には天の助けがある」「天皇の率いる軍は、天佑を保有している」といった超自然的な研究を大真面目にやっています。彼は愛媛・松山藩の出身で、武士社会の伝統の中で育った人です。でも、司馬さんは少なくとも小説の中では、そんなに直視していない。

秋山真之

ただ、「僕たちがこれまでどういう道を辿ってきたのか」「僕たちは、今後どういう道をたどるのか」ということを考えると、司馬さんは面白い問題を提起してくれている。その点はさすがだなと思います。

司馬さんの問題提起を活かしながら、歴史的に日本が失敗した事例、非常に上手くいった事例をバランス良く見て、将来に生かすことが大事だと思います。

——磯田さんは古文書を読み解き、その当時何があったかを研究されています。特に、一般の人や歴史に名前が出てこない人の古文書も扱いますね。司馬遼太郎の作品で目立つのは、英雄の歴史です。

私のように一次資料や古文書を自分で解読でき、庶民の歴史を普段読み解いている人が、英雄の歴史を書いてきた司馬遼太郎さんの話を論じるというのは意義があったと思います。結局のところ、人口的な比重は一般の人の方が多いわけです。

歴史を学ぶ目的も、普通の人の状況を良くするためにあると僕は思っています。「リーダーの参考書」としての歴史も存在するかもしれませんけれど、普通の人の生活を向上させるということも、僕は歴史の目的だと思う。

普通の人の生活状況が、どういう状況になったらどうなってきたか。そういう歴史は、やっぱり興味がありますよね。

——日本社会全体が、歴史と向き合う意義が見えてきました。では、私たちが個人として歴史を学ぶ意味はなんでしょうか。

基本的に強い経済というのは、人間の脳の中からしか生まれません。そうなると学校教育も大事ですが、家庭教育も重要になってきます。親から子へと伝えられていく知識というものがありますが、本を読んだり、知識を広く求めたりしていく習慣というのは、これまでの文化習慣などに依る面が大きい。

世代間を超えて知識が高く、それが所得へと反映してくる。国民や国家の強さにつながっていく。これが世界史の厳しい現実です。

僕は大学で教え始めたのが90年代の後半でしたが、だんだん大学の授業の感想が「好き」「嫌い」などの直感的なものになってくるのを感じました。「どうして好きか」「どうして嫌い」「どういう要素について、自分が好き嫌いを判断する材料であるか」などが論理的に書かれることが少し減っているような気がしています。由々しきことですよね。

日本人は深く考えなくなった。いや、本当は深く考える力はあるはずなんです。世界でも最もありそうなんです。これだけ勉強しているのですから。だけど、何かの判断の時に深く考えない。柳田国男も言っていますが、「隣の人がこう言っている」「世の中はそんなもの」といった同調圧力に引きずられやすいのは、日本人の課題点です。

歴史を学ぶことによって、目の前の事象や世界の潮流を様々な角度から見つめ直し、大きな決断のために深く考えるという習慣はつくはずです。いまのような不確実な時代、ますます重要になっていく姿勢だと思います。

磯田道史(いそだみちふみ)1970年、岡山市生まれ。2002年、慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。専攻は日本近世社会経済史・歴史社会学・日本古文書学。現在、国際日本文化研究センター准教授。『武士の家計簿』『殿様の通信簿』『日本人の叡智』『龍馬史』『歴史の愉しみ方』『無私の日本人』『天災から日本史を読みなおす』など著書多数。

『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』はNHK出版から発売中。

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