「入学辞退します、子どもができたから」ジェンダーの第一人者が、それでもキャリアを諦めずに済んだ理由

「国際女性デー」特別対談 大崎麻子さん×長野智子「ハフポスト日本版」編集主幹
Ryan Takeshita

元国連職員。途上国支援、ジェンダー、女性のエンパワーメントの専門家。「サンデーモーニング」のコメンテーター。

大活躍の大崎麻子さんだが、最初は国連やジェンダーに高い関心があったわけではなかったという。妊娠が判明し、大学院への入学を辞退しようと決意したこともあったと明かす。

大崎さんは、国連を辞めて日本に帰国後、シングルマザーとして2人の子どもを育てることになった。育児と仕事の両立のため、フリーランスとして働きはじめたところから、どうやって日本のジェンダー論の第一人者になったのか。

3月8日は国際女性デー。20年来の友人であるハフポスト日本版編集主幹の長野智子と、ニューヨークでの出会いやこれまでの歩みをふり返る。

(左)大崎麻子さん(右)ハフポスト日本版編集主幹の長野智子
Kaori Sasagawa
(左)大崎麻子さん(右)ハフポスト日本版編集主幹の長野智子

出会いはニューヨーク

大崎:当時、私は国連開発計画(UNDP)にいたんです。日本政府がUNDP内に設立した、途上国のジェンダー平等と女性のエンパワーメントを推進するための基金のマネージャーをやってたんです。

世界中でいいことをやってるのに、日本の人は誰も知らない。日本の税金、ODA(政府開発援助)をいただいているのに、という思いがあって。長野さんがニューヨークの大学院に通われていると知って、アドバイスをいただけたらと思ってご連絡したんです。

長野:私はフジテレビのアナウンサーで、バラエティのイメージだったから、「死ぬまで報道の仕事はできない」って平気で言われてた。

どうしても報道がやりたくて、仕事を辞めてリセットして、アメリカに行ったんです。そんなときに大崎さんがホームページにメールをくれて。国連で初めて2人で会うことになったんだよね。

大崎:私の中では、長野智子といえば、「ひょうきん族」。小学校の高学年の頃から見ていて、長野さんといえば、「すごくかっこいい、働く、若い女性」の象徴だったんですね。思いきってメールしました。

Ryan Takeshita

長野:テレビが、一番影響力がある時代だったからね。

当時、「めざましテレビ」のオーマイニューヨークの中継コーナーのレポーターをやっていたので、フジテレビのクルーを紹介して、最終的に一緒にグアテマラに行って、日本の基金で支援していた女子教育プロジェクトの活動を紹介するVTRを作ったんです。

大崎:長野さんがボランティアでレポーターを引き受けてくださって。制作はフジテレビにお願いしたんです。

一緒に謎の液体を飲んだ

長野: 一緒にグアテマラに行って、マヤ民族の山奥の学校を訪ねて。小学校の低学年は男の子と女の子が半々くらいで、みんな楽しく勉強していて。

そこで、謎の液体が給食の時間に配られたんですよ。

大崎:バケツから先生が汲んで配ってるんですけど、あれは、普通は飲まないんだけど...。長野さんが「私もいただきまーす」って。

長野:子どもたちが「どうぞー」って持ってきてくれるから、断るわけにもいかないし、「ありがとうー!」ってゴクゴク飲んだら、国連の人が駆け寄ってきて「飲んじゃいましたか!」って。

大崎:人に伝えるってこういうことなんだな、さすがプロって(笑)。

長野:麦芽飲料みたいな味。おなかは幸い大丈夫でした(笑)。

Ryan Takeshita

大崎:低学年はそんな感じなんだけど、高学年の教室に行くと、女の子は20人中3人になっていて。「なんででしょう?」と、女の子の家を訪ねて行ったりしました。「小学生の女の子が働きゃいけない、なんとかしなきゃいけないね」って。

長野:大崎さんは、その後もフジテレビのクルーとカンボジアにも行ったよね。途上国は何カ国くらい担当したの?

大崎:私が関係したプロジェクトは大体60カ国くらいですね。

でも、そもそも私、途上国のことはそんなに関心がなかったんです。大学でも開発を勉強したわけではなかったので、申し訳ないという気持ちがありました。

大学4年生で、「結婚したい」

長野:大学ではどんなことを学んだんだっけ?

大崎:大学では、比較哲学と宗教学。コロンビア(大学院)も本当は国際メディアを専攻するつもりで入学しました。報道の道に行きたいなと思っていたので。

長野:勉強している最中に、結婚されて?

大崎:大学時代に津田梅子が卒業したことでも有名なフィラデルフィアの女子大に留学して、そこでも哲学とジャーナリズムを勉強していました。

(留学の)最後の方で、近隣の大学院に留学していた男性と知り合ったんです。私は日本に帰国し、その彼はニューヨークで働くことになり、遠距離恋愛。結婚したらニューヨークにいけるかと思って(笑)。

それが大学4年生の時。

長野:親に言ったら、それはもう大反対だよね。

大崎:親に「結婚したい」といったら「ダメだ」と。

母は常々、「社会に出て、働いて、自立しなさい」「経済力をつけなさい」と言っていました。

母と父は、大学の「ジャーナリズム研究会」のサークル仲間だったんです。自分と一緒に活動していた男子学生は、新聞社や出版社やテレビ局に就職していくのに、女子学生は当時、募集すらなかった。悔しかったと思います。

男女雇用機会均等法が制定されたのは、1985年でしたよね。

長野:私は85年入社で、フジテレビアナウンサー初めての正社員採用ですよ。それまで、女性アナウンサーは契約社員だったの。

Ryan Takeshita

大崎: 母からも、「あなたがちゃんと自立して生きていけるようにと思って、留学もさせたのに、なぜ結婚という束縛に飛び込むの?」「まずは社会に出て、数年でもいいから働いて、それから結婚しても遅くないんじゃないの?」って言われましたね。

今なら、そのときの母の気持ちが痛いほどわかりますが、当時は舞いあがってしまって。それで、苦肉の策で、「大学院」。

親は「そこまで言うなら」と折れて。

それで結婚して、コロンビア大学に受かったのでニューヨークに行って。ところが、大学院が始まる直前に妊娠していることがわかりました(笑)。

長野:衝撃的に計画通りにいかない。

大崎:国際電話で母に報告したら、絶句していました。「子どもが生まれたら、親としての責任が伴う。自分だけの人生ではなくなるのよ」と言われ、その後、しばらく音信不通に。

息子が生後2カ月の時に実家に連れて帰ったら、急にバァバになりましたけど(笑)。

「入学辞退します」と言いに行ったら...

長野:でも本人は幸せだったでしょ?

大崎:やっぱり、複雑ではありました。母が言う通り、結婚しているだけなら自由に働けるけど、子どもが生まれたらさすがに「働けないかもしれない」と思いました。だからコロンビア大学の事務局に「入学辞退します。子どもができたから」って言いに行ったんです。

日本だったら、「そうですか」で終わると思うんですけど、事務局の方は「なんで?」て聞いてくれて。「妊娠しました」って言ったら、また「なんで?」って聞かれて。

「うちの学校はね、妊娠中の学生もいれば、子育て中の学生もいる。なんであなただけが、(学問と育児を)両方ともできないのか論理的に説明しろ」って。

たしかに、合理的に説明できなかったんですよ。「だってそうなんだもんって」っていうレベルでしか説明できなかった。まさにジェンダー規範ですよね。

長野:妊娠や出産は、大学をやめる理由にならない。

大崎:その人がいなかったら大学院に行ってなかったかもしれない。

それで通うことにしたんだけど、ジャーナリズム系の授業は実習が多く、つわりが酷くて、無理と思って。また「やめる」と言いに行ったんですよ。

そしたら、「他の専攻科目でもいい」と言われて。日本の常識だったらありえないですけど、国際メディア専攻で受かってるのに「別の専攻に替えてもいいよ」と。

国際公共政策の大学だから、専攻分野は、メディアもあればビジネスや途上国の開発もある。安全保障はわかんないから、消去法で「人権だったら、私も人間だし、わかるかも」と。

今思えば、開発がまさにドンピシャリの分野なのですが、当時は興味がなかったので、国際人権・人道問題を選びました。

授業に出てみたら、本当に、世界の紛争地域や難民キャンプなどの最前線で、人権侵害の問題に真摯に取り組んでいる人たちばかりでした。私は何の経験もないし、そこまでの情熱も知識もなかったので、授業中は身を潜めてましたね......。

1学期が終わって休学して、息子を産んで。なんか世界平和に目覚めちゃった。

「やっぱりこれだ!」って。

長野:子どもを産んだことで、勉強にのめり込んでいったのね。

大崎:子どもって日々変わっていくんですね。目を合わせて笑うようになる。寝返りができるようになる。

そんな様子を目の当たりにして、授業で習った世界人権宣言の第30条がぱ〜〜っと頭に浮かびました。

「どんな国にも、集団にも、人にも、この宣言でうたわれている自由と権利を奪う権利は無い」と書いてあるのですが、「そうだー!」って。

人間ってものすごい力を持って生まれてくる。その伸びていく力を押さえつける権利は地球上の誰にも本当にないな、と思っちゃったの。息子がちっちゃいときに。

Ryan Takeshita

長野:想定外の状況が今の麻子ちゃんを作った。どっちかっていうとハプニング、ハプニングだね。

大崎:計画してたわけじゃないんですよね。こういうキャリア構築のあり方を「ドリフト型」っていうんだってね。漂流しつつ、いろんな経験とか出会いでスキルを身につけていく。

「私には向いてない」人権侵害も紛争も、しんどかった

長野:国連で働こうと思ったのは、人権を勉強してから?

大崎:大学院の時に、インターンしなければいけなくて。みんなは夏休みを利用してコソボだ、アフリカの難民キャンプだって散って行くんですけど、さすがに、息子がまだ1歳だったので、そういうところには行けない。

指導教授が「国連本部でいい? バスで通えるよ」って推薦状書いてくれて。3カ月間、国連の人権センターでインターンをしたのがきっかけですね。

長野:そこで、これだなと思ったの?

大崎:いや思わなかったの。

インターンが最初にやることって、国連に届いた人権侵害を告発する手紙を見て、どういうタイプの人権侵害かを分類する仕事だったんです。拷問とか拘禁とか拉致とか、そういうの読んで、写真も見たりして、これちょっとしんどいなと。

その後にユニセフでもインターンをさせてもらって。当時、武力紛争が子どもに与える影響の関する大規模な国連の調査が行われていました。私の仕事は、様々なレポートを被害の種類別に分類すること。地雷被害とか、性暴力とか、少年兵とか。

想像を絶するようなレポートを読み、当時、2歳の息子の姿が重なってしまって、毎日わんわん泣きながら作業していました。

やっぱりこれは私には向いてない。人権侵害に対応するって本当に精神的なタフネスが必要だなと思って。国連の政務部に大学の先輩がいたので「この仕事は無理かも......」って相談したら「じゃあ開発にしたら?」って言われて。

「開発っていうのは、貧困をなくすことによって、紛争や人権侵害を予防しようっていう前向きなアプローチだから、麻子ちゃんはそっちの方が合ってるんじゃない?」って言われて。

長野:開発に行ったら、ピタッときた。

大崎:そうそうそう。

UNDPに入って、ジェンダーの部署が日本の基金のマネージャーを探しているということで、そのポストに就くことになったんですね。

どうしても「ジェンダーや女性問題に取り組みたい!」という強い気持ちがあったわけではなかったんです。もちろん、今ではライフワークですが。

仕事と育児家事の限界、国連を辞めて帰国したら...

長野:日本に帰ってくることになったきっかけは?

大崎:(国連)在職中に、2人目を生んだんですよ。

子どもひとりだと出張もマネージできたんですけど、2人になったときにやっぱ大変で。娘を連れてよく出張も行ってたんですけど、それなりに責任のある仕事も増えてくる。

そうなると、常に疲れているというか。朝も早いし、給食とかないからお弁当だし。マンハッタンで子ども2人連れてバスに乗って通勤するの大変なんですよ。

あとは、ニューヨーク州では、子どもが12、3歳になるまでひとりで留守番させてはいけないと指導されます。小学生低学年の子どもがひとりで出歩くこともありません。だから、学校の送り迎え、サッカーの送り迎え、お友達のお家で遊んだら送り迎え、とにかく送り迎え。

長野:ワンオペ育児だったの?

大崎:その時はまだ(笑)夫もいましたけど、朝早いし夜も遅い仕事だったので、基本平日は私だったかな。

大変だなと思ってたときに、その夫が日本に転勤のオファーがきたから、その道を選びたいって。

今はワークライフバランスを踏まえたが評価に変わったと思うんだけど、2000年に入ったあたりは、子どもがいる人いない人、みんな同じ土俵で評価されたからやっぱり厳しかったですよね。

Ryan Takeshita

しんどいなと思ってた時に、日本に帰るという話があったので、一番信頼していたエチオピア人の上司に相談したら、「子どもが小さい時期は数年。一時的に子育てに専念する時期があってもいいんじゃないかと思う」と。

「キャリアは取り戻せるけど、子どもが小さいときの時間は取り戻せない。子育ての経験も絶対仕事に生きるし、国連での経験を活かせば、細々とでも仕事は続けられるはず」と言ってくれて。

長野:キャリアは取り戻せるって、そうじゃない人も日本にはいっぱいいる。でもおっしゃる通りだよね。取り戻せるんだったら最高だよね。

大崎:国連という組織でしか働いた経験がなかったから、日本で働いてたらまた全然違ったと思うんだけど、「あ、そっか」とそのときは思って。

長野:それで国連のキャリアを辞めたんだ。大きな決断だったよね。いくつの時?

大崎:33くらいですね。

長野:私がアメリカに行った歳だ。ところが日本に来たら離婚。

大崎:そうなんですよ。

長野:まだまだドリフト人生は続く。思った通りに進まない。初めて働く日本で、本当によくここまでやって来たよね。エチオピア人の上司が言ったことと「話、違うじゃん」と思ったことはなかった?

大崎:「またいつか、一緒に仕事しよう」って送り出してくれたのに、半年経たないうちに、「一人で育てていくことになった......」って連絡したら、「日本のシンポジウムをする。東京でコーディネートしてくれる人を探してたから」といってくれて。「準備のために一度ニューヨークに来て」って呼んでくれて、すごく落ち込んでたときに息子と2人で行ったんです。

会って言われたのが「Congratulations! Now you are a liberated woman.」(おめでとう! あなたは自由な女性になったのね)。

エチオピア人の上司とか私より年上の女性の同僚とか、シングルマザーも多かったけど、お子さんはみんな立派に育ってるわけです。私も大丈夫かもしれないって思えましたね。

ただ、日本では、母子家庭は差別されるんじゃないかという心配もありました。

長野:私たちそういう時代だったんだよね。私の母はずっとシングルマザーで、7つで父親が亡くなったので、私の母はずっとシングルマザーで。就職の時に、死別でも母子家庭はいい会社に入れないと言われてた。

母子家庭だといわゆる商社とか銀行に入るのは難しい時代ですよ、80年代は。テレビ局は、今は大企業だけど、当時は上場もしてないし、中小企業だったから大丈夫だった。

Ryan Takeshita

大崎:全く根拠のない偏見であり、差別ですね。

でも、そのときは、母親である私が社会的に信用度の高いところに就職しないと、子どもが肩身の狭い思いをするんじゃないかと思っちゃったんです。

国連時代のツテを辿って就職活動をしたのですが、やっぱりどこも「残業がある」って言われるわけです。

子どもにとっては、ニューヨークから東京に引っ越しただけでも環境の激変なのに、さらに4人家族が3人になってしまった。

上の子は5年生、下はまだ3歳。これで私も長時間労働で子どもたちと過ごす時間が減ってしまったら、子どもたちへの影響は計り知れないなと思い、「これはもうフリーランスしかない」と。

UNDPのときに、日本の基金のマネジメントを担当していたので、その時のネットワークを通じて、UNDPの東京事務所や外務省やJICAでジェンダーに関する単発の仕事をいただき、細々と始めました。

そのときちょうど、日本でもジェンダーが来はじめたなって(笑)。

長野:来はじめた(笑)。

大崎:国際社会でジェンダーが大切だっていわれるようになって、日本も途上国の開発支援で、ジェンダー平等の視点や女性のエンパワーメントをちゃんと政策に入れていかなきゃいけない、研修もしなくちゃいけないって時期だったんですよ。

......

"男女格差"は過去のもの? でも、世界のジェンダーギャップ指数で、日本は144カ国中114位です。

3月8日は国際女性デー。女性が生きやすい社会は、男性も生きやすいはず。社会の仕組みも生き方も、そういう視点でアップデートしていきたい。#女性のホンネ2018 でみなさんの考えやアイデアを聞かせてください。ハフポストも一緒に考えます。

大崎麻子(おおさき・あさこ)

女性のエンパワーメント専門家。元国連職員。1971年生まれ。上智大学卒業。米国コロンビア大学で国際関係修士号取得後、国連開発画(UNDP)ニューヨーク本部に入局。世界各地で女性のための教育、雇用・起業支援、政治参加の推進、紛争・災害復興などのプロジェクトを手がけた。大学院在学中に長男を、国連在職中に長女を出産し、子連れ出張も経験。現在はフリーの専門家として、大学、NGO、メディアなどで幅広く活動中。G20、APEC(アジア太平洋経済協力)、ASEM(アジア欧州会合)、国際女性会議WAW! (国際女性会議)など、国際会合への出席や国際調査を通じて世界の動きに精通すると同時に、国内のジェンダー問題や女性・ガールズのエンパワーメント・リーダーシップ教育にも取り組んでいる。

関西学院大学客員教授、聖心女子大学非常勤講師、公益財団法人プラン・インターナショナル・ジャパン理事、NPO法人Gender Action Platform理事、内閣府男女共同参画推進連携会議有識者議員、国連安保理決議第1325号「女性、平和、安全保障」に関する日本政府による行動計画評価委員会(外務省)、国際女性会議WAW! 国内アドバイザー(外務省)。TBS系「サンデーモーニング」レギュラー・コメンテーター。著書『女の子の幸福論 もっと輝く、明日からの生き方』(講談社)。最新刊は『エンパワーメント 働くミレニアル女子が身につけたい力』(経済界)。