LGBTQがあらゆるマイノリティと連帯していくべき理由。美術作家ハスラー・アキラさんと考える

“誰かのために立ち上がる”こと

ゲイの美術作家として多くの作品を発表しているハスラー・アキラさん。彼はまた反差別などの市民運動に積極的にコミットするアクティビストとしても知られている。

その原点は90年代に始まるHIVをめぐる社会運動だった。以来、20数年、HIVやセクシュアル・マイノリティという枠組みを超え、アーティストとしてデモなどの活動に参加し続けるアキラさん。

彼が今日も路上に立ち続ける理由とはいったいなんなのだろう−−−。

オープンリー・ゲイの美術作家、そしてアクティビストとして精力的に活動を続けてきたハスラー・アキラさん。
Takayuki Mishima
オープンリー・ゲイの美術作家、そしてアクティビストとして精力的に活動を続けてきたハスラー・アキラさん。

根本にある差別、偏見への怒り

——もともと政治的な活動に興味を持ったきっかけはなんだったのですか?

京都の美術大学に通っていたころ、大学の先輩でもあるアーティストグループ、ダムタイプ(※)の古橋悌二さんに影響を受けてHIVに関する運動に参加しました。アーティストが社会の中で自分の役割を果たすことの意義、面白さを感じたんです。

——アーティストとしてHIVの啓発活動をすることに社会的意義を見出したんですね。

啓発の必要性というより、HIVをめぐる差別的な社会状況に腹を立てていました。

差別や偏見に対する怒りですよね。差別をなくす流れの中で必要な予防啓発や支援にコミットしたかった。

——その当時から、活動の根本には反差別ということがあった?

差別のバカバカしさということは身にしみてましたから。

僕は父の仕事の都合で2歳から8歳までドイツで育ちました。1970年代初頭のことですし、アジア人は差別されることもあったんですよ。

小学校の中には韓国や中国の子もいて僕らはアジア人ということで連帯してたんです。アングロサクソンの人から見たら、東アジアの民族っていうことで同じように扱われることもあったから。

それが日本に帰って来て神戸で暮らしはじめたら、今度は僕の苗字が張というので、韓国人だとか中国人だとか言われていじめのネタにされた。

——ハスラーさんはどういうルーツをお持ちなのですか?

民族的なバックグラウンドは特別にはないんですよ。うちは古い渡来人の家柄だと思うんです。それも血統としては途絶えていて400年くらい前に先祖がそこに養子に入っている。だから日本人なんですよね。

僕も親も、大陸とか朝鮮半島の血が入っているものと思ってたんですが、家系図を調べたら入ってなくてちょっとがっかりしたことを覚えています。ガッカリするっていうのも変なんですけど。

——そうだったんですか。じつは僕はハスラーさんが張さん(本名は張由紀夫さん)というので在日コリアンだと思っていました。そういう背景もあって反差別に取り組んでいるのかと。勝手な思い込みですね......。

僕のこと在日だとか、他の国の人間だと思っている人は多いみたい。いちいち違うって言うのもめんどくさいし、わざわざ否定したりしないんですけどね。

——その後、東京に来られて2003年には新宿2丁目のHIVに関する情報センター「akta」(アクタ)の設立に関わるなど、2011年まで啓発活動に携わられています。

さまざまな活動に関わりましたがとくに印象に残っているものの1つが2004年から「ぷれいす東京」が始めたリビングトゥギャザー計画です。

そのときに作ったマニフェストがすごく示唆的で、「We are already living together」というものなんです。HIVの問題だけでなく、ほかのマイノリティの問題にも生きてくる言葉だと思います。

セクシュアル・マイノリティもそうだし在日の人、部落の人、障害を持っている人でも見た目で分からない場合もある。だけど、気づかないだけで隣にいる。

何人かで食事をしながら話していて「差別はよくないけど、HIVの人って見たことないんだよね」なんて言う人がいたりする。でもそのテーブルの中にいるんですよ。気づいていないだけで、すでに一緒にいるんです。

インタビューは、ハスラーさんが毎週火曜日にスタッフを務める新宿3丁目のバー「タックスノット」で行われた。タックスノットは造形作家でゲイ・アクティビストの大塚隆史さんがオーナーのゲイ・ミックス・バー。
Sii Udagawa
インタビューは、ハスラーさんが毎週火曜日にスタッフを務める新宿3丁目のバー「タックスノット」で行われた。タックスノットは造形作家でゲイ・アクティビストの大塚隆史さんがオーナーのゲイ・ミックス・バー。

差別的な一部のゲイへの絶望的な思い、そして再び立ち上がるまで

——2011年にアクタをやめて、一度、社会運動から離れていますね。

その頃から、ゲイでも差別的なことを言う人が増えてきて、そういう人たちを見るにつけ、「こんな人達のために自分はこれまでやって来たの?」みたいな気持ちが生まれちゃったんです。

被差別者がまた差別者に成りうる問題って大きな問題なんですね、世界的に。それって傷つきやすい魂や経験がそうさせるのかもしれないし、解決はものすごく難しい問題なのかもしれないけれど。

2000年代の最後の方には「ほんとにひどいこと言う人たちが大勢いるんだ」と自分の気持ちが迷宮入りしているのを感じていました。

——絶望したんですね。

絶望って言葉はあんまり簡単に使いたくないけど、まあそうかもしれないですね。だから僕は一個人、一作家に戻ってなにかやろうかな、と。

そう思っていたら東日本大震災が起きて、友達が「行く」って言うんで一緒に反原発デモに行ったんです。

後々、TwitNoNukes(ツイット・ノーニュークス )と名乗るようになった人たちのデモです。そのデモをツイッターで呼びかけたのがゲイの男の子だった。

面白いのは、後からわかったんですけど、そこで集まった人たちは、じつはTwitter上で前に一回絡んでる人たちが多かったんです。

2010年にイギリスに住んでいるイラン人のレズビアン女性の強制退去を踏みとどまらせようという署名運動がTwitter上で起きていて、それをリツイートして拡散していた人たちなんですよ。

その中にはゲイとかレズビアンの人たちっていうのは僕の知ってる人の中にはあまりいなかったんです。ほとんどノンケ(異性愛者)なの。ノンケなのにこういうことやってるんだとすごくびっくりしたんですよね。

その人たちと(反原発の)デモで出会ってTwitterをフォローしあったら、「あ、このアイコン見たことある、この人もそうだ!」って。

"誰かのために立ち上がる"ことの連鎖が起きている

——イラン人の女性の問題があった時、すでにストレート(異性愛者)もレズビアンもゲイも連帯してたわけですね。自然な形で。

その後、2013年に入ってすぐ新大久保でしょっちゅう行われていたヘイトデモへのカウンターに行ったんです。そこで僕は、はじめてヘイトデモを見て「人はここまで醜くなれるのか」という怒りで、自分の中の何かが沸騰するような思いでした。

それでレイシストカウンターに積極的に参加するようになって忙しくしてるときに、東京レインボープライドから連絡が来たんです。

「ドラァグクイーンとしてパレードのフロートに乗ってくれないか」と。そのフロートっていうのが「オールヒューマンミックス」って名前で、ゲイだけじゃなくいろんな国籍、民族、属性の人たちがミックスで歩く。

「そこに乗るドラァグクイーンは、あなたしか思いつかない」と言われて。そういうことなら意義があるのかもと思って引き受けました。

――始まりは「オールヒューマンミックス」だったんですね。

そうしたらTwitNoNukesとかカウンターのデモを一緒にやってた人がTwitterで拡散してくれて、当日、100人くらいのノンケの人たちが集まってくれたんです。

今でも覚えてるのは、その中に街の不良って感じのノンケの友達がいて、彼はおしゃれだけど喧嘩したら強そうな、反原発やレイシストカウンターで仲良くなった友人なんだけど、彼が泣いてたんですよ。

「どうしたの?」って聞いたら「ずっとこの3年間路上に出たらノーばかり言ってたけど、今日はノーって言わなくていいんだ」と。

「今日はイエスって言っていいんですね」って。それが印象的でね。その流れで次の年、2014年から僕らが「TOKYO NO HATE」としてフロートを出すようになったんです。

——僕は「TOKYO NO HATE」が東京レインボープライドに参加することは意義があると思うんですが、「セクシュアル・マイノリティじゃないのになんでいるのか」と批判する人もいます。

「左翼に東京レインボープライドが乗っ取られた」というようなデマを流す人までいます。実際にはそんなことは全くない。「TOKYO NO HATE」のフロートが出るまでにはさまざまな経緯があったわけですね。

そうなんです。TwitNoNukesの発起人もゲイだし、ゲイの人たちがけっこう一生懸命やってたんですよ。

その流れで今度は在日をはじめとしたエスニックマイノリティに対する差別へのカウンターをやることになって、そこでもゲイやセクシュアル・マイノリティたちが少なからず走り回ってたんです。

その中の1人が今度、レインボープライドでなにかする。「じゃあLGBTQのことを今度は僕らが手伝おうよ」ってノンケの人たちがサポートしてくれた。

——「TOKYO NO HATE」が使っているキャッチフレーズで「Stand up for somebody」(誰かのために立ち上がろう)という言葉があります。連帯というとすごい大ごとのように感じますが、困ってる人がいたら自分もなにかできないか考えるっていうことですよね。

そうなんです。「Stand up for somebody」してくれたわけ。でも、もとを正すと僕たちも「Stand up for somebody」をやっていたんですよ。

誰かのために立ち上がるってことの連鎖が起きているんだと思うんです。それだけのことです。すごく自然なことじゃないですか。「あの時、助けてくれたから、今度、俺が助けるよ」という。

——連帯というか連鎖というか。

お返しですよね。たんにお返しが起きてるだけなんですよ。

反差別をテーマに渋谷のギャラリーGalaxy 銀河系で行われたアート展「STREET JUSTICE - ART, SOUND AND POWER」への出品作品。
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反差別をテーマに渋谷のギャラリーGalaxy 銀河系で行われたアート展「STREET JUSTICE - ART, SOUND AND POWER」への出品作品。

未来を見据え、国を超えて繋がっていく

——さきほどの話に戻りますけど、ゲイでも差別的な人はけっこう多くて、そういう人たちは差別したくて、差別する理由を探してる気がするんです。一方で、そういう人たちも救えるのかな、引き戻してあげられるのかなって思うこともあるのですが。

「不寛容な者に対しても寛容であれ」ということを言ってくる友人達もいます。僕もそういうスタンスだったこともあるんです。でも、日本の至るところで起きているヘイトデモやネット上の差別煽動をみるにつけ、それには限界があるなと今では思っています。

現実に起きていることがそんな助言を軽く凌駕していて、それで自分のことを守ることは出来るかもしれなくても世界はちっとも救われない。

もちろん一方で、自分の大事な友だちがそうなってたら話が違って、僕はたぶん「ちょっとメシでも食おうよ」って誘って話をすると思う。

そして「オマエ、やめろよ、ひどすぎるよ」って言うでしょう。周りの人たちがなんとかしようよ、僕も自分の周りにいる人はなんとかするから、とは思います。見て見ぬ振りをすることが僕には優しさだとは思えないです。

——5月6日に行われる東京レインボープライドのパレードには韓国から「ソウル・クィア・パレード」の皆さんも参加します。韓国でプライドパレードがあれば日本から応援しに行くし、逆に韓国から日本にも来てくれるように絆が強くなっていっていますね。

在日コリアンをはじめとしたエスニック・マイノリティに向けられたヘイトデモに抗議をするなかで出会った人達と、2015年に初めてソウルのクィアパレードに出かけました。

LGBTQの権利を攻撃しているキリスト教右派に対してカウンターをかけたり、もしくは抗いつつプライドパレードを続けようとしたりしている韓国のLGBTQや彼らと一緒に闘う周囲の人たちを応援したいと思ったんです。

そこから出来た縁で去年は、ソウルのゲイのデザイナーにフロートを飾る横断幕と旗を作ってもらいました。そして今年はめちゃくちゃかっこいいフェミニストのDJをソウルから迎えてフロートに乗ってもらいます。

未来を見据えて繋がりながら、セクシュアリティや国籍や、なんだかんだとついてくる様々な属性の垣根を越えて、人や文化がブレンドされることのたとえようもない美しさを目に見えるカタチにしていければいいなと思っています。

ハスラー・アキラ

1969年東京生まれ。京都市立芸大大学院絵画研究科修了。2000年よりAkira the Hustler名義で、国内外の展覧会に出品。2003年には新宿2丁目のHIVに関する情報センターAktaの立ち上げに関わり、2011年までディレクターを務めるなど啓発活動に従事。東日本大震災、原発事故を契機にデモに参加するようになり、様々な社会運動にコミットしている。

※ダムタイプ

1984年、京都市立芸術大学の学生を中心に結成されたアーティストグループ。コンテンポラリー・ダンスや映像表現をメインに活動し国内外で高く評価される。中心メンバーだった古橋悌二は1992年にゲイでありHIV陽性であることをカミングアウト。1994年には古橋の主導でジェンダーやセクシュアリティなどをテーマにしたメディア・パフォーマンス作品「S/N」を発表。現在まで映像記録を通じて支持される衝撃的な作品となる。古橋は1995年、AIDSによる合併症で死去した。

(取材・文:宇田川しい 編集:笹川かおり)