財務省没落の道程、官邸から実権を奪われ経産省の後塵を拝するまで

財務省にとってのピークは「花の54年組」が栄華を極めた香川俊介元次官がいた時代までかもしれない。
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財務省にとってのピークは「花の54年組」が栄華を極めた香川俊介元次官がいた時代までかもしれない。それ以降、経済産業省に"実権"を奪われ凋落の道をたどったからだ。DOL「財務省解体の危機」第3回は、その経緯を振り返るとともに、背景を探る。(ジャーナリスト 横田由美子)

人材の低下を招いた元凶は黄金時代を築いた「54年組」か

「省内のモラル低下、人材の低下を招いた元凶は、2000年代以降、財務省の"黄金時代"を築く礎となった『花の54年組』にあるのではないかと最近思うのです」

離れた距離から、現在の混乱と騒動を見ている元財務官僚は、このように分析してみせた。

霞が関では昔から、優秀でキャラの濃い人材が揃っている期を「花の○年組」と呼ぶ習わしがある。

本記事は「ダイヤモンド・オンライン」からの転載記事です。元記事はこちら

例えば、大蔵・財務事務次官を経て、日本銀行副総裁などを歴任した後、現在は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長を務める武藤敏郎氏が在籍した「花の41年組」には、そうそうたる顔ぶれがそろっていることに驚く。

代表格は、政治家に転身した中山成彬・恭子夫妻。成彬氏は国土交通大臣を、恭子夫人は拉致問題担当大臣などを務めた。接待汚職事件で大蔵官僚としてのキャリアを絶たれたが、京セラの理事や船井電機の最高顧問など、財界で新たな道を築いた中島義雄氏もそうだ。

同じく、武藤、中島と並び称されていた長野庬士氏は、弁護士に転身して、四大法律事務所のひとつである西村あさひ法律事務所のパートナーに就任するなど、実に多士済々が居並ぶ。

「その前を遡ると、まだまだ『花の』はあるのですが、本当の意味での最後は、54年組でしょう。今後、二度とそう呼ばれるような期は出ないでしょう」と、国家公務員試験をほぼトップの成績で通過した経歴を持つ、財務省関係者は語る。

その上で、次のように嘆く。

「良くも悪くも、財務官僚はエリート学生の憧れの職業ではなく、ある程度優秀なら、誰もが手の届く職業になってしまいました。政治家に普通の人が増え、その小粒化に非難が集中していますが、それは官僚も同じこと。良くも悪くもキャラの立つ、スーパーエリートは財務省を目指さなくなった。若手を見ていると、あまりの色のなさに驚くことがありますね。財務省はすでに普通の"会社"になりつつある。もちろん役所なんですが...」

同期3人次官を出し最後の絶頂期に

では、財務省の最後の絶頂期を作り上げ、その後の凋落の原因ともなった「花の54年組」とはいったいどういう期だったのか。

54年組は、木下康司から始まり、香川俊介、田中一穂と第10~12代までの次官職を独占、前例のない"同期3人次官"を成し遂げたことで知られる。それまでに"同期2人次官"というのはあったが、それでも22年組(大倉真隆、長岡貫)、28年組(吉野良彦、西垣昭)、49年組(杉本和行、丹呉泰健)の3期だけ。それぐらい、3人次官というのはレアケースといえる。

54年組には、実はもう1人次官候補がいて、当初、「4人衆」などと呼ばれていた。結果、その1人、桑原茂裕氏は次官を逃すのだが、それでも日本銀行理事となっている。

「極めて同期愛の強い期で、頻繁に会合を重ねるほど仲がよかった一方で、皆に花を持たせようとしたがために、その後の期のモチベーションを下げ、人材が薄くなる弊害が生まれてしまったと言われています」と、幹部の1人は解説する。

小沢一郎氏が発表した「改造計画」の経済政策ブレーンだった香川元次官

次官となった3人は、いずれも早くから将来を嘱望されており、中でも香川は、官僚としての優秀さのバロメーターでもある政治家や、メディアとの付き合いに長けていたことから、今なお、財務省では伝説の存在だ。

「小料理屋のようなお店が好きで、赤坂や神楽坂の路地裏の店に行っては、メディアの人間相手に消費増税の必要性について、丹念に説明する姿が目撃されていました」と、後輩官僚は明かす。

政治家とのパイプは、与野党問わずに若い頃から広かった香川が、一躍その名を霞が関にとどろかせたのは、小沢一郎自由党共同代表がかつて発表した名著「日本改造計画」の経済政策部分でブレーンを務めたことだった。

ただ、香川の人脈はそれだけにとどまらなかった。2009年に旧民主党による政権交代を見越していたのか、国会図書館の会議室などで、野田佳彦・元総理を中心とした旧民主党議員との勉強会を開いていた。当時は、丹呉泰健・元次官が小泉純一郎・元総理の懐刀と呼ばれ、官邸で奉職していた時代。それだけに、旧民主党議員と付き合うのは極めて珍しいことだった。野田元総理と香川氏をつないだのは、野田元総理の後見役だった藤井裕久・元財務大臣だと言われている。

「当然、こうした活動は、丹呉さんたち先輩方の意向も受けたものだったと思います。香川さんたちはこの頃、若手でも見込みがありそうな人間は、どんどん野党の政治家に説明に行かせ、パイプを作らせていた。消費増税の必要性について、政策決定権のある国会議員に広く理解を求めることが一番の理由でした。ちょうど、国政に出馬したいけれど地盤や看板を持たない若手官僚が、財務省からも民主党の候補者として出始めていましたので、そういう人たちとの関係性を切らず、うまくつなぎ止め、また自民党から出馬する若手については、積極的に応援していました」と、当時を知る財務官僚は振り返る。

こうした地道で、長きにわたる努力が実ったのが、2012年の自民・公明・民主党の3党合意による、「社会保障と税の一体改革」での消費増税10%への道筋合意だった。

安倍首相が就任直後から経産省出身者を次々に抜擢

ところが、いくら財務官僚たちがブレーンとして背後から力を貸しても、多くの民主党議員たちは権力の甘い蜜にふれておごり、次々と失態を犯していった。その政権運営の稚拙さに民心は離れ、その年の暮れ、再び自民党が政権を奪取し、圧倒的な強さで安倍晋三首相が誕生する。

基本的に、財務官僚のみならず多くの霞が関官僚は、民主党と自民党なら、「自民党の方がもちろん自分たちの主義主張に合っているが、それはそれ。違う政党が政権に就いても、私見は横に置いてお仕えするのが自分たちの仕事」(前出の財務官僚)と割り切っている。

もちろん香川が率いていた頃の財務省も、政権交代を見越し、野党時代の自民党とのパイプを切るようなことはしなかった。そして、2014年、消費税は8%に引き上げられる。だが、ここが最後の檜舞台だったのかもしれない。

というのも安倍首相は、就任直後から経済産業省出身の官僚、今井尚哉氏を政務秘書官に大抜擢。その後、周辺を柳瀬唯夫・元事務秘書官ら、経産官僚で埋め尽くすようになっていく。前述したように、財務省も野党時代の自民党とのパイプは切らなかったが、安倍首相の復活はないと見てそれほど親交を深めていなかった。ここに財務省の最大の"誤算"があったと見られている。

もう一つの要因として、安倍首相が属していた「清和会」は、長きにわたり外交、安保、憲法改正などを主政策として扱ってきた派閥。一方で、財務省が司る税制などの政策は、財務省出身の池田勇人・元首相が旗揚げした「宏池会」(現岸田派)の分野だったこともある。

"安倍一強"が揺るぎなくなり挽回できなかった財務省

2015年頃になると、"安倍一強"は揺るぎないものとなり、経済政策のハンドリングの多くは、財務省から経産省へ次々と移った。財務省は、表向きの"看板"を保つのに必死だったが、田中一穂・元次官は遅れを取り戻すことができなかった。

この頃から、官邸周辺に出向する財務官僚の口から、「官邸の走狗と化して働いているよ」という自嘲的な発言が聞かれるようになったが、加計学園や森友学園に関する問題も、不祥事の"種"はこの頃に撒かれていた。

そんな折、主税局が35年ぶりに次官の座を主計局から奪う形で、佐藤慎一氏が就任する。2016年のことだった。

「経産省は、この機に乗じて財務省の弱体化を図りたかったでしょうし、安倍首相も財務省の働きに満足していなかった。だから、官邸が主税畑の佐藤さんを押したのは、強い信頼を得ていたというよりも、財務省の"掟"を壊したかったという意図があったのではないでしょうか。官僚は、省内人事に首を突っ込まれるのを一番嫌うからです。しかし、それができたのも、財務省内部の人材難が背景にあったのではないでしょうか」(官邸関係者)

結局、佐藤元次官は目立った功績を残すこともなく、次官の椅子は福田淳一氏へと受け継がれていく。そして、この間、財務省が官邸の冷遇を避けるために"忖度システム"が過剰に機能し、結果として財務省はその身を滅ぼす原因を自ら作り出してしまったのだった。

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