強制不妊手術の問題が今なぜ注目されるのか

「優生保護法」子供を産めなくする国策の愚

日本では1996年まで強制的不妊手術が合法だった(写真:Fast&Slow / PIXTA)

旧「優生保護法」(1948〜1996年)下での強制的な不妊手術が約1万6500件実施されていたことが盛んに報道されている。法律が改定されて20年以上経ち、手術を受けさせられた人の声がやっと表に出てきたことがその背景にある。さらに報道を受けて、全国において記録が確認され、新たな事実が掘り起こされつつある。

一人の女性の行動がきっかけだった

この一連の動きは、2018年1月に宮城県の佐藤由美さん(仮名、60代)が、15歳のときに知的障害を理由に優生手術を受けさせられたことに対し、国に謝罪と補償を求めて提訴したことがきっかけである。

本記事は「東洋経済オンライン」からの転載記事です。元記事はこちら

佐藤さんの義理の姉は、佐藤さんが優生手術を受けていたことを義母から聞いていた。佐藤さんは頻繁に腹痛を訴えたが、それが優生手術の後遺症であることや、本人の同意がないままに子どもを産めなくする手術をされたことに納得がいかず、人権侵害ではないかと疑問を抱いていた。

そんなときに県内の飯塚淳子さん(仮名、70代)が、10代後半で同意がないままに優生手術を受けさせられたことに対して日弁連に人権救済を申し立てたことを知った。そして宮城県に対し、佐藤さんの優生手術に関する情報開示請求を行い、優生手術台帳の記録が2枚だけ開示された。それを証拠として、佐藤さんの意思で提訴した。

実際に優生手術が行われたのは、遺伝性疾患のほか、知的障害、精神障害のある人が多いとされる。手術された人の約7割が女性であること、9歳や10歳で手術された少女や少年も含まれていたことも明らかになっている。

この問題を巡ってはさまざまな疑問が湧く。なぜ、このようなことが法律で定められていたのか。なぜ、こんな法律が戦後の憲法の下で作られたのか。なぜ、改定されて20年以上経ってからこの問題が表面化したのか。

敗戦によって旧植民地を失った日本は、大勢の引揚者、復員者を迎えた。続く第一次ベビーブームにより、人口増加が問題となり、人口増加を抑制する必要が認識されていた。その一方で、食糧難や住宅難などを背景に、違法かつ不衛生で危険な堕胎が頻繁に行われ、女性の健康被害が生じていた。

闇の堕胎による女性の健康被害への対応、急増する人口の抑制政策が必要とされるなか、1948年に制定されたのが、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と謳った優生保護法である。

産婦人科医であり参議院議員であった谷口弥三郎は当時、中絶や受胎調節(避妊)を認めると逆淘汰(優れた生が避妊や中絶によって淘汰されるという考え)を懸念して、受胎調節は認めず、優生学的な理由または母性の生命健康を理由とする不妊手術や中絶を認める法案を策定し、成立させた。

この法律には優生手術(優生学的な理由での不妊手術)の手続きが2種類記載されていた。

1つが本人の同意を得た上での優生手術で、これは成人に限られていた。

もう1つは「疾患の遺伝を防止するため優生手術が公益上必要であると認める」優生手術だった。これが現在、「強制的不妊手術」と呼ばれているものにあたる。

強制的不妊手術の実施件数は1949年から急増し、1950年代半ばをピークに減少に転じたものの、1960年代になっても積極的に実施されていた。その後、1992年の1件が公的な記録では最後である。

1949年には優生保護法において受胎調節が加えられ、経済的な理由での中絶を認める修正も通った。さらに、1952年には審査手続きが簡略化されたために、中絶が急増した。これによって日本は人口増加の抑制を成功させた。そして優生保護法は中絶を認める法律という認識が一般に広まった。

優生保護法から母体保護法への改定

優生保護法から母体保護法への改定は、障害者運動と女性運動を担ってきた団体の活動の成果と言ってよいだろう。これらの団体は、1970年代から、堕胎罪、優生保護法と母子保健法、さらには出生前診断(胎児のうちに遺伝的な疾患や染色体の状態を検査する医療技術)が、女性に障害のない健康な子どもを産むことを押し付け、障害のある女性には子どもを産むなと押し付けてきたことを批判してきた。

1994年にエジプト・カイロで行われた国際人口・開発会議のNGOフォーラムにおいて、DPI女性障害者ネットワークからの参加者が日本の優生保護法と強制不妊手術の問題を発表すると、海外から大きな反響があった。筆者もその場に居合わせたが、政府担当者は優生保護法の問題について理解しておらず、対応に困惑していた。

その翌年に中国・北京で開かれた世界女性会議のNGOフォーラムでは、DPI女性障害者ネットワークなどの女性運動団体が共同で「優生保護法ってなに?」というワークショップを開催し、世界から参加した人々と強制不妊手術についての意見・情報交換をした。

この2つの会議を契機にして、より大きな障害者団体が優生保護法の改正を政府・与党自民党に要請するようになり、1996年には自民党主導で、優生保護法から優生にかかわる条項・文言を削除し、母体保護法に改定された。

ホットラインと声を上げた被害者

優生保護法がなくなっても、それ以前に不妊手術を受けさせられた人々の傷は癒えるわけではない。以下、優生手術に対する謝罪を求める会がまとめた『増補新装版 優生保護法が犯した罪―子どもをもつことを奪われた人々の証言』を参照しながら見ていく。

1997年に、スウェーデンで障害者への強制不妊手術が1976年まで行われていたことが、日本の新聞でも大きく扱われた。この報道をきっかけに、1997年に「強制不妊手術に対する謝罪を求める会」(現在は「優生手術に対する謝罪を求める会」)が結成された。

メンバーの山本勝美さんによると、会は厚生省(当時)に謝罪と補償を求める要望書を提出し、交渉をもったが、厚生省は「優生保護法の下では優生手術は合法であった」とし、「もし、法に則らず本人の同意をとらない手術があったなら、教えて欲しい」と回答したという。それが、「被害者ホットライン」(1997年11月)の開設につながった。

冒頭に紹介した飯塚さんはこのホットラインに電話をかけてきた一人だった。

「どうして私が強制的に『優生手術』(不妊手術)を受けさせられたのか、それが知りたくて、ここ何年か、私は何度も役所に足を運んで、当時の書類や記録を見せてくれと言ってきました」

しかし、県の優生保護審査会の記録はないと言われて見せてもらえなかった。

1998年には全国各地でホットラインが開設された。そのときに筆者は札幌在住だったので、相談員として参加した。ただ、札幌では当時、強制的な不妊手術に関する相談は寄せられなかった。北海道と宮城県は強制的な不妊手術の実施比率が高かったと指摘されている。広報不足は否めないが、相談するかどうかをためらう状況にあった人も少なくなかっただろう。

優生手術が実施されてから長い時が過ぎ、多くの行政記録が破棄されてきた。約1万6500人のうち、さまざまな理由で声を上げられない人たちのほうが多数派である。すでに亡くなった人も含まれるだろう。やっと声を上げてもその証拠となる記録が残されていないという状況もある。

過去に強制的な不妊手術が行われたドイツやスウェーデンでは、被害者への謝罪と補償が行われている。スウェーデンでは裁判を経ずに迅速に補償のための法律が制定された。ドイツでも裁判ではなく連邦議会の判断で救済が決定した。

飯塚さんのように記録が残っていない人も提訴できるようにする救済策が検討され始めている。自民党を含む超党派議員連盟「旧優生保護法下における強制不妊手術について考える議員連盟」も立ち上がった。被害に遭った人たちの年齢を考えると、裁判の判決を待たずに、謝罪・補償をするという英断を国に望みたい。

「補償はいらない、ただ謝ってほしい」

不妊手術に同意した(同意せざるを得なかった)人たちについても忘れてはいけない。

障害者福祉施設を利用していた女性障害者からは、月経時の手当ができない、妊娠したら困るという理由で、施設から子宮摘出を勧められたことが報告されている。子宮摘出は優生保護法も認めていない。この検証が必要である。

1948年生まれの佐々木千津子さんは、脳性マヒのために20歳で施設に入ることにした。その際に月経の処置が自分でできないのを理由に、子宮へのコバルト照射をうけて月経を止めた。この方法は優生保護法でも禁止されている。

筆者は20年以上前に佐々木さんに会ったことがある。そのとき、佐々木さんは施設を出て介助者の助けを借りて猫と自立生活をしていたが、明るく自由な雰囲気が印象的だった。彼女は20歳ごろに、親やきょうだい、施設職員に迷惑をかけないよう、コバルト照射に自分から同意したという。それを聞いたとき、筆者は言葉を失った。

佐々木さんはその処置が「生理をなくす手術」とは知っていたが、「子どもを産めなくする」とは知らなかったと話した。だから「補償はいらない、ただ謝ってほしい」と主張してきたという。それが実現する前の2013年に65歳で亡くなったことが悔やまれる。

また、ハンセン病の回復者は1996年のらい予防法廃止まで、病気が治癒しても療養所を出られなかった。療養所内で結婚することはできたが、優生手術を受けなければ結婚を認めないという規則のために、手術に同意せざるを得なかった。女性が妊娠した場合には中絶するのが当然とされ、それも中絶に「同意」させられてきた。

いずれも優生保護法やらい予防法があったために、そのような状況に追い込まれたのである。人権が侵害されている状況下に置かれていた人たちに、「同意した」ことを盾に救済できないという判断をすべきではないだろう。

国が犯してきた人権侵害を省みて、私たちも不作為という罪を犯さない責任があると、筆者は考える。その責任は、負の歴史を記憶し、継承し、同じ過ちを犯さないようにすることで遂行できるだろう。

柘植 あづみ : 明治学院大学教授

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