あの人のことば
2018年08月15日 06時00分 JST | 更新 2018年08月15日 11時24分 JST

《終戦の日》子どもは何と戦ったのか。創刊70年『暮しの手帖』が、いま戦争を伝える理由

「これが戦争なのだ」。生き残った人たちが、君に語りかける。

「家が焼けちゃった」

「食べるものは、じゃがいもの搾りかすだった」

「結婚式は、もんぺ姿だった」

「配給だけの生活で、病人の夫が死んだ」

平成最後の夏、創刊70周年を迎えた雑誌『暮しの手帖』が戦中・戦後の暮らしの体験談を募集し、一冊にまとめた。

応募総数は2390通。そこに記されていたのは、抗うすべもなく戦禍に巻き込まれた、市井の人々の姿だった。

戦争とは、遥か彼方の大陸や海原、島々で起こった戦闘だけではない。家や学校、職場、ふるさと......私たちの手が届くところに、戦争はあった。

「戦後とは、戦前のことだ」と、編集長の澤田康彦さんはつづる。

私たちの暮らしを見つめ続ける『暮しの手帖』は、なぜ今「戦争」をテーマにした本を出したのか? 現代の日本に抱く"危機感"とは。編集長と担当編集者に聞いた。

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(左)『戦中・戦後の暮しの記録』担当編集者の村上薫さん(右)編集長の澤田康彦さん

■原点は、50年前の戦争特集だった。

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『暮しの手帖』1世紀96号 特集「戦争中の暮しの記録」(1968)

ーー平成最後の夏に『戦中・戦後の暮しの記録』が生まれた経緯について教えてください。

村上薫さん:私たち『暮しの手帖』は終戦後の1948年9月にスタートした雑誌です。

創業者の大橋鎭子と編集長の花森安治は、「これからは、一人ひとりが暮らしを大切にして、戦争のない世の中にしよう。そのための雑誌を作りたい」という思いを持っていた。

戦争に反対し、庶民の目線で、暮らしの復興のために立ち上がった雑誌。それが『暮しの手帖』でした。

創刊から19年経った頃、花森は、新入社員の戦争知識の低さに驚き、愕然とした。ちょうど戦後を知らない世代の1年生が社会人になる年ですね。

なんとか風化させないよう、若い世代に戦争の記憶を伝えておくべきじゃないかと、一般の読者に戦争体験談を募集しました。それが1968年8月に刊行された『暮しの手帖』1世紀96号 特集「戦争中の暮しの記録」です。

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(左から)創業者の大橋鎭子さんと初代編集長の花森安治さん。(代官山蔦屋書店イベント「暮しの手帖創刊70周年記念企画『戦中・戦後の暮しの記録』ができるまで」のパネル展示より=2018年8月3日)

<『暮しの手帖』創刊の経緯>


花森安治は戦時中、大政翼賛会の宣伝部で軍部の戦争遂行に関わっていた。このことへの悔いが、『暮しの手帖』の理念に大きく影響したと言われる。


終戦後、花森は『日本読書新聞』編集長だった田所太郎を手伝っていた。この時、編集部には当時25歳の大橋鎭子が在籍していた。


「女の人をしあわせにする雑誌をつくりたい」。そう考えていた大橋が、花森に一緒に雑誌をつくらないかと相談。花森は「戦争をしない世の中にするための雑誌をつくること」を条件に応じた。

ーー50年前に刊行した戦争特集が、原点にあったと。

澤田:僕は3年前に『暮しの手帖』の編集長に就任したのですが、なにをやればいいのか、自問自答する日々が続きました。いまだに迷いはありますが、その中で「戦争」は大きなテーマだと自覚はしていました。

50年前の特集は知っていました。でも、今の時代にいきなり同じようなパワフルな本を出しても皆さんが引いちゃうだろうとも思った。

「あの戦争をどう伝えれば良いのか」を考える日々、50年前に読者のみなさんに送ってもらった原稿が、まだ倉庫に眠っていることがわかりました。

どれも手書きで達筆。ボツになった原稿も眠っていた。「このままにしておくのは、もったいないね。また本にできるんじゃないかな」と、書籍担当の村上と話した。それが一つのきっかけでした。

ーー編集長に就かれた頃、NHKの朝ドラで大橋さんをモデルにした『とと姉ちゃん』もはじまりましたね。

澤田:ドラマがきっかけで『暮しの手帖』がどういう雑誌なのか、私たちももう一度勉強する機会に恵まれました。

暮しの手帖社は小さい会社ですけど、歴史だけはあります。これまでのアーカイブが丁寧に保管されています。それらに触れていくうちに、花森や大橋がどんな価値観で『暮しの手帖』を作ってきたのかを学ぶことができました。

自分たちが「また、戦争の本をつくろう」と思ったこと、『とと姉ちゃん』が始まって、映画『この世界の片隅に』が生まれて、世の中では憲法改正が現実味を増して......そんな全ての状況が、「この本を作れ」と命じているような気がしました。

■「どうしても今残したい、伝えておきたい」 その思いが、筆を取らせた

『暮しの手帖』編集部
最終的には2390通の応募があった。

ーーアーカイブがちゃんと保存されているのは『暮しの手帖』ならではですね。でもそれは使わず、新たに手記を募集した。

澤田:どうせなら50年前の原稿ではなく、また新たに募集できないだろうかと思ったんです。僕の母親は89歳ですが、とても元気で、聞けばいくらでもしゃべってくれる(笑)。

戦中・戦後の記憶を、時系列できっちり語れる、それだけの記憶がある。途中途中は忘れていても、あの時代に体験した苦しかったことや嬉しかったことは、純化された記憶として残っている。

ただ、戦争体験者にはご高齢の方も多い。もはや書く力を失っているんじゃないだろうかという危惧もありました。そこで、「聞き書き」という形の募集もしました。

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「聞き書き」を呼びかけるポスターも頒布した。

村上:20〜30通しか来なかったらどうしようかと思ったのですが、最終的には2390通の応募がありました。多い時には、1日30から40通、締切の日には、340通ほど届きました。みなさん、それぐらい語りたかったんだ、と。

問い合わせも毎日のようにありました。一番多かったのが「鉛筆でもいいでしょうか?」という質問でした。

最初はその理由が分からなかったんです。「もちろん大丈夫です。薄くならないように、ちゃんと読めるようなものであれば、なんでも結構です」と、のんきに答えていました。

ところがある時、「なんで鉛筆ですか?」と伺ったら「手が震えるから、上手く書けない。消しながら、ゆっくり書きたいんだ」と。

『暮しの手帖』編集部
鉛筆で書かれた原稿。

ーーそこまでして、どうしても伝えたいという方が多かった。

澤田:賞金や賞がもらえるからとかではなくて、「今、残しておかなければいけない」という使命のような気持ちですね。後世の者に、自分の体験を伝えなければという純粋な思いを感じました。まだ見ぬ未来の人たちへの、愛情が込められた文章というか。

一人ひとりの体験って、その人しか経験してない。いただいた手紙の数、2390の体験がある。それは間違いなく貴重なものです。机の上だけで想像できるものではない。僕たちはそれをリスペクトしなきゃいけないと一番に思いました。

■死者の「声なき声」を想像しなきゃいけない

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当時描かれたイラストも届いた。

ーー50年前の特集と比べて、今回はどこに焦点を当てましたか。

村上:『戦争中の暮しの記録』は50年前の本です。戦争中の暮らしを支えていた世代の人たちの原稿が多くを占めていました。

戦争中に大人時代を過ごした人の投稿なので、資料性としてはこちらの方が確実に高いなと思うんです。防空壕のサイズとか、どんなふうに暮らしていたかという細かいことの記録としては、前作に分がある。

今回ご応募いただいた方たちは、戦争中は幼かった世代が多かった。子どもの時の話が多いので、学校生活や疎開、戦後の引き揚げの話がとても多かった。

「どうしても今残したい、伝えておきたい」「二度とあのことを繰り返したくない」「自分の愛しい家族に、あんな思いをさせたくない」。その思いが皆さんの筆を取らせた。それが今回の大きな成果だったと思います。

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澤田:一般的に「引き揚げ」とひと言で称されますが、戦争が終わってから本土への逃避行は本当に大変だったと思いますね。そこが突然、異国となった。天国が地獄になった。略奪され、暴行され、殺された人もいる。どれだけの恐怖だったろうか想像もつかない。

これを書けている人は生き残った人です。そして文章も書ける能力や、表現できる環境があったということですね。でもそうじゃない人が大勢いるんです。口にさえできないような体験もあるでしょう。この本の向こう側に、もっと悲惨な出来事、もっともっと深い闇が眠っていると想像するべきだと思っています。

「死人に口なし」と言いますが、死者は体験を残せないわけです。無念を表現できない。だからこそ僕たちは、かろうじて生き残った人の話に耳を傾け、さらに死者の声なき声を想像し、聞かなきゃいけない。

そして、人間って、一回聞いても、それを忘れちゃう。だから何度も繰り返して聞く、繰り返して読まなきゃいけないんです。

■「君と、これから生まれてくる君へ」に込められた意味

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「戦争の悲惨さは、次の次の世代に伝えなければいけない最たるもの」と語る澤田編集長

ーーこれだけ応募数が多いと、着地点をどこに定めるかが難しかったのでは。どうやって方向性を決めたのでしょうか。

澤田:どこに向かう本なのか、指針を立てなきゃいけなかったので、まずは読者に向けての巻頭文を書きました。そこまでに応募作をたくさん読んでいたので、多くの祈りやメッセージを背負って、なにか降りてくるものがありました。

君、忘れてはいけない。

きのう、戦争があったのだ。


昔むかしの物語ではない。ほんのついきのう、流れてきた時間の、うすいドアの向こうに、それは横たわっている。


(『戦中・戦後の暮しの記録』(2018)より)

村上:澤田が書いた巻頭文には、この本のキーワードがいろいろあります。その中から今回の本のサブタイトル「君と、これから生まれてくる君へ」という言葉が生まれました。

澤田:最初は「あなた」に向けて、「です・ます調」で書いていたのですが、もっと激しさが欲しくて、悩みました。

本の冒頭にも掲載しましたが、50年前に花森が書いたリード文を読んでみたら、「あなた」ではなく「君」に向けて書かれていて、これだ!と。

いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持で読むだろうか、それもわからない。


しかし、君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。


できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。


これが、この戦争を生きてきた者の一人としての、切なる願いである。


(『暮しの手帖』1世紀96号 特集「戦争中の暮しの記録」(1968)より)

戦争の悲惨さは、次の次の世代に伝えなければいけない最たるもの。だから「まだ見ぬ君」に伝えていかなければいけない。過去から、現在を経て、未来に向けて伝えたい。これが一番分かりやすいんじゃないかなと。

■この本は、教科書のような歴史本ではない

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ーー本の巻頭で紹介されている写真は、よくある「戦争モノ」にありがちな戦時中のものではなく、あくまで現代の日本が中心ですね。

澤田:どうやったら、より若い人たちに手に取ってもらえるかを考えました。最初は戦争中の写真で......とも思ったんです。でも、それはもう50年前にもやっていますから。

むしろ現代の新宿の高層ビルの風景写真を用意して、そこに戦争の文章を載せるほうがリアルじゃないかと。渋谷のスクランブル交差点の写真で、のんきにみんながワッーと幸せに歩いてるところに、戦争の話をぶつけるとか。

過去と現在と未来の共鳴ですね。時間はずっとつながっているんです。大切にしたのは「あの時代になにがあって、私はなにを見たのか」という、生活者の視点。だからこの本は、教科書のような歴史本ではないんです。

一般の人たちが「あの時、どんな気持ちになったのか」「どんな体験をしたのか」「なにを見たのか」。

全員が、今ではあり得ない体験をしている。それに私たちは耳を傾け、自分の事として読むことによって、その体験を身につけ、次の代に伝えていかなきゃいけない......そういう本にしたいなと思っていました。

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(上)『暮しの手帖』1世紀96号(下)『戦中・戦後の暮しの記録』(2018)より。写真は川島小鳥さんが手がけた。

ーー戦時中にも、暮らしの喜びがある。その様子も伝わってきました。

澤田:中には幸せそうな写真もあるんです。満州で撮影された親子の写真とか、すごい幸せそうでした。ああこの人たちが、あの当時、生きていたんだと。未来を信じて。せつないですね。

村上:この写真は、お父様が関東軍の軍人だったからとても裕福だった。だから、カメラも持っていて、こういうスナップの写真が残っていたんですね。

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澤田:大草原の丘にある瀟洒な建物に住んでいる一家だった。でも、1945年8月15日を境に、逃げなきゃいけなかった。一家は転落していった。

喜んでる顔を見れば見るほど、悲しくなるんですよね。普通の暮らしでも、私たちはこの写真の先に「8月15日」があることを知っている。だからこそ、つらいですよね。『この世界の片隅に』も、そういう構造だと思います。

■戦争が終わっても、苦しみは続いた。

時事通信社
中国からの引揚船「興安丸」

ーー体験談には、怒りを素直に表現されている方もいました。

澤田:もちろん悲しみだけじゃなく、怒りもありました。中には、中国人やロシア人などについて人種差別的な言葉を使って、被害者として書き過ぎているものもありました。

個人的には、完全に被害者になるのは、それはそれで違うんじゃないのかなと思うんです。どこかに客観性を持っていてほしい。

あの戦争というのは、自分のせいではなかった。もちろん子どもでしたから。

けれども、親や祖父母の時代が作ってきた日本について、どんな意見があるのか。そこに触れているようなもの、客観性を少しでも感じるようなものを選びたいという思い、というか願いがありましたね。

村上:終戦後、満州では現地の人々が暴徒化しました。そこに至るまでは、日本人が虐げていたという一面もあった。

そこまでの日々を思いつつ、戦後70年以上を経過したからこそ、客観視できている一文が入っているものに惹かれました。

いつも優しいおじさんが中国人にやたら冷たくてショックだった記憶や、目の前で友だちだけが死んで、自分だけが生き残ってしまった体験もありました。五感で感じた記憶が、素直にそのまま綴られている。

朝日新聞社
旧満州での略奪、放火を伝える新聞紙面。1945年10月17日 朝日新聞(東京本社)朝刊

澤田:そういう原稿がとても大事だと思ったんです。終戦後、帰国する中国の人を見送りに行ったら、窓から手を振るのかと思ったら、自分たちに物を投げつけてきた......とか、そういったことを客観的に描けるかどうかはがとても大事だなと考えました。

ーー今回の本は「戦後」にもフォーカスされています。戦争が終わっても、女性や子どもの視点からみると戦後も大変だった。

澤田:もともとテーマに「戦後」を入れようと思ったのも、僕の母とかが「戦中以上に戦後はつらかった。無秩序になって、食糧不足で冬を迎えて......」と語っていたことがヒントになりました。

戦争そのものは終わったけど、その後も悲劇は続いた。戦争孤児も多かった。そこからよく立ち直れたな......と。

沖縄なんて、いまだに戦争は終わってない。戦後のまま、戦前になってる感じがします。

時事通信社
米軍普天間飛行場の移設先として埋め立て工事が進む辺野古沿岸と米軍キャンプ・シュワブ=26日、沖縄県名護市 撮影日:2018年03月26日

ーー澤田さんは、冒頭の文章で「戦後とは戦前のことである」と記していましたね。

澤田:戦争の話は「やっぱり嫌になっちゃう」という人もいると思います。でも、耳を閉ざしちゃうと危ないんですよね。

権力者は、国民をどうやってうんざりさせるかに長けている。「(投票日)有権者は寝ててくれたらいい」なんて、わかりやすいこと言った政治家もいましたが、それが権力者の本音ですよね。僕らが横着してると、危ういことになりかねない、ということ。

戦後73年を経ても、結局なにも変わってないんですよね。一部の権力者の利益のために、庶民は服従を余儀なくされ、右往左往させられて、利用される。ずっとそれは変わらない。

時事通信社
1948年頃の闇市(東京)

ーー戦中・戦後の家庭や生活を支えたのは、一家のお母さんだった。そういう意味でも、やっぱりお母さんは忙しくても、ちゃんと政治や歴史を学んでいかないといけない。

澤田:かつて大橋さんが『暮しの手帖』を作りたいと、花森さんに頼んだ時のことでした。花森さんは、「今回の戦争は女性のせいではない。女性は被害者で、その女性のための、力強く生きていく雑誌を作ろう」と言ったそうです。

なるほど、そうだなと。『暮しの手帖』は「女性誌」というわけではないんですが、あくまで生活する人のための雑誌を作ろうと決意したものが、いまに至っている。

今回の本をつくるにあたって、当時の女性がどんな目で戦争を見ていたかを感じることができました。(応募のあった原稿には)ずっと耐える者としての表現が多かったなと思います。あの戦争自体は、男社会でなされたもの。73年経ちましたが、ニュースを見ていると、まだ日本は男社会だなって思います。

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「同世代の女性やお母さんに、ぜひ読んでほしいなと思います」と語る村上さん

村上:私の世代も子育てがみんな忙しい。自分と同世代の女の人に向けて一生懸命にこの本をつくった面もあります。

子どもを持つと、いきなり女の人って変わりますよね。そんな同級生たちをたくさん見て、美しいなと思っていました。

(この本を通じて)同級生の子たちの、先の安全を考えるようになりました。同世代の女性やお母さんに、ぜひ読んでほしいなとは思います。

『暮しの手帖』編集部

ーー根本には、庶民の目線が貫かれていますね。暮らしに根ざす雑誌を作ろうという目線が、今回の本にも通底しています。

澤田:戦争の話は重いので、より広く届けるためには、ポップな見せ方や売り方も大事です。もちろん、読むと泣いてしまうようなこと、大変なことがたくさんあって、「これを教科書として読みなさい」という面はあるのですが、それを言い過ぎるとみんな引いちゃう。

当時の食べ物の話など、読むと可笑しいこともあったり、可愛らしかったり、庶民の暮らしぶりを伝える素敵な話や笑える話もありました。でも、その塩梅は非常に難しいですね。

■「戦後とは、戦前のこと」と思って、間違いない

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ーー「伝える」仕事をしている私たちが、まだ見ぬ世代に戦争の愚かさを伝えるには、なにをすればいいと思いますか。

澤田:わからないですよね。僕だってわからないです。でも、とにかく「続ける」しかない。

テレビを見ると、毎日毎日うんざりするニュースばかりで、日本という国はどこに向かうのかと、心ある人は真面目に思ってしまうと思います。

でも、うんざりすると絶望に囚われて、なにもやる気がなくなってしまい、結局は「負け」てしまう。

8月になると、(メディアが)戦争に関する話を伝えるのも、それはそれで風物詩として良いと思います。でも、8月だけでなく、折に触れて、伝える努力を続けていってほしい。

「世の中がおかしくなっているな」って気づいた時には、もう遅いんですよね。徐々に、徐々に、徐々に、普通のことが、だんだんと普通じゃなくなる。「おかしなこと」が普通になって、みんなが互いを見張るようになって、気づけば赤紙がやってきた......。

人類史を見れば、「戦後」というのはないんですよね。「戦後とは、戦前のこと」と思って、間違いないと思います。その危機感を抱きながら、私たちは生きている。それは悲しいことだけど、これは人類史の宿命で必然なのだと思います。

悲劇を繰り返さないために、一人ひとりが自覚し続けるしかないし、メディアは常に新しい伝え方を研究しなければいけないと思います。そういう意味で、『この世界の片隅に』の伝え方は新しいやり方だったと思います。

すごく矛盾していますけど、平和を享受するためには、戦い続けないとダメだということは思います。すぐに諦めそうになるんですけど、諦めたらアカン。

「一人ひとりが自分の暮らしを大切にしていたら、今回の戦争はなかった」

花森さんが残したこの言葉を、重く受け止めたいと思います。


『戦中・戦後の暮しの記録』(暮しの手帖社)