初めて支援を受けられた―アフガン帰還民の現実

非登録帰還民の一人、アニサ・グルさん(33歳)は、現在、アフガニスタン東部のナンガハル県で暮らしています。彼女にこれまでの暮らしについて話を聞きました。

昨年7月以降、パキスタン政府は国内で暮らすアフガン難民への帰還政策を強化し、多くの難民が母国への帰還を余儀なくされました。その中に、「非登録帰還民」と呼ばれる人たちが、約31万人含まれています。

彼らはパキスタンで難民登録をせずに暮らしていたために、帰還にあたっても国連から証明書を受けとることができません。彼らの多くが、これまでに何の支援も得られていませんでした。

非登録帰還民の一人、アニサ・グルさん(33歳)は、現在6人の子どもたちとともに、アフガニスタン東部のナンガハル県で暮らしています。彼女にこれまでの暮らしについて話を聞きました。

「これまで何の支援も受けられませんでした」

「私が8歳のとき、アフガニスタンはムジャヒディン政権時で、内戦が絶え間なく続いていました。そこで私たち家族は、パキスタンに避難しました。

パキスタンのペシャワールに到着してからの生活はいたって普通でした。両親とともに暮らし、16歳のときに結婚しました。私の夫は読み書きができなかったので、フルーツを売る仕事をして家族を支えていました。収入は少なかったけれど、私は幸せでした。子どもたちが産まれ、大きくなり、教育も受ければきっと生活はさらに良くなると信じていました。

私には、6人の子どもがいます。長女16歳、長男14歳、次女11歳、次男8歳、そして三男と四男は双子で6歳になります。次女は生まれつき片足に障がいがあります。手術が必要とされていましたが、私たちには手術代を払う余裕がありませんでした。

娘の将来のためを考えて、私たちは親戚にお金を借りて手術代を工面しました。でも、娘の足にはいまだ障がいが残っています。さらに悲しいことが私たち家族の身に降りかかりました。3年前のある日、私が住んでいたペシャワールのサデールという地域で自爆テロが起き、私の夫が巻き込まれて亡くなったのです。私はショックのあまりその場で倒れてしまいました。

私の人生の中で、あれほどショックで悲しかった出来事はありません。私には生きていくための知識もなければ仕事もありません。6人の子どもたちをどうやって養っていけばよいかわかりませんでした。私は、住むところだけでも提供してもらえないか、と亡くなった夫の兄に頼み、家賃7000円を工面してもらいました。

しかし義兄も日雇い労働者でお金に余裕があるわけではなく、しばらくすると、家賃はもう払えないと言われてしまいました。

私は、とにかく何とかして生活していかなければならない、という思いで、近隣の家々のドアをノックし、「掃除の手伝いはいりませんか?」と何軒も何軒も聞いて回りました。

でも、どの家の人も私を雇ってはくれませんでした。子どもたちはお腹を空かせ、私に「食べ物はないの?」と聞いてくるようになりました。しかし、そのとき家には食べ物が本当にありませんでした。

私は懸命に、近隣の家を、仕事を求めて訪ねて歩きました。そのとき、ある家族が「洗濯の仕事をしないか?」と声をかけてくれたのです。

私は「やります!」と即答しました。それが私にとって生まれて初めての「仕事」でした。洗濯業で得ることができる収入は本当に少なく、子どもたちが学校に行くことができるような金額ではありませんでしたが、それでも子どもたちがお腹を空かせることはなくなりました。このとき、とても幸せに感じたことを覚えています。少なくとも、私は私の力で子どもたちを守る手段を得ることができたのですから。

働き始めてからは、複数の家を掛け持ちしていました。私の事情を知っている家族は、子どもたちの古着や、食べ物をくれたり、ときにはチップをくれることもありました。彼らの助けのおかげで暮らすことができていた、それが私のパキスタンでの生活でした。

しかし、この生活も長くは続きませんでした。去年、パキスタン政府がアフガニスタン難民を帰還させる政策を強化したのです。私たち家族は、難民申請をしていない非登録の難民だったので、きっとパキスタンの警察がやってきて、強制的に退去させられるだけでなく、ひどい仕打ちを受けるかもしれないという恐怖から、私と子どもたちは、義兄の家族とともにパキスタンを出ることを決めました。

私たちは今、ナンガハル県ジャララバード市で、ほかの家族とともに暮らしています。家賃全額を払えない家族同士が集まり、皆でお金を出し合い、支えあって暮らしています。それでも家賃3000円を工面するためには働くしかありません。

ここはパキスタンとは、まったく違います。パキスタンでは出歩くことができました。女性が働くこともできました。

でも、ここは治安がとても悪く女性が一人で出歩くことは大変危険です。女性が働くこともできません。それに万が一、私の身に何かあったら、子どもたちは誰が守ってくれるんでしょう。

私たちは、これまで一切誰からも支援を受けられませんでした。パキスタンからアフガニスタンに帰還するには、ナンガハル県のトークハムという国境を越えなければなりません。

そこでは支援物資が配られていましたが、私たち家族は非登録の難民だったがために、その支援を受けることができませんでした。アフガニスタン政府に支援を求めるため、難民・帰還民管理局にも何度も出向きましたが、何の支援も得られませんでした。

今回AARから受けた200ドル分のクーポンとソーラーパネルは、私が初めて受けた支援です。これで子どもたちを食べさせてあげることができます。いつかこのような問題がなくなり、またパキスタンで送っていた生活に戻れることを願っています」

AAR Japan[難民を助ける会]は、今後もアニサさんのような女性が世帯主となっている家庭や障がい者、そしていまだ何の支援も得られていない人々への支援を続けていきます。どうか緊急募金に皆さまのご協力をお願いいたします。

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