N題噺-「障害・公共性・芸術 」/Narrative impro- Disability・Publicness・Art

近年、その呼び名を変えながら注目を集める領域がある。アウトサイダー・アート、アール・ブリュット、エイブル・アートなどが、それにあたる。

・物語主体の命名権とゲームのルール設定権

近年、その呼び名を変えながら注目を集める領域があるー曰く、アウトサイダー・アート、アール・ブリュット、エイブル・アートetc. (参照:"周縁にある"アートは、これまでどう呼ばれてきたのか

この領域の定義をここでは、「特に障害を抱えた人間による(とされる)芸術表現を取り上げ、公共的な感性の涵養に資するものとして称揚する態度」とする。

そして目下、「公共」の名のもとに(巨大スポーツイベントの開催や福祉政策として)、当該領域当事者の存在意義が回収されようとしている。

端的に言って、こうしたイベントに参加したりHPや宣伝記事にいくら触れてみても、そこでアナウンスされる言葉に作家自身によるものは殆ど存在しない。あるのは施設関係者や芸術関係者や政治関係者、あるいは鑑賞者(左記三者を含む)から発せられる、「作品=彼ら」への価値付与に寄与する肯定的な言葉である。(少なくとも面と向かって唾を吐きかけられ「撮るんじゃねえよ」と叫ばれる機会はないだろう)

そこは原理的に、つまり障害=社会的に主に流通しているコミュニケーション回路に断絶している、「のだから」、しょうがないという見方もあるかもしれない。

だが一方、この見方のせいで芸術による表現という、価値への「もう一つの回路」の提示を阻害しているとも言える。

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・物語のX・Y・N軸

それぞれの時代を生きるためのレールを「物語」と呼ぶ。

生きるための「物語」を紡ぐため、過去-現在-未来と線状に延びる時間軸のある時点と、そこに設定される視点の主としての自身-他者との視点の掛け合わせにおいて、因果関係を創造/妄想する能力。その能力の発生源を「芸術」に求めることはそれほど突飛なことではない。

圧倒的不利のルールで始まりかつ以降も自身では変更が不可能なゲーム状況を、それでもまるごと受け容れ、状況にメタ的審級から価値を見出して/付与しかえす態度を「態度価値」としたのは「夜と霧」の作者だが(参照:「意味への意志」)、この態度の獲得を追い込まれた者が身につけるべき「術」なのだと強制できる者などいないだろう。

であるのならむしろ、物語のルールをこのように整理してはどうだろう。

X軸の左方向を他者、右に向かって自己、中間のゼロ点は両者の中和的混淆点。

Y軸の上方向に未来、ゼロ点が現在にあたり、下に向かって過去。

そして2次元平面図で世界を割っている間は感知できない、プラスされている1次元としての任意の「N」軸については、各々の私による獲得と選択に委ねられている。

いずれにせよ、誰か(自己か他者か)に対する、何らかの形でのN軸の存在意義に関する説得が必要となるだろう。各々のN軸の、微細なクオリアに至るまでが完全に重なることは決してないだろうが、その必要はない。

全ての存在の意義について、X軸上のどの点(誰)に対しても説得はできず、Y軸上のどの点(いつ)においても証明はできず、N軸全体まで含めたN個の軸の全て(全て)において、必要はない。

XandY with N
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・軸の端部とN題噺

X軸の右端、Y軸で上限に立ったN原浩大。

「このプロジェクトから一般論を導き出すことはできない。むしろこれは僕と妻、または僕と将来の子供の問題であって、その成果(あるいはこのプロジェクト自体)はあなた達にはなんの意味も持たないことだと考えて欲しい。」と言ってある作品を制作した。(参照「『A & C : Art & Critique』23号 京都芸術短期大学1994」)ここに至る背景には、ベルギーでのアウトサイダーアートとの出会いによって、自分がこれまで行ってきた作品行為との強度に質的な差を感じ、そこを埋め合わせるものをこれまで生の延長線上に見出せなかったことが関係していた。そして、「距離を置くという言い方は、その場所にじっとしている人から見るとそう見えるとか、その場所との関係を気にしている人の認識だと思う。実際のところ、僕は行きたいところに行きたいのであって、その場所との距離がどのくらいなのかを認識しても、まったく役に立たない。だからそういう自問は存在しない」という言葉(『美術手帖』No.732, p.73-91,1996.10,No.952, p.186-193,2011.6.美術出版社)を残して、2次元平面上から見るなら沈黙の期間に入る。そんな彼にとってのN軸は、自分だけが見ることのできる家族と言ってよいか。あるいは、私にはなんの意味も持たないことである。

X軸の右端からゼロ点にベクトルを向け、Y軸ではゼロ点と上限に同時に在ろうとしているようにみえる、NPO法人クリエイティブサポートレッツ 。(理事長の久保田翠が「表現未満、実験室」ほかの成果により平成29年度(第68回)芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞

「ダークツーリズム」(災害被災跡地、戦争跡地など、人類の死や悲しみを対象にした観光のあり方)に着想を得ながら、自分たちの福祉のようで・芸術的かつ・生活そのものの拠点、を興味本位の他者たちが泊まりがけで有料体験してもらう「観光事業」を立ち上げるなど、さらなる展開をみせている。レッツにとってのN軸は、生活と、生活の中に垣間見えるそれぞれ幸福の追求ということになるだろうか。

三題噺、いやN題噺は、X軸上を場の空気を読んで移動しつつ、Y軸上も行ったり来たりして話の聴き手の顔色をうかがう暇つぶしである。

根源的に意味があるのかとか原理的に正しいかなんてことより、今が楽しいかどうかが大事。笑ってくれたらお客さんで、クスリともしないカイワレ大根はビニコンおでんにぶっ込んで美味しく食べてあげる。N軸?んなもん気にして生きたこたあないね。(この後、「百歩譲って万一N題噺にNがあるとしたらそれは、即興での物語化によって物語る口の主体と視点が更新され続けるプロセスの動きか。

・「N題噺」的態度の戦略的採用によって、各々の物語を交換し混淆させ合うこと

比較不能な各々の物語を包みこむ軽重や真正さの重力圏から、いっときでも別の平面に鼻先を突き出すこと。鼻の触れる先に、空気の吸い吐きできる余地の見つかることもないとは言えない。

そこが無重力であれば空気もないのだろうが、それはまた、もう一つのおはなしの場である。」

と書こうと思ったが、書けなかった

ーーー参考)

ぼくの中の夜と朝」柳沢寿男監督 1971ー撮るんじゃねえよ、を撮ること

意味への意志」ヴィクトール・E・フランクル著、山田邦男監訳 春秋社 2002

自閉症の僕が跳びはねる理由 会話のできない中学生がつづる内なる心」東田直樹著、エスコアール 2002 及び東田直樹氏HP ー当事者の声に耳が吸い寄せられる経験

ー生存学という学問領域を持ち出すまでもなく、生きるのは当然である。「だから」生きさせろ、とすら言う必要はない。生存の先、「やはり」その先を志向すること。次の接続詞を選択するのは、各々の私である。

・物語の主体の設定権争いー死者、スピリチュアル業界等を含め、任意の主体や領域のほとんどが代入できるのではないか?

ー参照)「傷ついた物語の語り手 : 身体・病い・倫理』/ アーサー・W.フランク著 、鈴木智之訳、ゆみる出版 2002

・ゲームのルールはいつだって決めた者が勝つようにできている

社会というゲームにおいて発言権を得るためには、自分の存在意義を証明し、先行する他者から承認されねばならない。ただし、言葉を運用するルールは先行者がその改変のためのメタルールまで含めて決定済みである。加えて、言葉はあらかじめ/概ね奪われている。

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ーーー補綴)

その賭博場において「サイコ〇の一擲」など放たれる前から結果は決まっているのだ、そんな場に身を投じる必要があるだろうか?

、とこの記号すらがまた、もう一つの物語の開始の合図となりうることに私は気づいているだろうか?

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