雇均法なんてなかった

就活シーズンがめぐってくるたびに自分の時のことを思い出すが、今年は別の感慨がある。というのも...

就活シーズンがめぐってくるたびに自分の時のことを思い出すが、今年は別の感慨がある。というのも、私が大学を卒業したのは1985年。雇用機会均等法が施行される前の年だった。そして翌年、今で言う「第二新卒」として転職。つまり雇均法0期と1期生として就職活動をしたことになる。

雇均法施行30年を機に共同通信が行った調査によると、主要企業100社のうち回答した28社1000人分のデータを分析した結果、86年に入社した「女性総合職1期生」のうち、約80%がすでに退職している(1月24日付け東京新聞他)。主要企業を退社した8割のうち、別の場所で働いている人は少なからずいるだろうから、みんながみんな無職になったわけではないだろうけれど、「2割の生き残り」というのは、30年を振り返らせるには十分だった。

就活は叱られて始まった。芝生の中に「ばか山」と呼ばれる丘のある緑豊かなキャンパスで、ふだんゴム草履で過ごしていた私は、最初の学内就職説明会にもいつも通りの「ジーパン、ゴム草履」で参加。最前列に座っていたものだから、みんなの前で注意された。「先輩たちがネクタイを締めて説明に来てくださっているのに、あなたたちの中には草履ばきの人がいる!」 後に繰り返し叱咤激励を受けることになる川上ひめ子・就職課長の言葉だった。

秋、草履をパンプスに履き替えた私は新聞記者になるべく数社の試験を受けたのだが、その前に「青田買い」と呼ばれる先行審査が行われていた。4年生の夏まで留学していた私は出遅れ、先行審査に間に合ったのが、よりによって読売と産経という、ほとんど読んだことのない2紙だったが仕方ないので受けたところ、産経から呼び出しがかかった。

これは意外だった。というのも、英文和訳の試験で、訳文を書き終えた私は、欄外に問題文に対する「反論」を書いていたからだ。「軍備は相手に脅威を与えてこそ十分なものであり、軍事費や装備の数で測るものではない」というような主旨の英文だった。当時、防衛費を GNPの1%内に抑える政策が採られており、それへの批判の意味があったのだろう。私は、欄外に「そんなことを言ってるから世界の軍拡競争が止まないのだ」と英語で書いた。

おもしろいことに、ある筋から、この回答の採点の様子が聞こえてきた。外信部の記者たちが採点しながら、こんな会話をしたというのだ。「こういう子が欲しいよね」「でも、こういうのは朝日にいっちゃうんだよ」「記者としてはいいけど、嫁さんには嫌だね」どこから聞いたか? 情報源は守らなければいけないので書けません(笑)。

馴染みのない新聞だけれど、反論をおもしろがってくれるのなら働けるかもしれないと思って面接に出かけた。ところが、呼び出しておきながら、数日後、人事担当者が電話してきて言うには「申し訳ない。社長がどうしても女子は採用しないと言っている。今回は諦めてください」。まさに雇均法「0」期。「女子だから」と公然と口にして不採用にすることがまかり通っていた。それはおかしい、秋の本試験を受けさせて欲しい、と抗議したが「女子は採用できない」の一点張りだった。

紆余曲折を経て翌年、産経新聞に入社。男子と同じようにサツ回りをして、泊まり勤務をする「総合職1期生」として社会人としての再スタートを切ることになるわけですが、その話はいずれまた別の機会に。

ところで、30年もサラリーマンを続けると、何のために働くのか、労働と生活のバランスをどうとるか、など様々に考える局面に当たります。いま私が在籍する季刊誌『考える人』春号(絶賛発売中!)では、「12人の、『考える人』たち」に様々な角度から「たいせつなこと」を論じてもらっているのですが、その中の一人がハフィントンポスト創設者のアリアナ・ハフィントンさん。タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれた、言わずと知れたデジタルメディアのリーダーです。

ギリシャ移民でありながら16歳でケンブリッジ大学に入学を許されるような才媛の彼女でさえ、過労で倒れて頭を打つまで自分の暴走ぶりに歯止めをかけられませんでした。それで目を覚ましたハフィントンさんはいまは「眠りの伝道師」として睡眠時間の大切さ、デジタルデバイスを切る時間の重要性を説いています。「そうそう、休息は大事」と思いながら、雇均法1期生は今日もくたびれた体をひきずって働くのです。

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