福島原発事故から3年を経て、「責任」についてあらためて考える

東日本大震災と福島第一原発事故から3年ということで、Yahoo! Newsの企画で3月6日に原発事故現場を見学する機会を得た。

東日本大震災と福島第一原発事故から3年ということで、Yahoo! Newsの企画で3月6日に原発事故現場を見学する機会を得た。訪れたのは汚染水を浄化する多核種除去設備(ALPS)、汚染水を貯蔵する溶接タンクの建設現場、使用済燃料の取り出しが進む4号機のオペレーションフロアと1/2号機の中央制御室だ(いずれも新聞やテレビなどで繰り返し報道されている)。

東京電力の説明を私なりに理解したところでは、原発事故の収束作業の現状は次のようなものだ。

(1)1500体を超える使用済み核燃料が保管され、事故直後に火災が発生して核燃料プールの健全性が不安視された4号機では400体の使用済み核燃料が順調に取り出され、今年末に作業が完了する予定。

(2)水素爆発によって建屋の上部が吹き飛んだ3号機では、クレーンによるガレキ撤去作業が完了し、現在は使用済み核燃料を取り出すための準備作業が行なわれている。

(3)1、2、3号機の圧力容器と格納容器、および1~4号機の燃料プールは注水によって冷温停止状態が維持できている。

(4)その一方で、原子炉格納容器の底部に溶け出した燃料デブリは現時点でも取り出しのための技術的な目処は立っていない。その前段階として格納容器の水漏れ箇所を特定・補修しなければならないが、放射線量が高く作業員が近づけない状況は変わらない。

(5)格納容器から漏れ出した汚染水を淡水化して格納容器に戻す循環システムは機能しているが、それ以外に1日平均400トンの地下水が流入し、大量の汚染水を生み出している。

(6)汚染水対策として、トリチウムを除く核種を除去するALPSの本格稼動に目処がついた。導入予定の高性能ALPSを加え、順調にいけば1日800トン程度の汚染水の処理が可能になる。また水漏れ事故が多発したフランジ接合のタンクをより強度の高い溶接型タンクに置き換え、1000基(約80万トン分)の増設を計画している。

(7)汚染水問題が深刻なのは間違いないが、上記に加え地下水の汲み上げや遮水壁(凍土造成)が実現すれば技術的に管理可能なところまで見えてきた。

こうした状況をまとめると、現状はよくもないが思っていたほどヒドくもない、ということになるだろう。事故直後の危機的状況を思えば、自衛隊や消防隊が決死の放水を行なった場所を私のような門外漢が見学できるようになっただけでも驚くべきことだ。廃炉作業や汚染水対策は批判的に報じられることが多いが、被ばくの危険にさらされながら収束作業に従事している多くの作業員の努力を正当に評価することを忘れてはならない。

それを最初に述べたうえで、ここでは原発事故の責任問題について再論したい。

■法的責任がなければ道徳的責任もない

責任というのは曖昧な概念だが、大きく法的責任、政治的責任、道徳的責任に分けられる(形而上的責任や人類史的責任を問題にするひともいる)。

道徳的責任では対立する二者を正義と悪に分け、正義の立場から悪が断罪される。このときひとはつねに自分を正義の立場に置こうとする――これは戦争責任や差別問題をめぐる議論を見れば明らかだろう。正義と悪の二分法はわかりやすく、正義を振りかざすのは気分がいいが、悪を成敗すれば正義が回復するというのはマンガや時代劇の中でしか通用しないお伽噺だ。

政治的責任を担うのは政治家(リーダー)で、「政治は結果責任」とされるから、道徳的責任よりその意味は限定されている。民主政では政治家の選択は有権者によって審判され、誤った選択は落選という責任を負う。これは原理的にはそのとおりだが、そうなると選挙に勝てば失政も免責される、ということになりかねない。国会で多数を占めている以上、原発再稼動や原発輸出の推進を「国民の意思」に反していると決めつけることはできない。

定義自体があいまいでその扱いがやっかいな政治的責任や道義的責任に比べて、法的責任はずっと明快だ。あらかじめ当事者が合意したルール(法律)があり、そのルールが破られたことで一方が不利益を被ると金銭賠償などの責務が発生する。誰にどのような責任があるかは裁判などの司法制度によって判断され、共同体(国家)の構成員はその判断に従わなくてはならない――これが近代社会の基本ルールだ。

責任問題を考えるときの原則は、「道徳的責任の追及は慎重であるべきだ」というものだ。道徳的責任は多数派の都合で誰にでも押しつけることができるから、その追及にはおうおうにして私刑(リンチ)のようなグロテスクなものになってしまう。

「法的責任がなければ道徳的責任もない」というのは、魔女狩りのような不幸な出来事を防ぐために生まれた近代社会の知恵だ。そしてこれは逆に、「法的責任は徹底的に追及されるべきだ」ということでもある。

だが日本の社会ではこうした近代のルールがほとんど理解されず、「法的責任を曖昧にしたまま道徳的責任を追及する」という事態がしばしば起きている。原発事故をめぐる問題もその典型だ。

■有限責任すら負わない無限責任

福島第一原発の事故をめぐっては、政府、国会、民間の事故調査委員会による大部の調査結果が公表されている。だが"原発ムラ"と呼ばれる利益集団とは別に、原発を管理・運営していた東京電力には法律上、事故の責任をとらなければならない当事者がいる。それが株主と債権者だ。

資本主義のルールでは、(株式)会社の法律上の所有者は株主であり、事業から生じた経済的損失は株主が出資額を上限とした有限責任によって負担する。会社の損失が株主の出資額を上回る場合は、債権者が保有する債権額を上限として損失を負う。債権にはさまざまな種類があるが、大口の債権者は融資をしている銀行と社債(電力債)保有者だ。

原発事故は巨大災害で賠償や廃炉に莫大な費用がかかるから、1号機から3号機が次々とメルトダウンした時点で東京電力は実質的な債務超過に陥った。だとすれば、まず東京電力の株主が責任をとり、ついでデフォルト(債務不履行)によって債権者が責任を負うべきだった。もちろんこれは「原発事故を起こした東京電力はつぶしてしまえ」ということではなく、デフォルトを起こして株式市場から退出しても(日本航空のように)国家管理の下で法人として存続することはじゅうぶん可能だ。

無から有を生み出すことはできないのだから、原発事故の収束に必要な巨額のコストは、(電力料金を引き上げるか、税を投入するのかは別として)最終的には国民が負担するほかはない。国民に負担を求めるというのは、原子力という"安価な"エネルギーを享受してきた責任を問うことでもあるのだろうが、そのためにはより直接的な当事者である株主と債権者が自らの責任を果たす必要がある。

だが事故当時の民主党も、その後の自民党も、所轄官庁である経済産業省も、資本主義の原則を無視して株主と債権者を免責してしまった。原子力損害賠償法では、事故を起こした原子力事業者は過失の有無にかかわらず無制限の賠償責任があると定められているが、現実には責任を負うべき者は有限責任すらとっていない。これは福島原発事故の責任を考える際の大きな矛盾だが、この3年間ずっと放置されてきた。

もちろん事故直後に東京電力を破綻処理した場合、その後の廃炉作業や電力の安定供給、賠償業務に影響した可能性はあるから、この判断が間違っていたと一方的に決めつけることはできない。しかしその代償として、「誰がどのようにコストを負担するのか」というきわめて重要な問題を公の場で冷静に議論することができなくなってしまったのだ。

■限界に達した問題先送り

原発事故の処理スキームというのは、かんたんにいうと、東京電力という法人が責任を負っていることにして、電力各社に奉加帳方式で経済的負担を求め、国費の投入や電力料金の引き上げを極力避けつつ問題を先送りするというものだ。

東京電力は実質債務超過で、円安による原料費の増大で赤字に陥っても電力料金を安易に引き上げることは認められず、事故処理の費用はリストラや優先株の売却によって賄うことになっている。除染費用や中間貯蔵施設の建設費などを含めれば原発事故の処理コストはすでに10兆円を超えているとされ、一企業のリストラだけで捻出できるはずはないのは明らかだ。

こうした状況に置かれた東京電力が会社を存続させようとすれば、賠償請求を減額し、廃炉にかかるコストを引き下げるしかない。その結果、東京電力への不満が高まり道徳的責任を問われる悪循環にはまっている。

客観的に考えれば、賠償はルールに則って行なえばいいだけだから、東京電力が主体となる必要はなく、損害保険会社などに事務作業をアウトソースすることもできる。賠償金は国(原子力損害賠償支援機構)が支払い、合意できないものは裁判所やADR(裁判外紛争解決手続)が引き継いで、判決や決定を新たなルールに加えていけばいいのだ。賠償から道徳的責任を切り離してしまった方が、東京電力だけでなく請求者の負担を軽減することにもなるだろう。

廃炉作業は一銭の利益も生まないから、これを私企業に任せてしまえばコストを抑えようとするのは当然のことだ。その結果、粗悪なフランジ接合のタンクをつくって汚染水を流出させたり、作業員の人件費を抑制しようとして労働環境が劣悪なものになったりする弊害が目に余るようになった。こうした事態を避けるには廃炉作業を営利事業から切り離し、国の直轄事業(公共事業)にして必要なコストを税(もしくは電気料金)として徴収するしかないだろう。

だがこうした合理的な改善策は、東京電力の法的責任が全うされたことが条件となるため、現状ではすべて実現不可能だ。その結果、被災者や現場作業員にしわ寄せがいくという理不尽な事態が常態化している。

原発事故の責任をあいまいにしておくことは、政治家や行政、経済界や電力会社など、関係者のすべてにとって都合のいい方法だった。ところが事故から3年たって賠償や除染、廃炉にかかるコストの全体像が明らかになってくると、もはやこの矛盾をとりつくろうことが難しくなってきた。自民党政権が原発再稼動に邁進するのも、その理由のひとつは東電の経営が逼迫し賠償や廃炉作業に支障を来たすのを避けるためだろう。

■底知れぬ無責任

とはいえ、ここで私は、東京電力を破綻処理して責任問題に決着をつけるべきだ、といいたいわけではない。現在では東京電力の主要株主は国で、電力債も大半は償還され資金支援も国(支援機構)が行なっている。いま東電を破綻させても責任を取るべきひとはどこにもおらず、国を通じて国民が損失を負うことになるだけだ。株主や債権者の責任を問う機会は失われ、もはや二度と戻ってはこない。

国民が、福島原発事故の責任問題が決着していないと感じるのは、本来、責任を取るべき者を免責してしまったがために、責任をめぐる公の議論ができなくなり問題を先送りするほかなくなったからだ。だがこれは、原子力ムラの陰謀というような話ではない。

歴史家の半藤一利は『昭和史』(平凡社)の最後で、国を破滅に導く愚かな戦争へと突き進んでいった歴史を振り返り、日本人の特徴として、抽象的な観念論を好み具体的・理性的な方法論をまったく検討しないことを挙げている。三国同盟を締結したのはドイツが勝つと信じたからで、フランス領インドシナに進駐しても米国による石油禁輸はないと楽観していた。敗戦が決定的になったあとは中立条約を結ぶソ連に米英との仲介を依頼し、降伏を先延ばしにして広島と長崎に原爆と落とされたあげく、ソ連は満州に攻め込み多数の将兵をシベリアに抑留した。

日本人のもうひとつの特徴は、多くの犠牲者を出してすべてが空理空論の類だったことが明らかになったあとも、誰も責任ととらず、誰の責任も追及しようとしないことだ。これを半藤は「底知れぬ無責任」と述べる。

原発では「絶対安全」が金科玉条とされ、想定を超える地震や津波は起きるはずのないものとされてきた。そして事故が現実のものとなると、責任をとるべき者はどこにもいなくなってしまう。

目先の課題にとらわれて大局を見誤り、なすすべもなく全体状況が悪化していくというのは、日本の社会がこれまでずっと繰り返してきたことだ。原発事故でも同じ見飽きた光景が再現されているのだと考えれば、そこになにひとつ驚くべきことはない――けっきょくこれが、私たちの社会なのだ。

(2014年3月11日「橘玲 公式サイト」より転載)

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