つまずいても、何度でもトライできる社会を!

医師の知り合いに、医療メディアを立ち上げたいと相談を受けたとき、医療関係者でもなんでもない私のようなひとも、気軽に医療や医療に取り組む医師たちを知ることができるようなウェブマガジンにしたいと思った。

(この記事はcoFFee doctorsから転載しています)

医師というと診察室で会うひと、白衣を着た人、というイメージはないだろうか。少なくとも、普段特に病気をしない私には、医療というのはあまり馴染みがない分野だった。

医師の知り合いに、医療メディアを立ち上げたいと相談を受けたとき、医療関係者でもなんでもない私のようなひとも、気軽に医療や医療に取り組む医師たちを知ることができるようなウェブマガジンにしたいと思った。

だから、医師には、私服で実際にコーヒーを飲みながらリラックスしてインタビューに応じてもらう。今目の前にある医療技術の話だけではなく、そこにかける思いなども語ってもらう。マガジン名を"coFFee doctors"と名付けた。

例えば、高校を辞め、英国でのボランティアを経て大学受験、就職活動の結果、医学部に編入して、2014年の4月から医師として働いている、一人の20代女性。「頑張りきれないときにサポートする仕組みを、日本や世界で作るのが、ここ10年変わらない目標だ」という山口有紗先生だ。先生がどんな思いで活動してきたのか、これからどんな医師を目指すのか、コーヒーを片手にぜひ読んでみてほしい。

■高校を辞め、9.11の影響から渡英

――先生は「何度もトライできる社会を世界中で作る」という目標を10年間お持ちだとお聞きしました。はじめは何がきっかけだったのでしょうか?

高校1年生のときに、家庭の事情で親と住むことができなくなり、思春期の葛藤や若気の至りで退学しました。

にっちもさっちもいかない閉塞感の中で暮らしていた中、自分と同じように学校に通わない人達が、私を外の世界へ連れ出してくれました。キラキラしたバイクに乗る元暴走族のお兄さんに出会い、そこで繋がった人達に誘われ、ごはんや銭湯に行っていたのです。その繋がりの中で、偶然起きた事情から、そのまま転げ落ちるように生きていく事の辛さを知りました。

その最中、9.11が起こりました。驚き、悲しみや疑問、そして今の自分から逃げたいという思い。居ても立っても居られなくなりました。周りからの大反対を押し切り、

親から学費として渡されていたお金で渡英しました。事件が起こった米国ではありませんでしたが、とにかくこの世界の大事件を自分ごととして捉えている場所にいきたいと強く思ったのです。

――突然イギリスに渡ったのですね! 現地ではどのように過ごしたのでしょうか?

英語はできないし、当然住むところも、明日からやることも何も決まっていませんでした。11月でもお湯が出ないような古いアパートを見つけ、不動屋さんと毎日戦っているうちに周りの人とも知り合いになっていきました。

そんな中、好きな工作を活かして何か役に立てたら、と閃いたのが、折り紙をリハビリに使うことでした。そこで片っ端から病院に「ボランティアをさせてほしい」と電話をかけた所、インド人のデイケアセンターでどうにかボランティアの枠に入れてもらえました。それ以来、週2−3回リハビリの時に手伝わせてもらいました。

日本では高校に通うことができなかった自分が、ロンドンでは一人でバスに乗って通う場所があることに対して、嬉しい気持ち、感謝の気持ちでいっぱいでした。

■帰国、そして京都へ

――そこから、なぜ帰国に至ったのでしょうか。

1年程働いた頃、デイケアセンターでインド人の女性が、一人切手を集めていました。脳性麻痺があり、車椅子での生活をしているその女性は「インドにもは足が動かず、車椅子を買うことができない人がいると知った。自分は働く事ができないので、せめて切手を集めて寄付しようと考えた」というのです。それを聞いて、社会復帰のため居場所を見つけることに満足している自分に気づきました。

自分は「情熱だけしかないただの17歳」だったのです。これではいけない。五体満足で生まれた自分の力を最大化するには、ロンドンに住み続けるよりも、日本人として力をつける方が良いと思ったんです。ちょうどお金も尽きてきたので帰国しました。

折角なら日本を見直そうという気持ちから、直感的に京都に住む事にしました。

――故郷ではなく京都に!京都ではどんな事をされていたのでしょうか?

まずは生活の為にバイトを探しましたが、中卒だからとろくに返事ももらえず、電話口で酷いことを言われ、何度も断られました。そんな中でアルバイト先を見つけ、昼間は児童養護施設でボランティアをして、夜は働いて生計を立てました。

そこで改めて思ったのは、人生でつまずくことが一度でもあると、そこから転げ落ちていくのはとても簡単だということです。環境が許すと何とか生活出来る人達もいるけれど、そうじゃない人達もたくさんいます。

例えば、養護施設には真面目に勉強する高校生もいますが、塾や模擬試験などにかかるお金は捻出できないため、途中で「どうせ」と卑屈になって辞めてしまうのです。そして就職も厳しい。

ある面倒見のいい優しい男の子は、施設を出たあと飲み屋街のだんご屋で働いていました。私も出勤するときにたまに見かけていましたが、そこも4ヶ月くらいで辞めたようで、その後が心配です。でも、就職後のサポートまではできないのが現状なのです。

私は幸い生活できているけれど、頑張っても頑張りきれないときのサポートの仕組み、トライ&エラーが許される環境を日本や世界で作りたいという思いを強くしました。

「子どもと、彼らを取り巻く大人、更にそれを支えようとしている大人の、『偶然の頑張り』に任せるのではなく、緩やかに支えるミッションを作りたい。」何度否定されても、その思いは変わる事はありませんでした。ただ、その思いを語ったところで、周りからは夢物語と言われるばかりでした。そのため、これを叶えるためには、今のままではいけないんだ、という思いが強くなっていったのです。

■大検、大学、そして医学部へ編入

――それで、大検をとろうと思ったのですか?

そうですね。ただ、大検取得後すぐに大学に入ろうと思っていたわけではなかったのです。たくさんの人と京都で出会っていく中で、中卒だとやはり不便だとは感じる回数が多くなってからですね。

ある日、開発教育等を行なう国際NGO団体の理事長から、働かないかとお誘いを受けました。夢のようなお話で嬉しかったのですが、調べてみると月給20万円の社員を雇うには、多額のお金かかるということがわかりました。それに見合う知識も経験もない私には、社会的立場や知識が必要だと思い、大学受験を決心しました。いち早く試験を受けたくて調べると、2週間後に立命館大学国際関係学部がある事がわかったのです。英語と国語と論文の試験を受けて合格しました。

――受験決意して2週間で合格...!学生生活はいかがでしたか?

入学後は、久しぶりに勉強を教わる立場にいて、とにかく勉強できる事が嬉しくてがむしゃらになるうち、気がついたら特待生になり、奨学金を得ることができました。お友達にはとても支えられました。飲み会でワイワイやるタイプではありませんが、私を面白いと思ってくれるお友達ができて、今も深く付き合っています。

――その後、医学部に編入されたのですね!

はい。大学の3年生のときは、一般企業への就職も考えました。

自分のテーマに沿うようなことで、メディア、JICAなども受けましたが、一番く現場に近い、医学部合格を機に編入の道を選びました。

編入後3〜6年生を終えた後、2年間初期臨床研修を行いました。小児科を重点的に演習するコースを選び、内科なども回りました。

医師も同じく夏に就職活動があるのですが、そのときも、子どもの心に関わる周りのサポート仕組みづくりに総合的に関われる病院、という軸で探しました。そのなかのご縁で、この2014年4月から小児科医師して東大病院に務めています。

■学校や子育ての場にて、子供の「周りの大人」を支えたい

――一貫した思いをお持ちの先生ですが、改めて今の時点で感じるミッションや今後の活動について教えて下さい。

あるつまずきをもった子供に対して、周りの大人がどう働きかけるヒントを、医師として提供したい。心の分野においては、医師一人でできることはとても少ないからこそ、子供を支えている大人をどういう風にサポートしていくかという切り口から、医療を提供してきたいと思っています。

例えば学校の先生は、発達障害の児童が居ると、クラス運営にとても悩むことが多いのです。そのとき医師は、学校の先生に障害の状態を分解して説明ができます。ある程度の脳の発達の特性や凹凸は誰にでもあるのですが、それが環境に適応できないといわゆる「障害」になります。その状態が長く続き、人とうまくいかなくなり、社会の中で疎外感を感じ始めると、その辛さの行き場がなくなって犯罪などに関わったり、鬱病になったりという「二次障害」が出てきます。

また、日常の行動や接し方についても、周りの大人に、医学の具体的なヒントを伝える事ができます。

「何かを伝える時は、まず絵に書いて言葉はノートの一ページに一文だけ書いて下さい。一文は短くして下さい。」、「集中力が持つ時間が15分なので、15分毎に5分休憩をとらせてください。またその際に、椅子を2席を用意し、場所を移動させて下さい。」など具体的なヘルプを出すことができます。

今後は、子育てに関してもサポートの仕組みづくりをしたいと思っています。

最近は、「何処に相談したらいいのかわからない」というお母さんがたくさんいます。世代間の交流が減っているので、子育てにほとんど触れないまま、いきなり自分の赤子を前にして戸惑うのです。

そこで、どのようにしたらサポートの仕組みが作れるかをリサーチし、小児科の患者さんのお母さん、保育士さん、学校の先生、児童相談所員、保健師さんなどと話す事で試行錯誤したいと思っています。もちろん、私はまだ一般的な小児科医療の修行の段階なので、修行をしつつ、ですけれどね。

――ありがとうございます。最後に読者へひとこと、お願いします。

私自身が学歴ゼロを経験したからこそ、立場の大事さがわかります。今やりたい事と10年前に言っていた事は、程度の差はあっても、そこまで変わらないと思うのです。知らない人にお話するときに一番に受け入れてもらいやすい形をとるために、医師免許をとりました。

「学歴なんて」というのは、学歴を持つ人が言う言葉。信頼関係を築く為、相手に受け入れてもらいやすくする為に、私はこの立場を選びました。やりたいことから逆算して、私にとってはこれが一番近道だと考えたのです。

高校以来一緒に住んではいないものの、父は医師でした。やはり食卓を囲む時にあがる話題や、子供のときどんな人に囲まれるかは、子供の人生の選択に影響するように思います。だからこそ、子供の周りにいる人に対してのサポートが大事だと考えています。みなさんも、「偶然の頑張り」に任せるのではなく、「トライ&エラーで立ちなおれる仕組づくり」を一緒に作っていきませんか。

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