シリアを見捨てたことに、どんな言い訳も通用しない

私が初めてシリアを訪れたのはちょうど4年前、民主化を求め大きなうねりが起きている真っただ中だった。

シリア内戦が勃発以来、この4年間で国内の明かりが83%も減った

文:アナ・ニスタット アムネスティ・インターナショナル調査チーム・シニアディレクター

私が初めてシリアを訪れたのはちょうど4年前、民主化を求め大きなうねりが起きている真っただ中だった。南部ダルアーの街で治安部隊が抗議する民衆に発砲した事件を受け、ダマスカス郊外やホムスのあちこちで街頭デモが広がっていた。みなが求めたのは、民主主義、人権、そして独裁に終止符を打つこと。中東・北アフリカ中で、同じような声が上がっていた。

大量逮捕も相次いだ。それでもまだ、ダマスカスには観光ビザで行くことができたし、ホテルでは旧市街の景色や古くからあるマーケットを楽しみにフランスから来ていた年配者のグループと一緒だった。スカーフを被る必要もなかった。当時は現地の女性も被っていなかった。

もちろん、緊張はあった。シリアの悪名高き秘密警察がどこにでもいて、目を光らせていた。観光者が行きそうにない場所に足を踏み入れれば、じっと見られているのを感じた。

同僚が到着すると、この国の状況を把握するために現地の人権活動家や弁護士たちとミーティングを持った。まるでスパイ映画のように忠告するのを、少し笑いながら聞いていたことを覚えている。

「バス停に来て。もし丸めた紙を持ったグレースーツの男がいたら、近づいちゃだめ。歩き続けて。追いつかれたら、緑のタクシーに飛び乗るのよ。仲間が運転しているから......。携帯の番号は削除して」

みな用心していたけれど、驚くほど勇敢だった。なにより希望に満ち溢れていた。何十年もシリアを牛耳ってきた冷酷な独裁政権が、チュニジアやエジプトと同じように、数カ月もすれば倒れると、心から信じていた。民主的な価値観のもと法で統治される新しい国、新しい社会を築くんだと、期待で胸を躍らせていた。

政府の残酷さを身をもって体験してきた活動家だけでなく、給料の良い仕事を辞め、それなりに良い暮らしを後にして、民主化運動に身を投じる若い人たちにも出会った。彼らは逮捕された人たちに法的な支援をしたり、ダルアーで運動する人たちのために携帯やカメラを買い、弾圧の様子を発信するのを手伝ったりしていた。私たちを車であちこち案内してくれたが、謝礼は決して受け取ろうとしなかった。

当時のことを思い出すと、涙があふれてくる。当時の調査活動に協力してくれた人は、1人残らず、逮捕されたか、失踪したか、殺されてしまった。私たちは、彼らの期待に応えられなかった。シリアを失望させたのだ。アサド軍と過激派に国が分裂するのを止められなかった。人権ベースの改革派の余地はもはや残されていない。

■□■ 外交官も政府高官も首脳陣も、アサド軍の残虐行為を知っていた ■□■

最初の訪問ではダマスカスやホムスや海岸沿いの街々へ行き、治安部隊が行った犯罪の記録に着手した。抗議者の殺害、拘束した人たちの処刑、根拠のない大量逮捕、拷問の横行......。当時、シリアには外国人ジャーナリストはほとんどいなかった。野放しの人権侵害を私たちが公表しさえすれば、国際社会が動いて事態を食い止められると思った。

その後数カ月で弾圧が激しくなり、人びとは近隣の国へ逃げ始めた。私たちは、シリア軍や秘密警察を離脱した兵士や職員にも大勢会い、話を聞いた。そして政府軍の人権侵害行為が人道に対する罪に相当するという十分すぎる証拠を集めた。そうした行為を直接命じた、あるいは命令の背後にいた軍の司令官や治安部隊幹部の名前もつかんだ。

大手メディアは、私たちが発表した実態を報道した。新聞でも、テレビでも、ラジオでも、インターネットでも、このニュースで溢れかえっていた。ワシントンでもロンドンでもジュネーブでもモスクワでも東京でも、私と同僚は政府高官にシリアの現状を伝え、放置しては危険だと訴えた。ニューヨークの国連で、ほとんどの各国代表にも会った。

2012年、軍を離脱した兵士と平和的手段で改革をもたらすのはもはや無理だと考えるシリアの一般市民で構成された、いわゆる「自由シリア軍」が、シリア北部の国境地帯を掌握した。私たちは、本格的な武力紛争へと発展した事態の中で、今度は双方が犯した人権侵害を記録し始めた。政府軍は迫撃砲で居住区を破壊し、町や村の掃討作戦を展開して、何百という人を捕まえ、拷問にかけ、処刑した。シリア自由軍側も、新しく作った収容所で多くの人権侵害行為を行い、政府の支持者だと疑った者を大勢処刑した。

しかし、12年半ばにはまだ、イドリブやアレッポには、黒装束に髭の男たちはいなかった。多くのジャーナリストがシリア北部に向かったが、イスラム過激派に誘拐される恐れはなかった。

空爆がすべてを変えた。2012年8月のことはよく覚えている。アレッポの住民と一緒に地下室に隠れた。恐怖と信じられないという思いで一杯だった。爆撃機の近づく音がし、爆弾が落とされるとぞっとするような轟音がこだました。攻撃が終わって外に出てみると、周辺一体のアパートは瓦礫と化していた。そこら中に散らばる家財道具の中には、体の一部も見て取れた。

私たちは写真を撮り、映像に収め、人びとに話を聞いて回った。病院やパン屋や住宅を政府が攻撃し、自国の民を大量に殺害したしたという証拠があれば、今度こそ世界の首脳陣が「大戦の悲劇を二度と繰り返さない」という誓いを思い出してくれると願って。

そうはならなかった。化学兵器攻撃ですべての証拠が政府の責任を示していても、アサドとその軍隊は殺人の罪を免れ続けた。後ろ盾であるロシアが守ったからであり、他の安保理メンバーも決断に欠けていたからだ。

■□■ 世界は見ぬふりを選んだ ■□■

そして、もはや手遅れとなった。2012年の後半に再び訪れた時、街は見る影もなかった。アレッポの大部分と地方は、占領されたも同然だった。最初はアル=ヌスラ戦線に、それから「イスラム国」と自称する武装グループに。奴らはシャリーアの過激な解釈をもとにルールを打ち立て、公開でむち打ち、手足の切断、そして処刑を行い、外国人ジャーナリストや人道支援従事者を誘拐して殺害していた。アレッポにいたシリア自由軍や他の反政府戦士たちは反撃を試みたが、資金豊富で急速に力をつけている組織を前に、抵抗をやめた。

最後にシリアを訪れたのは2013年だ。農業エンジニアからイドリブの抗議リーダーになった旧友に会った。

「私たちは待っていた。待ち続けた。西側がここで起きている問題に目を向けてくれると。オリーブの枝を振って、撃たれた。なのに誰も何も言わない。私たちは抵抗し自衛した。そうしたらテロリスト呼ばわりだ。もう何万人も殺された。何百万もが難民になった。それでも何の反応もない。イスラム過激派にとってこんなに都合のいい場所はない」

彼は、そう嘆いた。

「戻ってきてはいけない。殺されてしまう。だがもう守ってやれない。君は3年間ここで何が起こっているか、世界に伝え続けてくれた。だが、世界は見ぬふりをすることを選んだのだ」

世界の権力者たちは、シリアで何が起きているか、よくわかっていた。「イスラム国」潰しでようやく団結したが、アサド政権の残虐な仕打ちには、なにかと理由をつけて断固とした対応を渋ってきた。ここでその言い訳を連ねることはしない――どんな正当化も詭弁でしかないのだから。

(当時アナ・ニスタットは、ヒューマン・ライツ・ウォッチで危機や紛争地での緊急調査のエキスパートとして活動していた。)

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