「ゼノさん」「アリの街のマリア」...知っていますか? 7月、東京で写真資料展

「アリの街」の様子と、街を支えた人々の姿を伝える写真資料展を開くため、クラウドファンディングが進行中だ。

戦後まもないころ、現・東京都台東区の隅田公園の一角に「アリの街」と呼ばれた共同体があったことをご存じだろうか?そこには「バタヤ」と呼ばれた廃品回収業を生業とした人々が集まり、家族とともに自立を目指して助けあっていた。

その街の様子と、街を支えた人々の姿を伝える写真資料展「ゼノさんと北原怜子さんとアリの街」を7月に開こうと、地元の有志で作る実行委員会がクラウドファンディングで支援を募っている

現在の隅田公園にあった「アリの街」。周囲が板塀で囲まれている(石飛仁さん提供)

実行委員会や当時の報道などによると、「アリの街」は1950(昭和25)年、復員軍人の小沢求、演出家の松井桃楼(とおる)が中心となって始まった(アリは「蟻」、街は「町」と表記されることも)。

当時は、各地に窮民部落ができており、「アリの街」もその一つだった。共同体の活動の中心となった「蟻の会」の名前には、「蟻のように仲良く助け合って共同生活をすれば、必ず自力で更生できる」という趣旨が込められていた。1960年、現在の江東区に移転したという。

「アリの街」の教会設立にゼノ修道士が協力する計画を伝える1950年11月14日の朝日新聞夕刊。記事中では「神父」と報じている

「ゼノ」ことゼノ・ゼブロフスキー修道士と北原怜子の2人は、この街を語る上で欠かせない人物だ。

実行委員の1人でルポライターの石飛仁さん(74)の著書「風の使者 ゼノ」(自然食通信社、1998年)によると、ゼノは、長崎で自らも被爆しながら、全国各地で戦災孤児の救済活動に取り組んだ人物。

アリの街を訪れたのは1950年の秋ごろだが、終戦から時間が経ち、「与えるだけ」の救済活動に行き詰まりを感じつつあった時期だった。

「欲しているのは物じゃない」「自立更生している事実を、ちゃんと世間の人に知ってもらいたい」という小沢求の主張を聞いたゼノは「アア、ソレ、タイヘンヨイコトデス」と喜んだという。

ゼノとの出会いがきっかけで、当時20歳だった北原怜子もアリの街を訪れ、やがてその場所で暮らすようになった。28歳で亡くなるまで街のために献身的に尽くした彼女は「アリの街のマリア」と呼ばれるようになり、松竹の映画や宝塚の舞台のモデルにもなった。

「アリの街のマリア」と呼ばれた北原怜子(左)とゼノ修道士(右から二人目)=石飛仁さん提供

実行委員会の代表を務める北畠啓行さん(77)は上野駅近くで生まれ育った。終戦の年の2月末の雪が降る日に、生家が営んでいた和菓子店の前に焼夷弾が落ちてきたことを、今も覚えている。

地元の区民館で開く「お話の会」では、空襲や戦中戦後の暮らしを知る人から話を聞く活動を続けてきた。

だが、アリの街のことは、「浅草のほうに、そういう名前の地域があるのは知っていたが、詳しく知らなかった」。石飛さんの著書を読んだのを機に、現地を訪れても何も残っておらず半信半疑だったが、昭和30年代前半(1950年代後半)の地図に「蟻の会」と書かれているのを見つけ、やっと納得できたという。

「アリの街」の入り口付近(写真左)と生活の様子(写真右)=いずれも石飛仁さん提供

一方で、地元で力を尽くした人たちの記憶が、このまま忘れられてしまうのではないかという危機感も覚えた。

今年3月、地元で開催された東京大空襲についての展示を見に行っても、何の写真も残っていない。見に来ている年配の人に尋ねても、「アリの街」について詳しく知る人には出会えなかった。

「終戦後は日本全国に大変な暮らしをしていた人たちがたくさんいた中で、『アリの街』は復興の希望の一つだった。今まで空襲や戦中戦後について話してもらってきた人たちも、どんどんいなくなってしまい、次は私の番。今のうちに地元にあったことを次の世代に伝えていきたい」と北畠さんは話す。

「虹の絵師」と呼ばれた山本良比古が描いたゼノ神父の肖像画

写真資料展は7月21日~23日、東京都台東区台東1丁目の台東地区センターいきいきプラザ2階のふれあい広場で開催。石飛さんが本の執筆時に集めた40点以上の写真のほか、「虹の絵師」と呼ばれた山本良比古が描いたゼノさんの肖像画なども展示される。入場無料。

写真資料の経年劣化が進んでおり、展示には再撮影やパネル化が必要になるため、朝日新聞社のクラウドファンディングサイトA-portで支援を募っている。一定額以上の支援には、石飛さんが現地を案内するウォーキングツアーに参加できる特典もある。

プロジェクトのページはこちら

注目記事