熱海光太郎さん (朝日新聞社撮影)
仙台平野の大平原の中に、熱海光太郎さん(42)の農場はある。
少し前まで大平原ではなかった。
5年前、時速200㌔の津波が、道路を隔てたところにあった家々を流し去った。がれきを撤去して土地は更地にされた。今農場から遠くに見えるのは、津波に流されずに残った松林の一部だけだ。
ただ、大震災の前の日常もじょじょに戻ってきている。
大震災の前と同じように、近くにある航空自衛隊・松島基地のブルーインパルスがなにも遮ることのない青空に華やかに弧を描く。明治時代から続くとされる熱海さんの家の母屋や大ケヤキは津波で流されずに残り、今も大ケヤキは編隊飛行の目印だという。
ブルーインパルスが弧を描く。ファームの小屋の窓から見えた (朝日新聞社撮影)
ただ、戻らないものもある。「子供の声が消えてしまった」と熱海さんはいう。多くの子育て世代は津波を恐れ、高台に移転した。熱海さんの家の並びにあった小学校の校庭は、今も草木やがれきがうずたかく積まれたままだ。
熱海さん自身、これまで代々続いてきた家は農場の作業場に変え、高台の新居で3人の子育てをしている。
「もう一度にぎやかにしたい」。震災の後、地域の活性をめざして農業法人「よつばファーム」を立ち上げた。
取材当日、熱海さんは、収穫したばかりの色とりどりのにんじんと雪菜の選別作業を若者やよつばファームの職員らとしていた。その作業場の周りで、熱海さんの子供が駆け回る。
熱海さんは、この地域に人が集まるものを作り出そうと考えた。「人が集まれるものは何だろう」
思い至ったのは、知り合いを通じて知った福島のオリーブ栽培だった。「水はけがよくマイナス15度以下にならなければ大丈夫だそうで、ナシを作っていたところなら作れるそうなんです」
気候が似ている東松島市牛網でも作れるのではないかと「北限のオリーブの森」を作る計画だ。
さらに母屋を作り替え、自分の畑で育てたものを食べられる古民家レストランをつくる夢も持つ。「(農業だけではなく販売や流通、サービス業なども展開して根付かせる)六次産業化して、ここから発信していきたいと思うんです。先のことはわからないけれど......」という。思いは、ここが地域のコミュニティーの拠点になり、生まれ育ったこの土地に再び人々が行き交うにぎわいを取り戻したいと思っている。
「震災から5年たち、被災地は自立する段階に入っています。だからこそ、本当の勝負はこれからです」と熱海さんは話す。
オリーブの森作りの資金をクラウドファンディングサイト「A-port」で募っている。
よつばファーム全景(朝日新聞社撮影)
庭にある大ケヤキ
津波で割れた窓から入り込む風に母屋のカーテンが揺れた
津波でもかろうじて残った母屋
雪菜を世話する熱海さん
よつばファームでとれた雪菜
朝日新聞クラウドファンディングA-portで資金を募集している。リターンはよつばファームの無農薬野菜詰め合わせセットなど