ジャズの本場・アメリカの奏者から「天才クニ」と認められたピアニスト、菅野邦彦さん(82)が、より完璧な演奏をするために考案した「王様鍵盤」の製作に取り組んでいる。「ピアノは未完成な楽器」と語る菅野さんが、現在のピアノに抱いている疑問を解消すべく、約30年にわたって試行錯誤を重ねてきたものだ。これまでにも4台の鍵盤を製作。完成まであと一歩のところまできているといい、クラウドファンディングで資金を募っている。
菅野さんが拠点とする静岡県下田市の「下田ビューホテル」のラウンジ。そのピアノには、「王様鍵盤」のプロトタイプともいうべき平らな鍵盤が取り付けられている。黒鍵も白鍵も全く同じ大きさ。色の違いがなければ、どの鍵盤がどの音なのか、見た目では分からなくなってしまうだろう。
「ピアノはスイッチを押したら音が出る器械。例えば携帯電話がでこぼこしていたら、すぐに指が引っかかってしまうでしょう。ピアノも同じ」
記者が取材に訪れると、この平らな鍵盤の上で軽快に指を走らせながら、菅野さんは語り始めた。
菅野さんは学習院大学在学時に演奏活動をスタートした。1962年に来日したクラリネットの第一人者、トニー・スコットに「天才クニ」と認められ、スコットが日本を離れた後は松本英彦カルテットの創設に加わった。海外でも多くのジャズ奏者と演奏し、国内外で認められたピアニストだ。
だが、菅野さん自身はピアノという楽器に満足できていなかった。
なぜ、ピアノは凸凹なのか?
今の形状では、音のキーを変えるたびに指の運び方(運指)も変えなくてはならない。練習しすぎて腱鞘炎になったり、速弾きでケガをしたりするピアニストも多い。
黒鍵と白鍵の重さや大きさが違っていることも気になった。
「一番いい音が出る『スイートスポット』が違ってくる」
均質な音を出すのが難しく、音をごまかして弾いているように菅野さんには感じられた。
「運動でも歩き出すところからスタートするのに、ピアノはいきなり大人と同じように走り出すことを求められる。体力ができていないのに能力を超えたことをやらされるようなもの。指が動けばいいというテクニカルな評価になってしまい、音楽性や個性を出せるようには、なかなかならない」
「ピアノの原型となる鍵盤はマルコ・ポーロの時代(13~14世紀)にできてから変わっていない。未完成な楽器だ」
そこで様々な「欠点」を解決するために菅野さんが思いついたのが、鍵盤を平らにして大きさをそろえてしまうことだった。これならスイートスポットは同じ位置に並び、音質は均一。キーを変えても運指を変える必要はない。
約30年前から試行錯誤を重ね、下田ビューホテルに設置されている現在の鍵盤は4台目になる。その平らな鍵盤と普通の鍵盤を弾き比べてもらうと、音の透明感やスピード、キーを変えるときの滑らかさなど、演奏のパフォーマンスは明らかに違った。
だが、いま使っている鍵盤はデザイナーに任せた部分が多かったため、丸みや重さが理想的な状態とは違うものになってしまっているのだという。これでは、菅野さんが求めるピアニッシモの繊細な音が出しにくい。
「グランドピアノはオーケストラと対抗できる音を出せるように作られてきた。重い鍵盤では弦をバットでたたいているようなもの。ほんの小さなピアニッシモの音がうまく出せてこそ、本当に聴衆が感動する演奏ができる」
これまでの30年の間に自身や支援者の資金は底をついてしまったが、「王様鍵盤」の完成まで、あと一歩だと感じている。
「これまでの4台で誤りや間違いはやり尽くした。次こそは完全な鍵盤を作れると思う」
若いころから多数の録音を残してきた菅野さんだが、最近は「王様鍵盤ができてから」と録音を控えている。完成したときには、東京・六本木の「キーストンクラブ東京」のライブでお披露目し、久々のCD制作にも取り組むつもりだ。
プロジェクトの詳細は、https://a-port.asahi.com/projects/suganokunihiko/。(伊勢剛)