反原発運動と反精神医学の記憶

議論の目的が現実の改善であることを忘却して、論争の場における道徳的な優位性を目指すことに目標が置き換わってしまった時に、問題が生じます。

精神医学は、その歴史のなかで反精神医学運動というものを経験しました(詳しくは、次を参照してください https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-psychiatry)。これは思想的にも、社会における実践においても、相当の深さと広がりを持った運動で、日本の精神医療にも大きな影響を与えました。

しかしながら、この運動自体にも問題がありましたし、現在の精神医療の主流がこの流れと対抗してそれを抑え込む形で成立したという事情もあって、この運動の一連の展開が持つ価値や意味は忘却されている状態だと思います。しかしながら、この運動を思い出すことで、現在の社会で起きている事象のいくつかの理解を深めることができると考えて、今回の小論を書くことにいたしました。

誤解をおそれずに非常に簡単に反精神医学の考え方をまとめると、次のようになります。精神医学と精神医療の実践こそが、精神科の患者を患者にしてしまっている。つまり、精神医療は、患者を「精神病患者」とレッテルを貼り、入院させて社会から隔離し、向精神薬を大量に服用させ、各種のショック療法等を施行することで、患者をますます患者にしている、そういう考え方です。レインやザスといった理論家が有名なのですが、イタリアの精神医療に興味のある方には、バザーリアの名前の方が知られているかもしれません。

露骨な隔離・収容政策が社会全体で容認されていた時に、この主張は強い説得力を持っていました。若い時に「精神分裂病」と診断された方が、大量の向精神薬を服用し、さまざまな偏見にさらされ、長期の入院を強いられて社会的な経験から疎外される姿をたくさん目撃した人がいるならば、上記のような考えにいたっても不思議はないと思います。

さて、この反精神医学の主張を、一段抽象度を上げて記載してみましょう。何らかの人間の問題を解決するための「治療」とそれを実践するための「組織」や「施設」ができたとします。それによって恩恵をこうむる人がいる一方で、「組織」や「施設」は自己を維持し発展させるための自動運動を開始します。これが「精神科病院」であるならば、病院がその組織や施設を維持するための自動運動を開始するということです。

そうすると、本来は精神科の入院治療が必要のない人まで、精神科の入院治療の対象とするようになるのではないか、具体的には、社会復帰のために必要なリハビリテーションなどの努力を行わずに、ずっと入院していなければならない状態に患者をとどめようとする傾向が生じるのではないだろうか、そういう疑問が生じます。資本主義の社会体制下では、病院が資本家としての性質を帯びざるをえず、患者を「市場」として扱う側面があるのではないか、そしてそのことが患者の幸福の実現を妨げているのではないか、という懸念が提出されるようになる訳です。

この発想がもたらす深刻な分裂や葛藤を、精神医学はその歴史のなかでくり返し体験してきましたし、今でもつねに形を変えて日常的に生じている問題です。

精神科病院よりもマイルドな、社会復帰を目指した実践を行うデイケアや作業所、精神療法のプログラムについても、同様の議論がなされることがあります。

例えば、社会復帰施設において、作業もできて他のメンバーの世話もする優秀なメンバーがいたとします。そのようなメンバーが、なかなか卒業せずに半職員的な働きをしながらいつまでも社会復帰施設に留まってしまう場合に、反精神医学的な発想からの問題提起がなされることがあります。

また、私が精神療法のトレーニングを受けたなかで、私のことを「先生、先生」と慕ってくれる心地よい患者さんに対して、いつまでも自分の手許に残るような働きかけになっていることを指摘されたことがあります。ここまで来るとなかなか厳しい内容に思えますが、いわゆる「援助職」が気を付けて禁欲的になることが求められるポイントだと考えます。

さて、この議論の「精神科病院」や「社会復帰施設」のところを、他の言葉で入れ替えれば、現在の社会問題においても、非常によく語られるさまざまな議論の基本形を作ることができます。

例えば、これを「原子力発電」に置き換えれば、元来は社会を改善させ発展させるために開発された原子力発電所が、それを支える組織が利権を生むために自動運動を開始し、やがて社会に害をなす部分が大きくなっても、社会の他の意見を政治的に抑圧するために虚偽の情報で人々を洗脳し続けている、という議論を作ることができます。

「原子力ムラ」は、そのような自動運動を担っていると想定される実態があるとして、構成された概念であるといえるでしょう。この形で私が書いたものを紹介すると、次のものになります。これを読んでいただければ、私が反精神医学の経験を通じて学んだ問題把握の方法を、原子力発電と平成23年の事故およびそれへの対応の状況に適応して書いたものであることが、すぐにお分かりになると思います(コロナイゼーションの進展としての東京電力福島第一原子力発電所事故対応)。

健康に関する分野では、このような議論が説得力を有する場合が多いのです。精神医療でも、向精神薬、特に抗うつ薬について製薬会社によって行われる精神疾患のキャンペーンが「市場拡大」のために行われているのではないか、そのために放置してもかまわない精神的状況にまで病名がついているのではないかという疑問が、たびたび提出されています。

ちなみに、精神医療にとても批判的な内科のお医者さんがおられて、その方の議論が注目を集めているようですが、これは私には不思議です。今まで反精神医学とその展開において世界中で行われてきた議論に、特別に新しいことは何も付け加えていないように思えるからです。

他の医療の分野では、たとえばワクチン接種の議論などから、反精神医学的な葛藤の存在を感じます。食の安全の分野でも、活発にこのような発想からの論争が起きているようです。大きな政治や経済の分野に目を向けるのならば、「軍産複合体が国民を欺いて国家を戦争へと向かわせる」といった問題への警戒心へとつながるでしょう。

さて、現在の私は、反精神医学的な葛藤については、根本的な解決は不可能であるという結論に達しました。どこかがやり過ぎたら、それが批判される。批判された方はしばらく社会的な活動が制限されるので、そこで修正をしてまた次を目指す、そういうことを延々とくり返すのが、人間の社会だと受け入れるようになりました。

ところで、私がこのように考えるようになったのは、平成24年に福島に来てから経験したことの影響が大きいのです。それ以前はもっと反精神医学的な発想に凝り固まった人間でした。従って、私も移住してきた当初は反原発運動にも大いに共感的だったのですが、そこに反精神医学に感じていた疑問と同種の問題を見出すようになっていきました。

つまり、本来は反精神医学も反原発運動も豊かな内容を持ったものであったはずなのが、それがポピュラーな運動となって政治性を帯びてくると、その主張が短絡化されて、何らかの権威性を帯びた攻撃対象のあら探しを行ってそれをひたすら攻撃するという傾向が生じたのです。議論を進める上での、主導権争いの方が現実的な課題の解消よりも重要になっています。

一般的な「上位の社会的権威=善・強、下位の社会的権威=悪・弱」という枠組みを単純に逆転させただけの、「下位の社会的権威=善・悪、上位の社会的権威=悪・弱」という図式が大きな影響力を持つようになり、このような逆転を起こさせることばかりが、活動の目的になっているようでした。そうすると当然、実際の社会や組織の運営に支障が生じます。

ここまでは主に、反精神医学的な立場から見た権威的な社会構造への批判的な見解を紹介してきました。しかし、この辺りからは、実際に医師として社会的な立場を担っている視点からの、反精神医学・反原発運動的なものへの反論を記します。逆の立場の紹介です。

反精神医学的なものの問題点を、3つ挙げます。この3つはそれぞれが密接に関係しています。

  • 1.エビデンス・ベースド(介入の効果について統計的に検証する姿勢)の発想がない。
  • 2.社会的活動を継続していくための経済効率について配慮がない。
  • 3.議論が道徳的な優位性を目指したものとなり、現実問題の解決からは遊離した性質を帯びるようになっていく。
  • たとえば医療の分野で、「インフォームド・コンセント」の重要性が認識されてきました。それ以前は、「依らしむべし、知らしむべからず」というのが医師・患者関係の基本でした。良くも悪くも、お医者様に治療のすべてをお任せして、患者はうるさいことを言わないことを美徳とする考え方です。それは好ましくない事態である、医師の恣意的な権限があまりにも許容され過ぎているという批判がなされます。そこで、当然、患者にすべて医学的な情報を開示して、自分の治療についての意思決定を行ってもらうことが、目指されるようになります。

    この主張自体は、正しいものです。しかし、その実現が実際には容易ではない場合が少なくありません。それをどのように実現するのかまで含めて議論しなければ、トラブルが起きるのは明らかです。

    自分が重大な病気にかかっているかもしれないという不安に圧倒されているなかで、多くの人にとってはそれまでの人生で縁がなかった医学的な概念について学び、複数の選択肢がある場合のそれぞれのリスクと利益を考えて比較し、自己責任において決断を行うという行為は、決して容易な内容ではありません。本人や医師を含めた現場の当事者のみならず、医療施設全体のサポート体制や社会全体の意識の高まりが必要なのです。

    しかしながら、多忙とされる医療機関が、道徳的な「こうすべし」論だけでこれに取り組むことには、限界があるとは考えられないでしょうか。「自分の病状(ガンのステージについてなど)についての恐ろしい宣告を突然行われ、同意書にサインをするように求められて傷ついた」というようなトラブルが起きる可能性が否定できません。原発事故後の放射線被ばくに関するリスクコミュニケーションについても、現地においてはもっと盛んに行われることが求められている状況です。

    このようなトラブルが起きやすい原因の一つは、日本社会において共同体への同一化を善とする傾向がホンネでは強いのにも関わらず、タテマエでは西欧的な独立した精神性を実現しようとする意識の分裂状況です。もし真剣にこの問題を解決しようとするならば、私が「日本的ナルシシズムの克服と自我の確立」で説明したような精神的な課題の達成に、一人一人の国民が取り組む努力が必要な事態のはずです。

    精神科病院からの退院促進・社会復帰の運動にも混乱がありました。この部分は、イデオロギー的に「入院は悪、退院は善」と信じていたかつての自分への反省でもあります。入院はたくさんの制限を患者に課すものですが、保護を与えていたのも事実です。そして、病院から与えられる保護なしで生活していく状況や力を欠いているのにもかかわらず、「退院」を強制されたらどのようになるでしょうか。当然、さまざまな事故に巻き込まれる可能性があります。

    現在の精神病床削減の方向性が、医療費削減という目標と一致して行われるのだとすれば、そこには危険があります。精神的な機能にハンデがある方々が、一般社会で他の人と伍して生きていけるようになるための、きめ細やかなサポートを提供できなければ、「入院していた方がよかった」状況が生じることも否定できません。それを避けるためには、必要な専門職を養成した上でそれらの専門職が持続して活動できる施設が継続して運用されることが必要で、それには当然コストがかかります。

    さらに、精神障がい者が社会に参加するためには、社会の側も障がいを持つ人を受け入れることの意識を高めることも必要です。障がい者の社会復帰の重要性が叫ばれる一方で、一般社会が、多数に同調できない人を受け入れる度量が高まっているのかという点については、疑問が残ります。

    日本の精神科医療では向精神薬の多剤・大量処方がよく批判されます。当事者の精神科医の一人としては深く反省するべき点だと考えます。しかし、これも個人的な努力のみで対応するには限界があります。例えば、平均的な40~50人の入院患者がいる精神科病棟で、夜勤帯は看護師が2人程度で対応しなければならない状況は珍しくありません。

    その場合に、例えば2人の患者が同時に興奮したとすると、すぐに対応困難な状況が生じます。ひょっとしたら、落ち着かない入院患者が同時に3人発生して、そのタイミングで外来患者も来院する、ということが起きるかもしれません。したがって、夜に確実に穏やかに過ごしてもらうための処方を、個人の患者に押し付けざるをえない状況も生じるのです。

    解決策は簡単です。勤務するスタッフの数を増やせばよいのです。そうすれば、強い薬を使わなくとも、一人一人の患者に丁寧なきめの細かい対応を行うことができます。しかし、そのコストは誰が負担するのでしょうか。

    これは、遠い特殊な場所での話ではなく、今後の日本では普通の家庭で経験するようになるかもしれない出来事です。つまり、今後認知症の患者が増えると、その中の一定数が経過中に夜間の興奮や徘徊をするようになります。そこで、すぐに入院や施設への入所ができず、一定期間家族が自宅で、精神的な不調への対応をしなければならなくなるかもしれません。

    もちろん、高齢者への強い向精神薬の使用は控えるべきです。しかし、他の接し方の工夫を積み重ねてもなかなか落ち着かずに、家族への興奮や暴力が収まらない方もいます。そのような場合に、自分の親について、薬を使わずに何とか家族が対応するか、突然死等のリスクがあることに同意して医師に強い処方をしてもらうのかの選択を迫られる当事者に、普通に生活している日本人がなる可能性があります。

    ここまでの説明で、ただひたすら「精神科への入院が悪」という反精神医学的なイデオロギーを主張するだけでは、問題の解決にならないことは理解していただけたと思います。もちろん、大量処方・長期入院を行うことが良いと主張している訳ではありません。何よりも、個別の事情を理解した上でのきめ細かい対応が必要なのです。そして、当事者だけで対応できない問題も数多くあります。今まで精神科病院のなかに押しこめられていた問題を、社会全体で共有していただきたいのです。

    現実の個人・組織・社会には限界があります。その範囲のなかで、それぞれが必死に頑張っています。そして、恵まれた状況のなかで、意識の高い議論を戦わせてきた人にとっては、さまざまな妥協の産物である現場の実践は忌むべきもの、もっと強く言えば攻撃して破壊するべきものに見えるかもしれません。福島県の南相馬市に暮らして、そこから見える反原発運動を担う人たちの一部の主張は、そのように見えました。

    現地に暮らす人々は、それぞれの方法で安全・安心を見出して、そこでの生活を営み、将来を開こうとしています。私の場合、だいたい次のように考えています。

    ・平成23年の事故で放出された放射性セシウムについて、現時点で行われている規制にしたがっている限りは、実質的な影響ある直接的な健康被害が起きる可能性は、きわめて低いと考えます。そうは言っても、キノコやイノシシや底魚を未検査で食べるようなことをしてはいけません。

    ・半減期8日ほどの放射性ヨードの影響を評価するためのデータは、セシウムよりも少ない状況です。しかし、こちらの調査結果からも深刻な被害を予想される被ばくは起きなかったと考えらます。甲状腺の検査によって、嚢胞やガンの発生が報告されていますが、現時点では過剰診断によるものとする学問的な主張を覆すほどの、強い所見は得られていません。

    ・心配をしているのは、現在の福島第一原子力発電所の廃炉作業です。これから何十年も困難な作業を継続させなければならないと予想されていますが、それに対応しなければならないという国全体の意識が、弱いように感じられるのです。必要な作業員を確保し、その能力と意欲を維持し、きちんとした健康管理も行うための態勢ができているかについては、疑問を感じています。時々、作業員が大きな事故に巻き込まれています。

    また、そのような状況では、長く続く作業期間のどこかでトラブルが起きる可能性があるのではないかという危惧を、私は捨て去ることができていません。しかしその場合に批判されるべきなのは、管理責任者です。現地の作業員は、すでに目いっぱいの働きをしており、さらなる理解と支援を必要としています。

    ・直接的な健康被害は少なくとも、生活習慣の変化や精神的なストレスを通じた間接的な住民への悪影響はとてつもなく大きいと考えます。微力ながら、精神科医の立場で現地に残って頑張っているのは、この部分の問題意識があるからです。

    私のこのようなスタンスも、厳格な反原発の立場の人からは、「放射線の直接的な健康被害を軽視して、地元の人に被ばくを強いている非人間的な医者」ということになるのだと思います。そうすると、たとえばこんな反論もしたくなります。

    「福島の事故の後に起きなかったこととして、放射線の影響への恐怖からの妊娠中絶が挙げられます。チェルノブイリの時にはそれが行われました。そして実際に、今回の福島では乳児の奇形等の発生率は上昇しませんでした。このことは、安全な部分は安全ときちんと広報された成果だと思われますが、いかがでしょう。ただひたすら「危険」と説明されていたら、生まれるはずだった命の一部も中絶されていたかもしれません」という考え方もあるのです。

    論争における「勝った、負けた」の袋小路にはまらないようにすることが重要です。

    権威のある側もない側も、議論の目的が現実の改善であることを忘却して、論争の場における道徳的な優位性を目指すことに、目標が置き換わってしまった時に問題が生じます。ここには、共同体に同一化して、隣人よりも共同体内の上位の立場を獲得することから強い満足を得る、日本的なナルシシズムの問題も働いています。

    しかし、そのようなナルシシズムの病理によって歪んでいる現実認識からえられた結論は、権威の側からのものであっても、反権威の側からのものであっても、継続するためのコストの問題を軽視した、現実から遊離したものとなる危険性があります。

    社会的な難問は、複雑な要因が絡まり合っていることが多いのです。したがって、そのほとんどは「全体の空気」に合わせていくだけでは解決できません。その問題にかかわる多くの当事者が、他人任せにせずに、自分の意見や考えを表明しつつ意思決定のプロセスに主体性を持って参加することが求められています。

    これが、「日本的ナルシシズムの克服と自我の確立」という言葉で、私が伝えたいと願っていることです。

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