意識の分裂(split)と抑うつポジション

筆者はクラインの「抑うつポジション」を、フロイドの「エディプス・コンプレックス」と並ぶ重要な発見であったと考えている。乳幼児のこころには個体として閉じて完結する力はなく、母親を中心として構成される周囲の環境に一体化している。

現代日本における意識の分裂について(4)

この一連の論考における中心的な課題は、現代日本における意識の「分裂split」について記述することである。そして、第4番目に当たる今回は、精神分析家のメラニー・クラインによる「分裂split」の概念を参考しつつ、それを明確にすることを試みる。

1917年にフロイドは「喪とメランコリー」という論文を提出した。私たちの人生では、肉親との死別などの重要な「対象喪失」を経験することがある。そのような時に、外界の世界はもはや空しいものと感じられ、深い悲嘆に沈むこととなる。このことのもたらす苦痛は極めて大きいが、時が流れることで慰めと癒しが与えられる。本人もやがて悲嘆から立ち直り、新たに世界に向かっていくこととなる。この経過は「喪の過程」と呼ばれる。

しかしながら、そのような形で時の流れが慰めを与えることなく、フロイドが「メランコリー」と呼んだ精神病的な状態が生じることがある(これは現在「うつ病」と呼ばれるものと、そのままでは一致しない)。そこでは、すさまじい憎悪と悔恨に満ちた感情の中に患者はとらえられ、患者は外界の世界から隔絶されてしまい、そこに愛や安らぎを見出すことはできない。

メランコリーでは、主体は失われた対象と同一化してしまっている。主体からの対象への執着があまりにも強いために、それを手放すことができない。対象が失われたことによる欲求不満は、対象と同一化した自分にサディスティックな怒りを向けること、つまり過酷な自己処罰を行うことで慰められる。その代償として起きるのは、自我の弱体化である。対象喪失における喪の過程では、世界が空しくなったように体験されるが、メランコリーでは対象の喪失は否認され、自我が空しくなっている。

さて、20~30年前の日本のうつ病臨床では、会社員が職場で異動すること、あるいは、主婦が引っ越しを経験することなどが発症の誘因になるという「状況因」が頻繁に論じられた。通常では肯定的な変化も、危機となることがある。現場での努力が認められて管理職となる、あるいは主婦の念願がかなって借家から一軒家に移るなどの事態は、普通ならば喜ばしい出来事である。

しかし、「現代日本における意識の分裂について(1)」で説明した、几帳面さや献身的な配慮を特徴とするメランコリー親和型のパーソナリティーでは、これが試練となる。つまり、苦労を乗り越えて成功を勝ち取った場との密着度が高過ぎるため、そこから引き離されることで自らの「仕事」との関わり方を見失ってしまい、空転してしまうのだ。自分が馴染んだ職場から離れることは、無意識的な「対象喪失」を意味し、すさまじい内的な苦痛や混乱が引き起こされる。

さて、それでは対象喪失に臨んで、なぜある主体では正常な喪の過程が進行し、なぜ別の主体ではメランコリーが生じてしまうのだろうか。これについてクライン派の精神分析家たちは、幼少期における「抑うつポジション」という精神発達上の段階が、十分に乗り越えられているか否かによってその差が生じると考えた。

なお、筆者はクラインの「抑うつポジション」を、フロイドの「エディプス・コンプレックス」と並ぶ重要な発見であったと考えている。

乳幼児のこころには個体として閉じて完結する力はなく、母親を中心として構成される周囲の環境に一体化している。母親のことを、自分を愛してくれる、安定した持続する一つのまとまりを持つ全体として理解できていない。その代りに、乳房や手といった部分的な対象が、無秩序に出現するような世界を体験している。また、同一の乳房についても、それが時間的に連続した存在とは感じられず、空腹時にタイミングよく授乳をしてくれる「良い乳房」と、なかなかミルクを与えてくれない「悪い乳房」の経験が統合されずに、それぞれが分裂splitしてしまっている。

「悪い乳房」に関わる時に乳幼児の中に生じる攻撃的な衝動は、非常に原始的で強烈なものである。「良いもの」を独占して与えない悪い対象に、乳幼児は強い羨望を向け、その体内に侵入して良いものを貪り尽くしたいと願う口唇期サディズムの空想が頻繁に刺激される。強い攻撃的な空想を「悪い乳房」に投影することから、その対象が自分を攻撃してくる迫害的な不安が引き起こされる。そして、もし良い対象を自らのサディズムで破壊しても、それをすぐに自らの空想の力で再生・復活させられると考える幼児的な全能感や魔術的思考も活発である。このような状況をクラインは、「妄想分裂ポジション」と呼んだ。

この妄想分裂ポジションを超えて「抑うつポジション」に進むためには、自分が対象を攻撃して傷つけたことから生じる罪悪感と、それによって対象を失うのではないかと感じる抑うつ的な不安が乗り越えられねばならない。その上ではじめて、自分が攻撃した悪い対象と、自分にミルクなどを与えてくれた良い対象が、同一のものであると体験することが可能となり、全体としての対象と関わってそれに共感や思いやりの情緒を寄せることが可能となる。

抑うつポジションを通過することによって、「こころ」は一つの全体としてまとまることが可能となり、母を中心とした環境からの分離が行われる。抑うつポジションの確立が、エディプス・コンプレックスに進む前提となる。しかし、この過程が十分に行われない場合に、些細な欲求不満によって簡単に「良い対象」と「悪い対象」の分裂splitへの退行が生じる脆弱性が、こころの中に残ることとなる。そして、無意識的な対象喪失によって、妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安や、抑うつポジションにおける抑うつ的な不安が賦活されてしまうのである。

さて、私は「現代日本における意識の分裂について(2)」で、日本的ナルシシズムの病理性について、「母との一体感は、比較的強い形で家庭や学校、会社などへの一体感へと横滑りしていく」と論じたが、そのことはクラインの議論を利用すると、次のように理解できる。良い乳房と悪い乳房との分裂splitが容易に生じる母と一体化したこころの構造は、「良い日本」の体験と「悪い日本」の体験との分裂splitが容易に生じる日本社会と一体化したこころの構造へと横滑りをしていく。

このことは、一つの個として全体としてのまとまりを持つ「こころ」が十分に成立しておらず、したがって、一つの全体としての日本を経験することもできなくなっている。この分裂がもたらす不安に対抗するために、「良い日本」をさらに完全にしようとする「理想化idealization」や「悪い日本」を完全にこころの中から排除する「否認denial」などの防衛機制が働くこともある。

このような日本的なナルシシズムは、自我の確立された日本人が、弱点や欠点があることを知りつつも日本への愛着を持つことから生じる健全な誇りとは、質的に異なるものである。

全体としての日本のこころが抱える分裂splitは、特に韓国や中国とのかかわりにおいて顕在化しやすい。数年前の「韓流ブーム」が盛んであった時に、韓国の文化を楽しんでいた多くの日本人の体験は、両国の間にある太平洋戦争などの困難な経験と連続しておらず、断片化した全体として統合されないものだっただろう。

しかしその後に日本は、韓国や中国から太平洋戦争中に行った行為について激しい直面化を迫られている。このことは、日本という国家が強い罪悪感や葛藤をひき起こす主題に対して、分裂splitや排除のような原始的な防衛機制に頼らずに、一貫した責任を負える主体としての精神性を発揮できるか否かが、世界が注視する中で試されているといえるだろう。

しかし留意しなければならない非常に重要な点が一つある。理論上は「抑うつポジション」の経験が精神発達上に重要であるのだとしても、それがもたらす主観的な苦悩があまりにも強烈なために、臨床上は、その経験を安易にクライエントに求めることは避けるべきであると考えられている。

抑うつポジションがもたらす対象を失う不安は極めて大きく、十分に成熟した自我を持たない主体はその不安にのみ込まれ、「無限に恥じ入る」という状況にとらえられる可能性がある。これはプライベートな、あるいは文化的な領域における行為としては高い精神性を称揚されるべきものである。しかしその反面、現実の利害がうごめく国際社会の場面で、不安に圧倒されて自我を失う状態に長く留まってしまうのは、きわめて危険である。

それでも理想は抑うつポジションのもたらす不安を克服し、全体を統合できる自我を確立することである。是は是、非は非と認めながら、内に秘めた罪悪感などの思いはある程度まで秘密にしつつ、現実的に相手と共有できるストーリーの構築を模索し、その範囲に収まる要請には誠実に応じながら、それを超える要求に対しては断固とした態度を示す、そのような「日本」の姿は期待できないのだろうか。

残念ながら、現在起きている現象は、この不安に耐えきれずに「分裂split」「理想化」「排除」などの原始的な防衛機制が横行する「妄想分裂ポジション」への退行である。それを望む気持ちは想像できるが、戦時中の日本に何も問題が無かったと主張し、先方の非を指摘し返すような態度を続けて、受け入れられるとは考えられない。可視化されにくいが、この数年で日本が喪失した状況がある。

アメリカの政治的軍事的優位が作る秩序の中で、経済的優位を保つNo.2の立場を維持し、その庇護の中で欲求不満をもたらす議論を分裂排除することが許容される立場である。この喪失を受け入れられないことに加えて、他のさまざまな欲求不満も重なり、集団としての日本人のこころは、ビオンが個人における妄想分裂ポジションに対応すると考えた、相互に妄想的となって闘争や逃避を行う反応が頻発する無意識的で原始的なグループ心性に退行している可能性がある。

筆者の議論は日本の否定的な面に焦点を当ててそれを明確化する性質が強く、そのことが日本に対する攻撃であると理解されることがある。しかし、筆者はそれに対しては明確に否と答える。一連の論考の目的は単に日本を非難することではなく、否認され排除されている日本とかかわる私たちのこころの部分を取り戻すことによって、全体としての日本を体験し、然るべき抑うつポジションの苦しみを通過することで、この欲求不満の時代を生き抜く自我の力を獲得することである。

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