現代日本における意識の分裂について(6)
メラニー・クライン② 躁的防衛による喪失の否認について
1945年の3月10日は東京大空襲が行われ、2011年の3月11日には東日本大震災が起きた。
どちらも、私たち日本人にとても大きな喪失をもたらした。
「過去を振り返らずに明るく前向きに考えるべきだ」という言葉が世間ではよく用いられる。その意味は分かる。苦しく悲しい過去を思い出しても、現実的な解決がもたらされる訳ではない。それよりも、苦悩に導くような感情や記憶を意識から排除した方が、多忙な日常生活を乗り越えていくためには有用である。しかし、やはり複雑な気持ちになる。
拙論「現代日本における意識の分裂について(4)」で、精神分析家のメラニー・クラインが理論化した「抑うつポジション」という概念を紹介した。愛着を向けた対象が不在となる局面で、私たちは強い欲求不満を感じ、そこから不在となった対象への強い怒りやうらみなどの感情が刺激される。
やがて攻撃性を向けた対象と以前には私に慰めと満足を与えてくれた対象が同一であったことに気がつき、苦痛に満ちた感情を経験する。これが「抑うつポジション」であり、私たちのこころが同一性を確立できる基盤である。この経験を通じて、同じ一つの対象が自分に満足を与えることも欲求不満を与えることもある、独立した存在であることを知るのである。
しかし、「重要な対象を自分の怒りや羨望が破壊してしまった」という無意識的な幻想(これが事実であったかどうかは、メタサイコロジーにおいてはあまり重要な課題とならない)を、意識の中に抱える苦痛はあまりに大きい。その時に、こころを守るために用いられる防衛機制の一つが「躁的防衛manic defense」である。自分が破壊した対象の価値は著しく低く評価される。
もっとも徹底的な脱価値化は忘却による意識からの抹消である。それよりは程度の軽い脱価値化では、対象は何らかの意味で、攻撃することが適当な劣った対象であると見なされる。1966年に土居健郎がうつ病の心理について説明した論文の中では、「人間は弱さや恐怖を感ずるよりも、むしろ、自分は悪いが強いんだと感ずるほうを好む」という言葉が紹介された。
私たちのこころで躁的防衛の過程が働く時に、対象に向けられる感情は「征服感」「勝利感」「軽蔑」だとクライン派では説明される。躁的防衛に頼ることでこころの苦痛は減少するものの、抑うつポジションを通過して独立したこころを成立させることが困難となる。現実の歪曲を含む思考が優勢となることは、将来において適切に考える能力の発達を妨げることになる。
土居によれば、人間のもっとも基本的な対人的欲求は「『甘える』ことすなわち依存欲求」である。それなのにうつ病者は、「少なくとも表面上は甘えることがなく、相手に依存したいという意識すら伴わないことが多い」と説明された。このようなこころの傾向が出てくる基盤として、直接的な対人接触で依存欲求を満たされない個人の環境が想定された。
そこから、具体的な人間関係を軽蔑して何らかの抽象的な価値と強い一体感を持つに至ることが、うつ病への脆弱性を高めると考えられたのである。うつ病の精神病理学を研究した飯田(1997)は、母からは直接的には甘やかされなかった子どもに、かつての家父長的であった日本で、社会的な権威であった父親と想像の上で一体化することを通して、メランコリー親和型といううつ病と縁の深い性格が構成される経過を論じた。土居の前掲の論文では、「このような本来の依存欲求の不満を防衛するために生じた状態こそナルシシズム(自己愛)とよばれるべきであると思う」と論じられた。
日本の明治以降の歴史について、「急激な近代化を達成した」と評価されることかある。しかしその過程で、私たちは直接の人間関係で依存を受けいれ合うことを拒絶し、その代わりに国家や企業などの価値を理想化してそこに個々人の持てる全てを集約するような、こころの働かせ方の癖を身につけてしまったのではないだろうか。
太平洋戦争中の一つの逸話を紹介する。高橋哲哉の『靖国問題』では、1939年に『主婦の友』に掲載された「母一人子一人の愛児を御国に捧げた誉れの母の感涙座談会」という記事が引用された。「私らがような者に、陛下に使ってもらえる子を持たしていただいてな、ほんとうにありがたいことでござりますわいな」などと、子どもが戦死した母たちは語っていた。
私はこのような出来事が起きた背景を、「国家の陰謀」に帰すような単純化を行おうとは思わない。歴史を振り返れば、多くの国家や宗教でこのような形を目指す集団の運営が行われてきたといえるだろう。そして、前の段落のような精神性も、植民地主義が横行した近代という時代を生き抜くために、日本人の全体がある程度納得して達成したことだと思う。しかし問題は、そのような無理を続けた末に、そこで形成された前意識的・無意識的な過程が、まるで自動運動のような進行を現在でも続けていることだ。
「原子力政策研究会」を取材した結果を、NHKの取材班が福島第一原子力発電所の事故後に発表した『原発メルトダウンへの道』という著書の中では、日本における原子力政策を推進したある人物についての、周囲からの次のような証言が紹介されている。「中身は分からなくてもやる必要があるんだということで、国会答弁をしておられました。
もう、絶対にやる必要があると言うだけで、中身を説明しないんです」「大人物にもいろいろある。が、自分の都合がよいことだけしか聞かないんです。いくら説明しても、自分にはわからんこと、あるいは気に食わんことは、ちっとも頭に入らない。受け付けないんです」。こういう「元気さを、日本人はこころから愛しているように見える。
個人的なことをいくつか書く。
私の母方の祖母は、その父が日清戦争で負傷し障害者となったのを支えた親孝行を、新聞でほめられたそうだ。その祖母はもう大分前に亡くなったが、小さかった私に、関東大震災で起きた火事で、熱さを逃れるために人々が隅田川に次々と飛び込んで圧死した様子を語ることがあった。そして、大人になってからは母から、その当時の人々が東京在住の半島の人々に対して持っていた感情や考えについて伝えられた。しかし、自分の息子や兄が亡くなった東京大空襲のことを、祖母や母が自分から語ることは、ほとんどなかった。
震災後、思うところがあって2012年の4月から福島県の南相馬市で暮らしている。そこでNPOの活動を通じて地域のラジオ体操に参加し、ある高齢の男性と親しくなった。その方がふと気を許した時に私に話してくれたのは、東日本大震災のトラウマではなく、太平洋戦争で同級生が亡くなったのに、自分が生き続けていることの負い目の感情だった。
私は精神科医として被災地にいるが、「震災のトラウマ」に焦点を当てた活動には積極的になれない。それにはいろいろな理由があるが、太平洋戦争をはじめ、さまざまなトラウマを否認・抑圧している社会の中で、東日本大震災のことに着目することを不自然と感じている点もあるからだ。
さて、それでも3月10日と11日は特別な日だ。
失われた対象を意識から排除することは難しいかもしれない。
もはや一体化しえない対象が意識に浮かんできた時に、それを攻撃して脱価値化することは適切ではないと思う。
怒りや恨みをぶつけるべき、身代わりのスケープゴートも探すべきではない。
弔いも償いもできないことは、私たちのこころを弱くする。
畏れの感情を持って、失われた対象の中にある怒りや恨みの感情をなぐさめよう。そして、もはやともにいることができないことの悲しみを悲しもう。
昨日は母に電話して、亡くなった伯父のことなどを改めて聞いてみた。私の知らなかった、伯父の家族のことなども話してくれた。嫌がられるかもしれないと予想していたのだが、明るい声で母が、「思いだしてあげることが供養になるからね」と話してくれたので、とても救われた気持ちとなった。