相模原の事件の顛末から考えた「日本的ナルシシズムからの回復」について

外にある悪ばかりではなく、自分の中のナルシシズムの問題に真剣に取り組む人が増えることで、この問題からの回復が果たされることを願っている。

いったん、「日本的ナルシシズム」という話を終わりにしたいと考えて、この文章を書いている。

今年7月に神奈川県相模原市の障害者施設で19名の利用者が刺殺される事件が起きた。

さまざまな意見が提出されたが、具体的な対応策として大きなものは提出されておらず、そもそもこの事件についてどのように考えるべきかという、共通理解も得られていないように思える。

共通理解は必ずしも必要ないかもしれない。しかしそれであっても、有力な意見が複数に絞られて、それらの間で論争が行われることがあっても良かったように思う。その代わりに認められたのは、感情的な発言の散発であり、それらが統一に向かうことはなかった。

比較的目立った動きだったのは、数十人の精神保健指定医が資格を取り消される処分を受けたことだ。これは事件の容疑者になった人物に措置入院歴があり、その措置入院を判断した医師のうちの一人の資格取得のプロセスに、不適切な点があったことが判明したことの影響が大きかったと推測される。

これは精神科医である私が所属する業界の問題であり、謙虚に指摘を受け止めて襟を正すべき事態である。しかし、それでもあえて一言述べるのならば、この精神保健指定医の問題が、7月の相模原の事件との関連が、非常に大きかったと認められる内容なのか否かには、疑問が残る。

杞憂で終われば良いが、この大量の指定医取り消しのニュースを聞いて、私の心に一つの心配が生じた。それは、「また、難しい症例にかかわろうとする精神科医が減らなければ良いのだけれども」ということである。

2012年からは福島県に移ったが、それまで私は東京と埼玉を中心に精神科臨床にかかわっていた。その時に感じていたのは、事件などにつながる可能性のある患者に、真剣にかかわろうとする医師や病院・施設が、減ってきているということだった。

もちろん、昔からその傾向は残念ながらあっただろう。日本の精神科医療の中心を担ってきたのは私立の精神科病院である。その場合に、「手がかかる」患者に対応することには限界がある。

しかし、よくも悪くもあいまいなままで長期の入院等が今よりも許容されていた精神科の病院では、「自分のところの患者」には一生懸命に何とか対応しようとする面もあった。「抱え過ぎること」が人権侵害につながるような精神医療の行き過ぎにつながったのも事実である。しかし、他に生活の場所を探しにくい人々の受け皿の一つとして、精神科病院は存在していた。

そのような精神科医療は、現在は公的には否定されている。医師や病院の治療成績は「客観的な」数字で評価されるようになった。例えば、「平均在院日数」が短い病院がよい病院とされる。

その場合に、短い「平均在院日数」の数字をつくり、良い評価を得るためにはどうすればよいだろうか。「長く入院しそうな患者にはなるべく関わらないようにする」という判断をする施設も、出てくるかもしれない。

精神科医の個別の治療場面でならば、「エビデンス」の重要性が強調されるようになった。特定の薬剤や、標準化された心理療法を、多数の標準化された対象に実施して、統計的に検証して有効と認められた内容だけに学問的な権威が認められている。

しかし個別の精神医療の場合には、「特定の薬剤を定期的に服用してくれる」「標準化された心理療法を受け入れてくれる」までの信頼関係を患者と築くことが容易ではない場合もある。そして、いわゆる「難しい」患者は、この部分の困難が大きいことが多い。そもそも社会への信頼や他人に適切な愛着を抱くことを、人生の中でほとんど経験していない人もいるのである。

それなのに、この部分がほとんど学問的な評価の対象とならないということで、かかわることを避ける傾向が、特に研究機関などに勤務する意欲の高い医師に、生じないとも限らない。そして子細に見るならば、どんな患者であっても、定式化された治療の枠組みをはみ出てしまう面があるのが当然である。その部分に丁寧に対応することの方が、精神科臨床の本質ではないかと思えることもある。

もちろん、今回私が書いているような内容を言葉にしてしまう方が少数派であり、多くの精神科医は高い倫理観に支えられて真摯に患者と向き合っている。しかし、人間の弱さを考える時に、それぞれの職業人の倫理観だけに依存することには、危険もともなわないだろうか。

7月の相模原の事件の本質は、被害者となった人についても、加害者となった人についても、社会の公的な価値観に馴染まない人を、いかに社会に包摂するのかという問題だと思う。

そして実は、精神医療の分野については、社会的包摂について、現状よりも優れた理念がすでに存在し、法や制度の整備も始まっているのである。このことが、相模原の事件の後に具体的な提案が乏しいことの一因である。すでにあるものが実現するように、一生懸命に本腰を入れて頑張ればよいのだと考えている。

それでは何故、そのような社会的包摂の理念は実現されないのか。

本気で関わる人が足りないのである。

仮に熱意のある精神科のスタッフが出現しても、コストの問題が適切に処理されないことが多い。つまりコストを度外視して理念の実現を目指す人々と、理念に本気で関わる気はなく目の前のコストを削減することだけに注力してしまう人々の間の分裂が生じやすいのだ。

そして熱心な人がいる期間にだけ新しい理念を実現する運動が盛り上がるが、何らかの事情でその熱心な人が活動を継続できなくなると、その運動が終息してしまうということが、本当に起きやすい。

このように考えてきて、私は、この問題に対処するためには、日本人の中で多数が意識を変更することが必要だと考えるようになった。「理念」と「現実」に分裂してしまいやすい私たちの意識を、統合に向かわせる道である。

「現実」の中に閉じこもり「理念」を忘却することが、実生活上ではあまりにも有利で強く、安全で確実であり、多数を味方にできるので、普通の社会人として生きていくためには、他の道はほとんど考えられないほどである。この場合の「現実」は多少皮肉をこめて小さい意味で使っている。言い換えるならば、目の前の小さな経済的利益や有利な社会的立場を確保することを、最優先に考えることである。

したがって、理念を重んじる人は孤立しやすい。孤立に耐えられずに道を誤ったり、消耗してしまうなどの危険も高くなる。しかし、この立場の人の問題はすでに広く論じられてきたので、ここではさらにくり返すことはしない。

私が呼びかけるのは、小さな「現実」の中に引きこもることを自分の人生の戦略・戦術として選んで実践している人々に対してである。それは立派な社会の安定に資する生き方で、基本的に非難することが困難である。

しかし敢えて指摘するならば、その人々の成功には、リスクを負って未解決の分野に挑んでいる人々に依存している面があること、そして将来に対して社会の未解決な問題に十分にコミットしない怠惰さがあることを挙げることができるだろう。

たとえば日本の学問の状況について考える時に、海外からは「基礎研究ただ乗り論」と批判されることがある。新しい知が創造されるのに当たっては、最初から実用化や、ましてや成功する事業展開が描けないものの方が普通である。しかし、その部分のために長年苦闘する人がいたからこそ、その後の成果が可能となる。もちろん、基礎的な研究の中にはそれだけに終わり、成果につながらないものもある。

そういったものを全て、私たちの社会は、「現実的でない、くだらないもの」と切り捨てていないだろうか。それでありながら、他の誰かが達成した成果を、しらーっと利用しているのならば、その精神性はナルシシスティックで傲慢であると言えるだろう。

社会的事業についても、既存の枠組みでは対応できない問題に取り組む人々を、あいまいな段階では遠目に見ているだけで決して責任を負わないでよい立場に留まりつつ、失敗があれば激しく非難してペナルティーを与え、成功すればなるべくそれに「ただ乗り」するというのが、一番堅実で、多数が好む行動様式になってはいないだろうか。

医療や福祉の分野についてはすでに論じた。

別の話題であるが、震災からの復興についての事業でも、同じような問題を感じることがある。私は福島第一原子力発電所の廃炉の作業に直接かかわる人々や、一部の本当に地域の未来を考えて、既存の枠組みを超えたイノベイティブな取り組みを行っている人々は、十分なサポートを受けていないと考えている。

このことに官も民もあまり関係はない。官の立場にある人でも民の立場にある人でも、分かっている人はきちんとした行動をとっている。しかしながら、どちらの立場でも、既存の枠内で処理できる安全でキレイな(つまり、後から責任を問われるような面倒な事情がない)事業に参画してより良い分配を受けることに熱心で、新しい理念を必要とする難しい社会的事業に取り組むことには、他人任せで批判とタダ乗りが好きという傾向が強いのが現状だと思う。

そもそも、そのような意識が強まったばかりに「想定外」の状況に対応できず、原発事故のような事態への対処が不十分になっているのではないだろうか。

このような意識を「日本的ナルシシズム」と名付けてみた。

私は厳しい現実と出会って絶望することを後ろ向きのこととは思わない。

むしろそれと出会って、自分とは異質な人々と社会で共存すること、障害者の社会的包摂を促進すること、恐ろしい社会的な事件を予防すること、原発事故の後処理を行うこと、真に社会の知的水準を高めていくことなどが、簡単な答えのない長期の取り組みを必要とすることなのを、骨身に沁みて感じることが(抑うつポジションを経験して通過することが)、本当に現実を改善していくためには、必要な前向きなことであると考えている。

社会の中の痛ましい出来事についての償いの作業は、決して躁的な高揚感の中で果たされることはない。

しかし、最後に一つ考え直したいことがある。私が「日本的ナルシシズム」と呼んでいるものは、本当に「日本」の問題なのだろうか。東アジア全体にみられるという意見を聞いたこともあったし、いやいや西欧の社会でも、どこにでもあることだと言われたこともあった。

そもそも人が他の対象を批判する時には、自分の中にあるものを相手に投影していることも少なくない。私はそのことの正当性を認め、自分が「日本的ナルシシズム」という言葉で批判してきた内容を、「自分の中のナルシシズム」の問題として引き受けなおしたい。この行為には、日本社会を批判し、その達成したものの上にタダ乗りをしようとする傾向が、含まれていないとは言えないだろう。

ひょっとしたらそれは、相模原の事件の犯人の中に働いていただろう、「日本社会で皆が取り組んでも解決できない難問を自分が解決した」という実績を求める功名心、つまりナルシシズムの問題とつながっている。

私一人の力はとても無力で小さい。

外にある悪ばかりではなく、自分の中のナルシシズムの問題に真剣に取り組む人が増えることで、この問題からの回復が果たされることを願っている。

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