10年前、私は4年間の活動を終えて南スーダンを離れた。その時には、今後に希望が持てそうだと感じていた。旧スーダン国内で停戦協定が結ばれ、平和合意が議論されていた。そして2011年、旧スーダン南部は独立して南スーダンとなり、自らの手で運命を切り開く立場となった。
独立後の国家運営を滞りなく進められるとは思わなかったが、2013年12月に起きた武力衝突の規模、広がりの速さ、影響の大きさには衝撃を受けた。遠路やってきた南スーダン人の友人から聞くだけでは済まないと思い、私は南スーダンに帰ってきた。MSFオランダの事務局長として、その緊急対応を監督するために。
■ 町の人口が3倍、病院の患者数が4倍に
南スーダンに到着して10日経ち、すでに痛ましい話をいくつも聞いた。ニムレという町では、デングという名の少年が私に助けを求めてきた。彼は、激戦地となったボルで、家族全員を失っていた。
ここでは数十万人が自宅を追われ、食べ物も、水も、住まいも、医療もほとんどないまま、避難場所まで長い道のりを歩き続けている。ランキエンという町のMSF診療所で、私はマリオンにあった。彼女もボルで起きた戦闘を避け、妊娠中の体で長く厳しい旅をし、MSFの診療所にたどり着いたのだ。彼女は幸い、健康な女の赤ちゃんを出産した。
一方、外出する危険を恐れて避難キャンプに引きこもり、将来の見通しが立たないまま、受け入れがたい条件下で生活している人びともいた。
MSF病院や診療所は患者でいっぱいになっていた。ランキエンには多くの避難者が押し寄せ、地域人口は3倍に膨れあがっていた。MSFの施設に来院する患者数も通常時の4倍になっている。しかし、悲しいことに、救命治療が最も必要とされているこの場所で、MSFの施設が襲撃や略奪に遭い、活動の一時停止を余儀なくされた。
■ 人道危機、長期化する恐れ
ごく普通の生活を送っていた市民が、2013年末から数週間にわたる紛争で深刻な影響を受けている。病院や市場が破壊され、大勢の避難者を受け入れている地域社会の圧力が高まっている。視察の結果、私は次の結論に達した。南スーダンの人道上の危機はまだ数ヵ月続き、人びとには、あらゆる援助が必要となるだろう。
MSFは、南スーダンが旧スーダン南部だった時代から、ここで30年以上にわたり活動している。緊急対応チームは首都ジュバ、アウェリアル、ランキエン、ナーシル、ニムレに入っている。襲撃を受けて活動を一時停止していたマラカルやベンティウにも戻った。さらに、ボルへ行く準備も進めている。MSFの優先事項は人びとのニーズに基づいて決まる。私は、診療、栄養治療、給排水・衛生活動、外科など広範な活動を維持していく必要があると確信している。
■ MSFが活動を続ける3つの条件
MSFがここで医療・援助活動を続けるには、3つの条件が不可欠だ。第1に、政府側か反政府側か、誰が支配権を持っているか、などにかかわらず、緊急対応が必要な患者全員を治療できる体制が必要だ。
第2に、上記と密接にかかわることだが、MSFは紛争の全当事者と対話する必要がある。活動の透明性を保ち、信頼感と開かれた関係性で共通の課題に取り組める体制を築く意図を明確にした上での対話が必要だ。
さらに、最も重要なことは、紛争の全当事者(トップの司令官から兵士1人ひとりまで)が、患者、医療施設、そしてMSFを絶対に尊重すると決意することが必要だ。
私は今回、ジュバとニムレで政府高官に、そして反政府勢力支配地域で現地当局に面会した。彼らはMSFの活動を支援することに熱意を持っており、私はその点に感動した。
しかし、現場の実情は"もっと難しいこと"があると示している。MSFはマラカルやベンティウで被害を受け、そのことを学んだ。だから、次の1歩は明らかだ。MSFはこの緊急事態に対応するため、全当局者と接触する。MSFの物流を駆使し、独立性を確保しつつ、必要なチームと資源を現地に投入する。紛争の全当事者がMSFの活動を支援するという約束を守るべきだと主張する。
そうすることで、先に述べた少年デングや、お母さんとなったマリオンを始め、数十万人の援助ニーズに応えるべく、最大限の活動ができるのだ。
国境なき医師団(MSF)は、紛争や災害、貧困などによって命の危機に直面している人びとに医療を届ける国際的な民間の医療・人道援助団体。「独立・中立・公平」を原則とし、人種や政治、宗教にかかわらず援助を提供する。医師や看護師をはじめとする海外派遣スタッフと現地スタッフの合計約3万6000人が、世界の約70ヵ国・地域で活動している。1999年、ノーベル平和賞受賞。
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