自分の付加価値を高めるために

若いうちは、気後れせず、何でもやってみるものだとつくづく思う。
Asuka Higuchi

去年3月、勤務していた病院を退職し、医師が中心の研究チームに飛び込んだ。きっかけは、北海道大学の学生時代に、勉強会で知り合った関西にいる医学生の友人から「医者っぽくないおもろいおっちゃんがおるで。会いに行ってみたら」と勧められたことだ。それが東京大学医科学研究所の上昌広特任教授(当時)だった。SNSで連絡をとり、白金台の研究室を訪問した。

初めは東大教授の肩書きに緊張した。一看護学生と会ってもらえるのか心配した。アポイントの仕方が失礼だと怒られやしないかとも怯えていた。しかし、お会いして印象が変わった。「東大卒だから、医者だからと言っても君と能力に差はない。普通の看護師で終わりたくないなら、勉強や経験で自分の付加価値を高めなさい。」と言われた。「私にもできるかもしれない。」と思った。

それ以降、学生時代は研究室に数カ月に一度は訪問させていただき、医療関係者は勿論、様々な背景の方々にお会いした。上研究室には、全国から学生が勉強にくる。彼らとも交流した。また、国会議員やマスコミの方が来室されることもあった。みな、気さくで優しい方々ばかりだ。彼らとの交流は、現在も私の財産になっている。若いうちは、気後れせず、何でもやってみるものだとつくづく思う。

上研究室は、東日本大震災直後から福島県浜通りの医療や教育を支援している。ご紹介いただき、現地の医師、看護師、事務の方々、さらに立谷秀清・相馬市長とも交流させていただいた。メディアを通じて聞く情報と、現地の一次情報は全く違う。上先生からは「福島には何度も行って勉強しなさい」と言われた。実家が宮城県の松島なので、実家の車を借りて何度も相馬、南相馬に足を運んだ。当時、被災地には全国から一流の人材が集まっていた。彼らと地元の人が協同して、被災地を復興させていく姿を垣間見ることができた。

2014年春、大学を卒業し、都内の虎の門病院に就職した。配属されたのは血液内科病棟だった。臍帯血移植の分野で国内のトップ施設であり、毎日のように移植治療が行われている。当初、仕事を覚えるのが大変だったが、1年目が終わることから休日、日勤後、夜勤前などに研究室に通い、英語論文の読み方や、文章の書き方を勉強させていただくことになった。

上研究室の様々な活動にも参加させてもらった。当時、上研究室のスタッフで、看護師の児玉有子先生(現星槎大学教授)の「かばん持ち」として沖縄を訪問したこともあった。目的は、沖縄県立看護大学大学院が離島で行っている遠隔教育を見学することだ。また、谷本哲也医師が中心となって進めている上海の復旦大学との交流にも参加した。現地で復旦大学の教授陣を前にプレゼンする機会をいただいた。英語はもちろん、中身についてもしっかり説明できる自信がなかった。前夜、同行した谷本医師と加藤茂明・元東京大学分子生物学研究所教授に御指導いただき、何とか終えることができた。なんでもチャレンジしてみるものだ。

上先生からは「経験したことは、文章にまとめること」と指導されている。いずれもハフィントンポストに寄稿した( http://prt.nu/0/hufpost_higuchi_distance-learning, http://prt.nu/0/hufpost_higuchi_shanghai )。幸運にも沖縄の経験は、朝日新聞にも転載して頂いた。励まし、お叱り、さまざまな反応を頂いた。かなり落ち込んだが、上先生からは「物言えば、必ず批判される。それも経験。懲りずに発信し続けること」と言われた。

その後、新聞だけでなく、医学誌にも投稿するようになった。もちろん、上研究室のスタッフに御指導いただいた。勤務の合間をぬって、苦労して書いた文章のほとんどはリジェクトされた。「もうこんな無駄な作業は止めよう」と思ったこともあったが、スタッフの皆さんに励まされ続けた。結局、英国の医学誌『ランセット』のコレスポンデンスに主著2つ、共著4つが掲載された。「優秀な指導者のもとで、努力を続ければ成果はあがる」と益々実感した。

当時、自分の進路に悩んでいた。病院での勤務はやり甲斐を感じる。関わりが難しい患者さんや家族への対応。急変時の対応。忙しく残業が当たり前の病棟で、どうしたら如何に速く、正確に、患者さんの満足度は高いままに清潔ケアや処置を終えられるか。医師の急なオーダーの追加や変更に対応できる余裕を作っておくか。患者さんとの関わりや、看護計画、同じチームの看護師との連携、病棟内でのインシデントなど、日々の小さな発見や反省は刺激的に感じていた。

ところが、看護師3年目になると、成長のスピードが一気に減速したように感じるようになった。業務がルーティンになり、頭を使わなくなった。自然に先を読んでトラブルを回避できるようになったため、頭を悩ますことが減ったのだ。

結局、私は病院勤務を辞め、研究者の道を進もうと決心した。虎の門病院を退職し、上昌広先生が主宰する医療ガバナンス研究所の研究員となった。周囲は収入の面など心配してくれた。

現在、私に与えられている課題は、南相馬市立総合病院やネパールとの共同研究だ。大学時代や虎の門病院勤務時代と異なり、私が中心となって進めなければならない。以前のように誰かに頼りきりという訳にはいかない。

南相馬市立総合病院は、五十嵐里香副院長兼看護部長を紹介していただいた。繰り返しになるが、上研究チームは震災直後からこの病院を支援している。私も学生時代に何度も訪問し、知り合いも多い。五十嵐看護部長から若手のリーダー看護師7人を紹介していただき、 「南相馬キャリアナースプロジェクト(MCNP)」とチームを名付け、共同研究を始めた。テーマは、高齢者の終末期医療だ。特に、医師・看護師の間で「DNAR (Do not attempt resuscitation)」の解釈に齟齬がないか調べている。「DNAR」とは、蘇生の可能性が低いため心肺蘇生を試みないという意味だ。

南相馬市のように、医師・看護師が不足している地域では、現場の医療スタッフに大きな裁量が与えられる。「DNAR」の解釈が担当医や看護師個人ごとで差があるかもしれない。救急医療においては、「DNAR」は心肺蘇生を控えるという意味以外に拡大解釈されていることが国内外から報告されている。特に、患者の意識がない、家族の関与が少ない場合に、点滴からの抗生剤、補液、栄養、鎮痛剤の投与の実施が控えられているという。ところが、このことを地域医療の現場で検証した報告はない。

このプロジェクトが始まり、私は毎月病院を訪問している。主たるパートナーは脳外科病棟で働いる吉井梓看護師だ。和太鼓が趣味で明るく積極的な人だ。初めの頃は、「「研究」という言葉に、難しいものというイメージがあり抵抗感がある」と言っていた。しかし、最近では、共同研究の話し合いでは積極的に意見を出して参加して、意見を取りまとめてくれる。勤務後で疲れている中、メールやSNSでの相談もすぐに返信してくれてとても助かっている。院内の倫理委員会では、忙しい勤務の時間を抜けて息を切らして駆けつけ、自分の言葉で適切に回答してくれた。今となっては、見守ってくれている看護部の管理室の部長や副部長らは、「みんな(看護師7人の表情が)生き生きしてきたね。病院の勤務もより頑張ってくれている。」と私にいつも話してくれている。この研究は現在最終段階を迎えている。南相馬市立総合病院の看護師チームとの共同研究としてリリースできる日も近い。

ネパールとの共同研究は2015年に始まった。学生時代に現地の医学生、アナップ・ウプレティと知り合い、その後、互いに医師、看護師として働く間もSNSで連絡を取り合っていた。2015年7月に彼から「日本で医療を勉強したい」と相談があった。2015年11月と2016年7月にそれぞれ一ヶ月ずつ日本への留学を手伝うなどした。上研究室のサポートを得て、資金集めや研修先の病院の確保、滞在先、交通手段の確保、観光の案内などを請け負った。ビザが最大の問題であったが、上先生と親しい星槎グループの宮澤保夫会長のサポートをいただくことができうまく行った。

彼は福島県の病院で1ヶ月研修した。彼が見た被災地の強固な仮設住宅を高地であるネパールの寒さ対策に活かしたいという震災の教訓を『ランセットグローバルヘルス』へ、ネパールのある整形外科の教授が、政府が組織する医学部や保健システムの腐敗体制への抗議であるハンガーストライキについての意見を『ランセット』に、ネパールの洪水の背景にインドとの政治が関係しているというコメントを『ランセットプラネタリーヘルス』 に投稿し、掲載された。これにかけたほとんどの話し合いはメールやSNSを通して行った。低コストで済んでいる。去年からは、彼が勤務するトリブバン大学教育病院と、2015年の地震が地域医療に与えた影響について共同研究を始めた。対象をがん患者に設置している論文がもうすぐ完成する。現在は次のテーマに向けてプロトコールを作成中だ。

私はこれらの活動のように、日々挑戦し成長していきたいと思っている。それができるのは支えてくださっている周囲方々のお陰だ。感謝の気持ちを大切にしていきたい。

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