「道徳的」だが「倫理的」ではない韓国人

「倫理」とは一体どういう意味なのか。「道徳」と何が違うのか。

東京芝浦ふ頭に続く埋立地に育った子供の頃、周囲に住む在日の人びとを指して日本人の大人たちは言葉少なげだった。それだけに、近所の年寄りから聞いた「朝鮮人は道徳を重んじる人たちなのだ」という一言が子供心にも長く記憶に残った。

大人になった後、韓国に渡り生活してみて確かにその人の言う通りだった。儒教に起源を持つというその道徳が今も社会全体を覆い人々の日常を強く規制している。それは日本側からも感じるはずで、今も日本に対して執拗に提起し続ける諸問題は現実の損得とは程遠いこと、つまり近代史がらみの道徳性を問うものばかりである。

しかし、彼らは確かに道徳的だが、それが同時に倫理的であるとは必ずしも言えないようだ。道徳も倫理も似たような言葉だが私なりに理解したその意味の違いは後述するとして、最近ニュースを見ながらそうした思いを強くした。

最近韓国の中産階級で外車のオーナーが増えたようだ。とはいえ韓国人の外車好きは商売の取り引きや組織の管理職の体面をつくろうことが主な理由のようで、車の品質へのこだわりはあまり感じられない。私が住む街は都市の片隅の韓国軍司令部に隣り合う平凡な住宅街だが、それでも特に最近落ち着いたデザインのフォルクスワーゲンや優美なスタイルのアウディのセダンが狭い道に目立つようになった。 韓国は車庫証明の制度がなく住宅街の狭い道は両側の路肩にずらりと車が駐車しているので車見物には持ってこいなのだ。

フォルクスワーゲン社のデイーゼル・エンジン排気ガス低減装置の不正操作が発覚し、世界各国で販売が不振だ。当然だろう。ルール違反の報いだ。だが、おかしなことに韓国でだけは同社の値引き攻勢で販売が好調[*1]だと聞く。それもデイーゼル車がほとんどだそうだ。アメリカや日本でも値引き販売をしているが消費者の反応は今ひとつで、韓国だけが「買い」に走っているとのことである。これは一体どういうことなのか。

韓国の言論[*2]の中にはこれを「社会的名分を無視して個人的利益だけを追求する購買行動」などというような表現で批判的に分析しているところもあった。一方、日本の右派言論の一紙はこのことを「倫理より値引き、この浅ましさ」云々といった表現で紹介していた。しかし、この問題を見れば韓国人が「浅ましい」かどうかは別として「倫理」に欠けていることはあながち否定できないだろうし、その点は韓国自身の言論も同じように指摘しているところだ。

「倫理」とは一体どういう意味なのか。「道徳」と何が違うのか。この二つのの言葉は辞書的には「人として守り行うべき道」 でほぼ同義だ。ただ、経験的にいえば「道徳」は家族など私的な領域で、「倫理」は社会や公共の領域での決まり事という意味でよく使われる。とすれば結局はその両者の内容は異ならざるを得ないだろう。

道徳的理想は親しい者の間では通用しても社会では通用しないことがある。「人を殺すな」といっても国家共同体を守るために敵を「殺す」ことは許される。それは共同体の倫理に属するからだ。国家の防衛費予算を「人を殺すための予算」と表現することは道徳的には必ずしも間違ってはいないかもしれないが倫理的には間違っている。国家共同体を守るために戦力を蓄えることは原則的に倫理にかなうことだからだ。

家族をはじめ親しい関係というものは基本的に「能力」よりも「権威の力」に依って成立している。それは当たり前のことだろう。父よりも子の能力が勝ったからと言って立場が逆転することはない。父は永遠に父である。これを支えるのが「権威」という想像的な力だ。この力に逆らえば人は獣に変わらない。そしてこの関係には慈しみと服従の義務が生ずる。これが儒教的な道徳だ。もしもその道徳に違反があった場合はひたすらそれぞれの立場に応じた自省を求めるしか方法がない。

ところが社会関係にはこうした「絶対的」な権威は基本的には有り得ない。あったとしてもそれは「能力」によって生まれた「相対的」な権威であって変動してゆくものだ。だから社会には不変の権威力によって裏打ちされた「道徳」よりもその絶え間ない変化に対応できるような「能力」の拮抗、力の均衡によって安定やバランスを見出して行けるルールや法、そして罰則といったもの、つまりは倫理が生み出されて来たというわけだ。

今回のフォルクスワーゲン社の不正問題に戻れば、これはグローバル経済の自由競争社会の中で起きたルール違反だ。今のところそれによる顕著な人身被害が発生しているわけではない。大気汚染は心配だが、モータリゼーションそれ自体を否定することはできない。

結局はこの企業に対して集団として力の制裁を加えることで再発を防ぐしかない。単純に考えて、消費者として「買わない」ことが最も効果的な制裁になる。生産者にモノを作ることで経済や雇用を左右できる力があるとすれば、消費者には選択する力がある。それが拮抗力というものだ。集団の力の行使による信賞必罰でしかこうした問題の前向きの解決はない。簡単なことだ。外車がよければメルセデスやレクサスの販売店へ行けば良いだけで大した違いはない。なぜ韓国人にはそれができないのか。

言論が指摘するように、彼らは公より私が、個人的利益が社会的名分に優先するというような利己主義者の集まりで公共心が欠落しているからということではないと思う。上に述べたような企業というひとつの権力の不正や違反に対して持続的に集団の拮抗力を持って対抗するという分権や多元主義的なセンスに欠けているのである。

もしもこの問題で大気汚染によって実際に社会構成員の誰かの生命が脅かされたという道徳的側面がクローズアップされたとしたらどうだろうか。韓国人は、日本でもお馴染みのいつものやり方、つまり衆目の場に大挙して押しかけ責任者を引き出し恥をかかせ、飽くまでその道徳的改心を求めるような、例の「熱い」大衆示威行動に走ることは目に見えている。彼らは常に集権的、一元主義的なのである。こういう面では彼らに別の意味での公共心がむしろあり過ぎることが問題なのだ。

ソウルの日本大使館の前で慰安婦少女像を取り囲んで執拗にデモをしかけてくるその同じ韓国人たちが一方で大阪や博多に大挙して観光旅行に訪れ、寿司をほおばり、温泉に浸かり、日本の地方経済に大変な貢献をしてくれているという不思議さもそこにある。日本人が逆の立場に立たされたとしたら黙って韓国のすべてを拒否するだろう。日韓ともに民主主義を標榜しているとは言え現象面ではこれほどに異なるのである。

日本人は自己が属する集団の構成員全体を「われわれ」と呼ぶが、朝鮮語ではそれを「ウリ」と言う。そのどちらの言葉にもそれぞれの民族が歴史的に継承して来た集団の人間関係についての理想や期待が含まれている。日本人が「われわれ」と言う時に無意識に想定しているものは基本的に家の外に広がる村の地縁関係だと言われる。

一方で韓国人の言う「ウリ」とは家の内、つまり血縁関係が基礎になっている。韓国の著名な心理学者である崔祥鎮の論文『韓国人と日本人の「我々」意識の比較』(1993)[*3]によれば日本語の「われわれ」には目標を共有し活動を共にする小集団の共同意識が、朝鮮語の「ウリ」には家族血縁関係の相互依存意識が基本的に埋め込まれ、それぞれ社会での拡大された集団形成においてもその性質が強く反映されると言う。

すなわち、 日本は、ある権威の座を中心にそれぞれの分に応じた役割を果たす社会的連帯感が、また韓国では序列が生得の権威関係によって安定し同時に遠慮のない擬似家族的心理的連帯感が、集団形成に求められるということだ。

例えば、 日本人は「迷惑を掛けない」の倫理のもと「親しい中にも礼儀あり」でお互いに「~さん」付けで呼び合い微妙に距離を保ちつつ、「空気を読み」ながらお互いの個性や能力をさぐり合い共通の目的や価値を見出し能力に従って役割を果たし互恵関係を維持することを理想とする。一方で韓国人は先輩・後輩関係や友人関係などあらゆる集団でお互いに「兄・姉・弟・妹」と呼び合い、慈恵と忠誠の道徳に裏打ちされつつも遠慮のないゆるやかな相互依存関係を激しく好む。

これらから言えることは、人間関係や集団形成に葛藤が生じた時、日本人の場合は共同集団志向のもと基本的に倫理というルールに従いながら目に見える能力の調整によって拮抗することで解決しようという現実主義的傾向、韓国人は擬似血縁集団志向のもと道徳という絶対的論理を設定しその目に見えないその権威の力に服することを訴えるという理想主義的傾向があると言えるだろう。ようするに両民族は「喧嘩」の作法が違うのである。

我々は皆、家族の構成員であるとともに社会の構成員でもある。だからしばしばこの「道徳と倫理」は錯綜しながら混乱を呼び葛藤を生み出して来た。これは日本であれ韓国であれ同じことだ。

ただ、歴史的に眺めれば、特に中国大陸では大権力によって大陸の広域社会を集権統治するために儒教的な擬似家族の道徳論理が国家統治や国際関係にまで拡大利用されて来た。朝鮮半島もその例にもれない。彼らは一君万民制の長い歴史のもとで家族を超える強力な機能集団や中間集団を持てないように教育された。そして、社会や国家の葛藤を解決し安定を維持するために道徳論理のみに依存する傾向が強い。

しかし、北東アジアでは日本だけがそこから比較的自由で力の均衡による分権社会をよく保存して来た。これには大陸に発生したスーパー・パワーと海洋によって隔たれたことや十二世紀の武士の勃興が大きな役割を果たしただろう。それゆえにまた日本は朝鮮半島とは逆の問題を抱えているだろう。それは広域社会をゆるやかに統治するいわば大きな「社会的想像」である「道徳性」の欠如という問題をグローバル化の趨勢の中で今後いつまでも引きずって行くかもしれないということだ。

ともかく、現在の日韓間の誤解や軋轢の多くはそうした歴史的経験の違いから社会の中での「道徳と倫理」という二つの観念の配合比が異なるということから来ていると言えないだろうか。このあたりを念頭に置き両国がコミュニケーションを取ることも多少は助けになるかもしれない。

【参考文献等】

[*1]朝鮮日報 日本語版 「韓国で賠償も反省もしないVW、大幅割引で販促成功」2016-07-06

[*2]朝鮮日報 日本語版「コラム:排ガス不正発覚後もVWが売れる韓国人の特殊性」2016-07-03

[*3]"한국인과 일본인의 ' 우리 ' 의식 비교" 한국심리학회 연차 학술발표 논문집 1993년 제1호

1993.6

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