『不登校新聞』編集長に聞く。挫折から始まる「私」の人生について

「その苦しみは社会の財産である」

子どもたちが自殺する。こんなに悲しいことはないけれど、例年多くの学校が夏休み明けとなる9月1日は、一年のなかで18歳未満の自殺が突出して多い日だと言われている。

その現実を全国に先駆けて報じたのが、1998年に不登校の情報・交流紙として創刊した『不登校新聞』だ。

同メディアは、1997年8月31日に起こった中学生の焼身自殺と体育館放火事件をきっかけに、親の会、フリースクールなどの市民団体が連携して立ち上げたもの。不登校やひきこもりの当事者、保護者、支援者などに向けた情報提供を主に行い、現在は紙版とWEB版を有料で月2回発行している。

同メディアの「子ども若者編集部」に所属するボランティア記者は約140人で、ほぼ全員が不登校や引きこもりの経験者。取材をしたことも、記事を書いたこともない記者たちが聞き手となる飾り気のないインタビューが人気を集めている。

編集長の石井志昂(いしい・しこう)さんは、今年8月に刊行したインタビュー集『学校に行きたくない君へ 大先輩たちが語る生き方のヒント』(ポプラ社)に収録されたコラムで、「当事者参加型」を掲げる同メディアの取材ポリシーを次のように語る。

インタビューの候補を挙げる場合、私たちはある決まり事をつくっています。それは「私が話を聞きたい人」に限定することです。「世の中のため」「人のため」は考えず、「私」が話を聞きたくて、「私」が救われるために取材へ行く、これが決まりです。「自分勝手な」と思われるかもしれませんが「私の思い」を煮詰めることで、プロにもマネができないインタビューになるからです。ーー本文より抜粋

樹木希林、荒木飛呂彦、西原理恵子、リリー・フランキー、羽生善治......そうそうたる「人生の先輩」への「私的」なインタビューを積み重ねてきた同メディア。数多くの不登校経験者に接しながら、著名人への取材を続けてきた石井編集長に「『私』の人生の始め方」について、話を聞いた。

プロフィール

石井志昂(いしい・しこう)

1982年東京都生まれ。中学校受験の失敗をきっかけに、中学2年生から不登校に。同年フリースクール「東京シューレ」へ入会。19歳から『不登校新聞』のスタッフとなり、2006年から同紙編集長。不登校をテーマに女優・樹木希林や社会学者・小熊英二など幅広いジャンルの識者に取材を重ねている。

その苦しみは社会の財産である

根岸

まず初めに『不登校新聞』の成り立ちについて教えてください。

石井

『不登校新聞』は、夏休み明けの登校を苦にしたと考えられる痛ましい事件をきっかけにして、「学校以外の道は死だけではない」と訴えることを目的に創刊した月2回発行の小さな新聞です。私は1998年の創刊号から関わっていて、2006年から編集長をしています。

根岸

記者の多くは不登校・ひきもこり経験者とのことですが、みなさんどのようなかたちでこの新聞の存在を知るのでしょうか?

石井

『不登校新聞』を置いてあるフリースクールで見たとか、どこかのニュースで知ったとか、みなさんいろいろですね。紙面上で「編集会議に参加しませんか?」という告知を行っているので、それを見て「記者をやりたい」と連絡をくれる人が多いです。

根岸

編集部は東京にありますが、地方からも「記者になりたい」という声はあるのでしょうか。

石井

最近では、和歌山に住んでいる中学2年生が「ネットで記事を見たんだけど、外にほとんど出られないんです。それでもいいですか?」と、連絡をくれました。外に出られないのにどうやって取材するんだ? という感じではあるのですが、何か始めたいという意思は尊重したいですし、いつか勇気を出して東京の編集会議に来てもらえたらいいなと思っています。なかには、熊本から毎月のように編集会議に来てくれる中学2年生の女の子もいます。

根岸

取材経験のない記者がほとんどと聞きました。取材をして記事を書くのには技術が必要ですが、そのあたりはどのようにフォローしているんでしょうか?

石井

私を含めた常勤有給の記者3人が、馬車馬のようにがんばることでフォローしています(笑)。本当は記者のみなさんに原稿料をお支払いしたいところですが、私たちは小さなメディアでお金がありません。なので、記者として足りない技術は私たちが全力でサポートするというかたちで、みなさんにはご理解いただいています。といっても、私たちは職業訓練をしているつもりは一切なくて、純粋に記事としてかたちになるようにバランスを取っているだけです。そうして、みなさんの「財産」を買わせてもらっている、という意識ですね。

根岸

「財産」というと。

石井

不登校やひきこもりだった人の苦しんだり、葛藤した経験です。これは「社会の財産」であると言ってもいいと思います。なぜなら、そこから学校の問題点が見えてきたり、親子関係のあり方が見えてきたり、社会のひずみがさまざまなかたちで浮かび上がってくるからです。編集会議に来る若者たちはみんな、一度や二度、本気で「死にたい」と思ったことがある人たちです。どうして「死にたい」のかといえば、この先の人生が描けないから、という一言に尽きるでしょう。学校には行けないし、かといってバイトを始めるのも怖い。そもそも18歳未満だとなかなか雇ってもらえない......。そうやって人生詰んでしまったような気持ちになっている人がたくさんいるんです。でも、私はそこで踏みとどまって「死ぬくらいだったら、一回企画書を出してから死んでみよう」という話をします。漫画家でも小説家でもミュージシャンでも、自分がその人に一度でも助けられたことがあるのなら、その人に会いに行って、自分が感じていることをありのままに声に出してみようと。そして、それを記事というかたちで「社会の財産」として残そうと。インタビューは、自分の生き方の指針となるような「サンプル」を見つけるために役立ちます。そう実感するのは、私自身が不登校経験者で、未経験から記者を始めたこともあるでしょうね。

自分のなかの「問い」こそすべて

根岸

石井さんはどうして不登校になったのでしょうか?

石井

私が不登校になったのは、中学受験の失敗による挫折が原因です。受験に失敗して通うことになった中学校のスクールカーストや教員の理不尽な指導、めちゃくちゃな校則など、受け入れがたい困難を我慢してでも学校に通わなくちゃいけないのは、全部自分が受験で失敗したからだと思っていました。こんなにひどい目に合っているのは、自分がいけなかったんだという自己否定感。そうやって、自分を無意識に責め続けた結果、「クレプトマニア」というかたちでバーストしてしまったんだと思います。

根岸

クレプトマニア、ですか。

石井

万引き依存症のこと......窃盗症とも呼ばれますね。最初は塾でおなかが空いたからパンを盗むというような感じだったんですが、だんだん漫画を盗んだり、CDを盗んだり、挙げ句の果てにはそれが欲しいとか欲しくないとか関係なしに、何でも盗むようになりました。ひどいときは、図書館の本を盗んで2週間の返却期日になるとそっと棚に戻すという、謎の行動をしていました。普通に借りればいいのに、わざわざ盗むんです。でも、それをしたからといって、別にすっきりするとかでもないんです。ただただ「盗み」に依存しているという状態。アルコール依存症と同じ感覚かもしれませんね。

根岸

それは苦しそうです。でも、石井さんはその後フリースクールに通うようになって、『不登校新聞』に関わります。記者としてインタビューをするようになって、石井さんは「何に」救われたんでしょうか?

石井

自分のなかの「問い」ですね。それがすべてだということに気付いたんです。まず、取材で一番大事なのは問題提起です。私はこう思うんですけどっていう質問ですね。それがないと取材が始まらない。で、当時の私が思っていたのは、「不登校の人はどうやって生きていったらいいのか」ということ。「不登校の人」というのはつまり「私」ですね。「『私』はどうやって生きていったらいいのか」ということを、吉本隆明さんにもみうらじゅんさんにも、あらゆる人に同じように聞いていきました。するとまあ、いろんな「答え」が返ってくるわけです。そして、誰もその「答え」を大げさに「正しい」と言わない。むしろ「正しさ」にはいろいろあって、本当の「正しさ」は自分のなかにしかないということを教えてくれた。それがわかったときに、ああ......これが社会なんだと思って、ほっとしたんです。

根岸

人の数だけいろんな「答え」があるということが、ですか。

石井

考えてみれば当たり前のことなのですが、人にはさまざまな価値観があります。だからその価値観の数だけ「答え」があって当然です。でも、私が通っていた学校には、いくつもの「答え」はありませんでした。先生が出した問題に対して、どれだけ正確に「答え」をたぐりよせるかで、評価が決められていました。大人は「答え」を知っている。それに対してどれだけ近づけるか。そういう世界ですね。その狭い世界しか私は知らなかった、ということでしょう。

根岸

なるほど。でも、取材現場はそうではなかったと。

石井

はい。そこはいろんな大人が、いろんな「答え」を提示してくる場でした。そのなかで、大人たちは私に何を「答え」とするのかを考えさせてくれました。その起点となったのが、自分のなかの違和感......つまり、これでいいのかなと思っている「問い」でした。不登校やひきこもりを経験している人は、自分の知っている社会との不一致感のなかで、少なからず「問い」を抱えています。それは、とても尊いものです。だから、私はみなさんに、取材ではそうした自分なりの「問い」を掛け値なしにぶつけて欲しいと思っているんです。

「自分のため」にやればいい

根岸

それでいうと、インタビュー集『学校へ行きたくない君へ』のなかでも、不登校・ひきこもり経験のある記者が「どうやって生きていけばいいのか」といった趣旨の「私的」な「問い」を、著名人に投げかけていますよね。特に印象に残っているインタビューがあれば教えてください。

石井

あ〜どれも印象的なんだけど......そうだなあ。例えば全身がガンに冒されていて、さらに夫が破天荒すぎる樹木希林さんが「難(なん)を受けてこそ人生だ」と語っていたこととか。

私は「なんで夫と別れないの」とよく聞かれますが、私にとってはありがたい存在です。ありがたいというのは漢字で書くと「有難い」、難が有る、と書きます。人がなぜ生まれたかと言えば、いろんな難を受けながら成熟していくためなんじゃないでしょうか。

(中略)人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。若くても不自由なことはたくさんあると思います。それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、不自由なまま、おもしろがっていく。それが大事なんじゃないかと思うんです。ーー本文より抜粋

石井

このほかにも、大変な家庭環境で育った漫画家の西原理恵子さんが「苦しみの原因は考えない。明日の飯のことを考えるほうが大事」と言っていたことにも、私の心は響きましたね。

この先、あなたはなぜ自分がこんな状況になってしまったのか、考えるときがくるでしょう。でも、その原因究明はするべきじゃありません。原因を究明しても、誰かを悪者にして終わるだけ。誰も助からない。明日、どうやって飯を食うかのほうが、よっぽど大事です。だって、立ち止まったらかならずよどむんです。よどむときついんだ。自分を苦しめてきた存在が3Dになって、いつでもよみがえってくる。ーー本文より抜粋

石井

さらに、臨済宗の僧侶である玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんの言葉は、記者として17年間いろんな人を取材してきたのですが、一番ショックを受けましたね。それは「私たちはもっと揺らいでいい」というもので......。

人は「変わらない」ことを大事にしすぎているんじゃないでしょうか。何かを経験すれば「人生とはこういうものだ」と確信を持とうとする。揺らがない、ブレない、それがアカンのです。頑丈そうに見えて免震構造がない。

現実は、つねに新しい局面を迎えていきます。「いま」を見て、感じて、合わせていく。そのためにはいったん揺らがないといけません。「揺らいでいい」という自覚を持つことが「無常という力」です。世の中は無常であるし、私も無常なんです。

仏教では昔から「揺らぐ」ことを「風流」と呼びました。揺らぐことが自然だと思っていれば、あるいは植物のようにあれほど変化していいと思えれば、もっと楽になれるんじゃないでしょうか。ーー本文より抜粋

石井

私は不登校になってから「学校に行かない自分」がアイデンティティであり、そこがブレてはいけないと頑なに思っていたので、それが根底から覆されたような気持ちでしたね......。

根岸

これらの言葉は不登校・ひきこもりに限らず、例えば結婚や子育てにおける問題とか、組織でのストレスフルな人間関係とか、あらゆる困難な場面を乗り越えるための言葉としても受け取ることができそうですね。

石井

そうなんです。不登校・ひきこもりの人たちが「救われるため」のインタビューだったはずなのに、結果みんなが「救われている」ということが往往にしてある。だから、インタビューにおいては、インタビュアーはみんなのためにいい言葉を聞き出そうとかはしなくていいと思っています。あくまでも自分のためにやればいい。記者のなかには、自分の不登校が苦しかったから、ほかの不登校の人たちのためになりたいとか、社会に還元したいという人もいます。それはとても立派なことだと思います。でも、私たちのインタビューにおいて、そういうのはひとつもいりません。そういうのはどうでもいいから、自分のために、自分が救われるために取材をしてほしいと私は心から思っています。それが結果として、みんなに気付きを与えてくれることがあるし、希望を与えてくれることだってありますから。

「何が起こるかわからない」を楽しむ

根岸

とはいえ、記者経験のない人たちのインタビューです。何が起こるかわからなくて、ドキドキする......ということはありませんか?

石井

ありますよ〜。でも、それがいいんです。特に10代のメンバーと取材に行くときはたまらないですね。ほんとに真剣なんです。でも常識を知らないから、唐突に不躾な質問をしたりする。例えば、小説家の辻村深月さんにインタビューしたときも、10代のあるメンバーが「辻村さん、不登校はしてないって言ってたけど、ほんとは不登校やってたんでしょ? 俺らの前なら言っていいっすよ」とか言うんです。おいおい、待てと。「クスリやってたでしょ?」みたいに言うんじゃないと。確かに自由に発言していいし、思ったことを言ってもいいという環境づくりはしてきた。でも人生の先輩を前にして、そのラフな切り込み方はないだろとか思うわけです。私なんかは何言ってんだてめえって思いましたけど、辻村さんはそれがぐっときたらしいんですね。結果、いい話をたくさんしてくれまして......。

根岸

はは。スリリングな状況が想像できるなあ。

石井

ほかにも、演出家の宮本亜門さんに「私は通信制大学を受験しようと思うんですがどうですか?」とか聞くわけです。おいおい、それは宮本さんにはまったく関係のない話だし、お前の進路の相談はお前の親にしろよとか思うんですが、あらゆる場面でそういう質問がばんばん出てくる。極め付きは、小学2年生の男の子が、棋士の羽生善治さんに「僕は将棋より囲碁が好きなんですけど、どうしたらいいですか」とか言うわけですよ。それで羽生さんが「そうだね、囲碁もおもしろいよね」って......。

根岸

羽生さん、大人......。

石井

そう、みなさん優しいんです。ただ、それはその質問が真剣だからっていうのが大きいと思うんです。まっすぐな気持ちがぶつかってきたときに、ちゃんとした大人たちは決して流さない。そういう場面に出会えるのも、私にはたまらないんですよね。

根岸

石井さんが記者を始めた頃はどうでしたか?

石井

......まあ、同じようなものだったかもしれないですね。私は19歳のときに吉本隆明さんを取材したんですが、どうして吉本さんだったかというと、たまたまどこかの雑誌で読んだ「ひきこもれ」っていうコラムに共感したからなんです。「このおじいちゃんに取材したい!」と思って、何も知らずにオファーしたら受けてくれた。そうしたらまわりの大人たちがみんな驚いて。おいおい、戦後最大の思想家だぞ......と。

根岸

まあ、緊張しますよね......。

石井

で、私はそのとき記者になったばかりで、記事を書くのが苦手だなあ、どうしたらいいのかなあ......と悩んでいた。だから、それをそのまま聞いてみた。そうしたら吉本さんが「10年続けなさい」と言うわけです。「10年続けたら才能があるかどうかわかる。ほら、村上龍とか村上春樹は10年以上やってるけどだめだろ? あれはそういうことだ」とかね......。

根岸

はは。すごい話ですね。

石井

どのレベルの才能の話をしているんだ......? って思いましたけど、吉本さんが言うなら、私も10年はやってみようと思ったんです。そうやって気付いたら10年以上経ってましたけど、ここまでやってきて分かったのは、才能なんてなかったということ。でも、やりようはあったということ。こうして今、10代の不登校の子たちと取材に行ったりして、いろんな現場をおもしろがれるようになったのは、あがきながらでもひとつのことを続けてきたからというのが大きいと思います。

根岸

石井さんにとっては、記者という仕事が、学校以外の広い世界を教えてくれたということですよね。

石井

そうですね。もちろんこれは僕の場合であって、みなさんにはみなさんの世界の広げ方があると思います。不登校経験者のなかには、国連に勤めた人もいるし、宝塚に入った人もいるし、料理人になった人もいるし、大手新聞社の記者になった人もいます。子ども若者編集部は、当事者が社会に適合するための場でもなければ、就労支援の場でもありません。ただただ「今日は生きててよかった」と思える瞬間に出会えること、これを目指しています。悩みながら、あがきながら、自分なりの「生きててよかった」と思える瞬間を見つけて欲しいですね。

(取材・執筆:根岸 達朗、編集:BAMP編集部)

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