「産業医」というキャリアの認識を変える
5年務めた大手企業を辞め、30歳を目前にして医学部へ編入した尾林誉史先生。医学部を目指したのは「産業医になりたかったから」。周囲からあまり共感を得られない中でも、ひたむきに思いを貫き、初期研修中に産業医免許を取得。
現在は東京の企業で産業医を務めながら、その土台作りのため、精神科で研さんを積んでいます。そんな尾林先生の、産業医に対する思い、産業医として目指すことを伺いました。
◆産業医面談の実態に憤慨、産業医の実情に驚く◆
―今の産業医は、どのような認識を持たれていると感じておられますか?
働くことは生きることです。働く場面において、身体的にも精神的にも大きな岐路に立たされている人に対して、産業医はとても大きな影響力を持つと思います。それにもかかわらず、あまりそのことが正しく理解されていないと思っています。
私は産業医になりたくて会社員を辞めて医学部に編入したのですが、医学部で「産業医やりたいんだ」と言った時の周囲の反応が悪く、全然共感を得られませんでした。
産業医になるには精神科を学んだ方がいいと思っていたので、精神科の先生に精神科に興味があると伝えると「何やりたいの?統合失調症?てんかん?」と聞かれるので、「産業医です!」と答えていました。
すると驚かれたり、単に儲けたいんだという顔をされることが多く、真剣に捉えてもらえることはほとんどありませんでした。医療界に入ってからも、こんなにも産業医の認知度や位置づけが低いのかと衝撃を受けました。
―そもそもなぜ産業医になろうと思ったのですか?
会社員時代、同じプロジェクトチームのメンバーの産業医面談に同席したことがありました。その面談は所要時間10分程度であっけなく終わり、産業医はそれしか話を聞いていないのに「では、休みましょう。受診するクリニックは自分で探してください」と言ったんですよ。
面談した子は明らかに弱っているのにかける言葉も通り一遍、一緒に考えてあげることもしてくれなかったので、非常に腹立たしい思いでした。
あまりにも納得がいかなかったため、後日、勝手にその産業医のもとへ抗議に行きました。そこで専門科目に関係なく産業医免許が取れてしまうこと、多くの産業医が抱いているであろう業務へのスタンスなどを聞き、その時初めて産業医の現状を知りました。
面談を受けた子に十分なフォローがないのはあまりにもかわいそうなので、その後一緒にクリニックを探しました。そこで出会ったクリニックの先生が、私の人生を大きく変えたんです。
苦労して一緒に見つけたクリニックの先生は社会人経験後、産業医も経験し、今のクリニックを開業した精神科医でした。そして、診察がとても丁寧だったんですよ。
初診ということもありましたが、40分くらいかけてこれまでの経緯を聞いたり、どのような休み方が良いのかや復職のプロセスまでをしっかり説明してくれたり、「大事なことは先延ばしにしましょう」と、大胆なアドバイスをくれたり――。
今となっては当たり前のことだと思いますが、弱っている人に対して物事を順序立てて説明し、同じ目線でゆっくり話してくれたんです。
会社の産業医に対する不満ばかりが募っていましたが、この先生に出会い「こんな素晴らしい働き方があるのか!」と、思ってもみないところからヒントを得ました。
―それで医学部に行くことを決意されたんですね?
そうですね。あと実は、性格的な部分も理由の1つにあります。
会社員だった当時、私は正直、自分のことを会社のお荷物くらいに感じていました。思うように仕事が進められずものすごく悶々として情けなく、人生のどん底にいる感覚でした。
ところがその一方で、人の相談を聴くことがよくあったんです。何もしてあげられることができないため「なるほど、大変だね」と、話を聴くことしかできなかったのですが、「俺みたいなあまり役に立たない人間が、彼や彼女の役に立てているのだろうか」という葛藤を常に抱えていました。
そんな時に先ほどの先生に出会い、自分の中に点在していた悶々とした気持ちと葛藤が全てつながって、自分の悪い部分だと思っているところは、良い部分でもあるのだと、生まれて初めて考えられるようになり「時間をかけて話を聴いてあげられる」ことも1つの才能かもしれないと思えたんです。
◆一人1時間、キャリア相談まで請け負う産業医面談◆
―現在は長崎県の精神科で後期研修をしながら、東京の会社で産業医をなさっています。実際に産業医をしてみてどうですか?
社会人経験があるので健康相談だけではなく、キャリア相談まで踏み込んで話を聞くことができています。そのため一人30分、場合によっては1時間くらいかけるときもあります。
面談の際、中には自分だけでは考えが回らない状態の人もいます。そんな彼・彼女の話を、時間をかけて聴くことで、「ああ、なんか、尾林先生と話せて良かったです」という一言が出てきたときには、他には代えがたい満足感がありますね。
もちろん産業医の業務は、当該従業員の健康状態を客観的に診て、就労に耐えうるのか、または休ませた方がいいのか、復職できるのか否かということの診立てをすることです。
ですから、キャリア相談にまで踏み込むのは業務要件外だと思いますが、産業医面談は、従業員が今後のキャリアを見つめる重要な分岐点であり、休息地点でもあると思うんです。
そこを表面情報だけ見て「休んでください」「復職可です」と言うのは、面談相手のことを考えた対応とは言えず、とても失礼で私にはできません。
―産業医をするにあたって、その他に気を付けていることは何ですか?
結論を私から示さないように心掛けています。産業医・精神科医としてのポリシーですが、人は容易に「説得」することはできません。本人が「納得」しない限り、人は動かないのです。
だからこそ、自分の頭で考えられるようになるまで、しっかり話を聴き、ある程度筋道を立てて、ヒントをたくさん示してあげるようにしています。ですから、「どうやって説得しよう」ではなく「どうやったら納得してくれるだろう」と、一生懸命考えることに心を砕いています。
ただし、ヒントを出すのにも注意が必要です。時々「この場合、AとBとCという治療法がありますが、どれにしますか?」という言い方をする方がいますが、それでは何も決められません。
「今の局面だと大きく分けてAという考え方とBという考え方がありますが、どうしましょう?」と一緒に悩むことが、納得して次の一歩に進んでもらうために大事だと思っています。
時間はかかりますし、効率も利益率もよくありません。そこをもっと上げていくことは目標の1つではありますが、今はとにかく時間をかけて、どうしたら本人が納得できるステージに立ってもらえるかを、必死になって考えています。
◆産業医像を確立し、産業医の認識を変える◆
―今後の展望は、どのように描いていますか?
最初にも言いましたが、働くことは、生きることです。生きていく中で今の仕事を続けるのか辞めるのかなど、中長期的な今後のキャリアを考えるのは彼・彼女にとって一大事です。そんな大事な局面で、お手伝いすることが産業医の役割なので、私にとって毎回の面談はまさに真剣勝負の場です。
そのことが今より正しく理解され、実はこんなに大事でやりがいのある仕事なんだと注目してもらえるよう、仕掛けていきたいです。ただこれは、自分の中の第2フェーズだと思っています。
まずは、自分自身が産業医のベースとして精神科のスキルをしっかり身につけ、私の描く産業医像をしっかりと確立し、ブラッシュアップしていくことに力を入れていきたいと思っています。
会社を辞めると言った時から、産業医を目指す私の背中を積極的に押してくれた人はほぼ皆無に等しい状態でした。だから最初は少し心細かった部分もありました。しかし思いを貫いているうちに、こんな私を応援してくれる人が少しずつ出てきました。妻や、所属している東大精神科の医局の同期や、先に述べたクリニックの先生などです。
少しずつ共感してくれる人が増えたことで、自分自身のモチベーションも上がりますし、だからこそ第2フェーズで、そのような思いを持っている産業医をもっと増やしていき、こんな思いを持った産業医を雇っている会社を増やしていきたいと思っています。
(インタビュー・文 / 北森 悦)
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■医師プロフィール
尾林 誉史 産業医・精神科
会社員であった2006年に産業医を志し、2007年、弘前大学医学部3年次学士編入。2011~13年、産業医の土台として精神科の技術を身に付けるため、東京都立松沢病院にて臨床初期研修を行う。2013年、精神科の後期研修を岡崎祐士先生(前・東京都立松沢病院院長)のもとで行うべく、長崎市にある医療法人厚生会道ノ尾病院に赴任。同時期に、東京大学医学部附属病院精神神経科にも入局。現在は、主に東京に本社のある企業6社の産業医も務めている(2016年10月12日現在)。