女性の問題を横断的に診られる医師になる
女性の健康問題に関わりたいと、高校生の時から産婦人科医を目指していた山本佳奈先生。滋賀医科大学を卒業後、あることから南相馬市立総合病院の初期研修医として勤務を始めました。そして2年間の勤務を通し、同病院で産婦人科専門医を取得したいと考えた山本先生に、新専門医制度の壁が立ちはだかります。2017年4月からは、同病院の産婦人科ではなく、神経内科で新たなスタートを切った山本先生の想いとは―?
なぜ、初期研修先に南相馬市を選んだのか
―福島県の南相馬市立総合病院で勤務することになった経緯を教えてください。
私は生まれも育ちも関西で、滋賀医科大学に進学、初期研修も関西で受けることしか考えていませんでした。しかし、お世話になっている恩師に「知らない文化圏に出てみたほうがいい」と言われ、東京都内で探すことに―。第1希望の病院はあったのですが、どうしても第2希望の病院を決められず、マッチングには第1希望しか書かなかったんです。落ちたら2次募集をかけている病院を探せばいいと思っていましたし、周囲の人も私自身も何となく通過すると思っていました。
ところが、結果は選考落ち。想像以上に落ち込んでしまい、その後数時間のことは覚えていませんが、2次募集をかけている病院を探していたんだと思います。その日の19時頃には、南相馬市立総合病院が2次募集をかけていることを知り、直感的に「ここに行きたい」と考えていました。
恩師に連絡すると最初は止められましたが、何とか説得、その日のうちに当時の院長に連絡を取ってもらいました。すると、まだ誰も応募者はいないとのことで、病院見学もしていないのですが、すぐに面接をして採用が決まりました。
―東京都内で探していたはずの山本先生が、なぜ南相馬市立総合病院にそこまでこだわったのでしょうか?
実は1度だけ東日本大震災後の大学5年次に、南相馬市を訪れたことがあり、知り合いの先生方が被災地で活躍されている姿を直接見聞きしていました。その経験から、ただ第3者としてではなく、実際に自分も南相馬に入ってこの目でしっかり現状を見ておく必要があるのではないかと思ったのです。また、初期研修修了後28歳になることを考えると、その時点で南相馬市に行きたいと思えるか分かりませんでした。だからこそ、今行きたいと思ったのです。
関西出身の自分が南相馬市に来た意味
―実際、勤務してみてどうでしたか?
何もかもが初めてのことだったので、最初の3カ月は言葉通り必死でしたね。中でも苦労したのが、患者さんの言葉。聞き取れず、看護師さんに通訳してもらうこともしばしばありました。気付いたら夏になっていた、そんな感じでした。
しかし、研修環境としては非常に恵まれていました。研修医が少ないので各科マンツーマンで指導していただけましたし、実技もどんどんさせていただけました。都市部の病院で研修を受けていた友人の話を聞く限り、南相馬市に来たことでスキルアップが早かったと思います。また、食材は何でも新鮮でおいしいですし、海も山もすぐ近くで自然を間近に感じることができます。風の向きによっては潮の香りがすることがありますし、星空がとても綺麗で、勤務後の帰り道には見たことがないほど多数の星を見ることができますね。
そして何よりも、私の方言を聞いて「関西から来てくれたのね、ありがとう」とおっしゃってくれる患者さんがいたことが、とても励みになっていました。同時に、少し気持ちの余裕が出てきた頃から、「関西出身の自分がここに来た意味」を考えるようになりましたね。
―自分が南相馬市に来た意味ですか?
そうです。ここで活躍されている他の先生方は、明確にやりたいことが決まっていて、それを進めて成果を出されています。一方、私はまだ医師になったばかりで臨床技術が不十分、「医療支援のため」と言うのはおこがましいですし、研究発表していくスキルも伴っていません。しかしながら、関西から来た私だからできることはあると思いますし、それをしっかり考え抜いてどう行動していくかが、結果的に自分を高めていくことにつながるからです。そんなことを、1年目の夏頃から考えていました。
―実際に、辿り着いた答えは何だったのですか?
思い至ったのは、「飾らない南相馬のことを発信する」ことでした。医学生時代に女性の貧血について書いた記事がwebメディアに掲載されたことをきっかけに、書籍を出版したことがありました。ありのままの「南相馬」を発信していくことで、それを読んだ人たちが南相馬市や福島県についての誤解を解いていってくれればと思ったのです。そして機会があるごとに、新聞の投書欄やSNSなどで発信するようになりました。それらを読んで、両親も当初抱いていた南相馬へのイメージを変えてくれましたね。
レールから外れ、自ら道を切り開く
―初期研修修了後も南相馬市立総合病院で、産婦人科専門医を取ろうとされていた山本先生。それが叶わなくなってしまったのに、南相馬市立総合病院の神経内科に勤務を続けられているのはなぜですか?
高校時代から産婦人科医になって女性の健康を守っていきたいと思っていました。そして初期研修の2年間を南相馬市で過ごしたことで、修了後もこの地域に残りたいと強く思い、南相馬市立総合病院で産婦人科専門医を取得できないかと、さまざまな方に掛け合ってきました。ところが、初期研修修了目前の3月15日、病院から後期研修の面倒は見られないと言われてしまったんです。
確かによく考えてみれば、私は婦人科領域の疾患だけでなく、女性のうつ病などのメンタル的問題から思春期や更年期の問題、性教育など女性に関わる問題を横断的に診られる医師になりたいので、ぴったり産婦人科領域に合致しているわけではありませんでした。そのため、ここまで産婦人科にこだわる必要はなかったかもしれませんし、地域を絞らなければ問題なく専門医の資格は取れたと思います。
しかしながら、私はこの南相馬市立総合病院でご縁があって働くことができ、多くの方に出会い、応援していただき、学び、経験できたことがあります。ですから、初期研修の2年間だけで離れたくありませんでしたし、自分の医師という仕事で少しでも恩返しがしたと思ったのです。
それに地域医療を学びたい若手はいるのに、それをできないような新専門医制度が作られ、かつ、そのような制度設計にもかかわらず地域医療を推し進めようとする今の状態には疑問を感じます。この渦中にいる誰かが声を上げなければ変わらないので、自分がその一人になろうと思いました。
―それでは、今後の目標はどのように考えていますか?
レールに乗っていれば楽ではありましたが、すでにレールを外れてしまったので、自分のやりたいこと、つまり女性の健康問題を横断的に診られるようになるために、どのように学んでいくかを自ら決めながら、進んでいきたいと考えています。そのためには、まずは指導していただけることになった神経内科でしっかりとスキルアップを図り、できることを増やしていきながら、成果を出し、認めてもらえるようになりたいと思います。
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◾️医師プロフィール 山本 佳奈 南相馬市立総合病院
滋賀県出身。2015年滋賀医科大医学部を卒業、同年4月より南相馬市立総合病院にて初期研修をスタート。医学生時代に書いた貧血がテーマのweb記事をきっかけに、2016年4月、「貧血大国・日本」(光文社新書)を出版。2017年4月からは、南相馬市立総合病院神経内科に勤務する。