スポーツ医学で人生を豊かに

「実学的な自分のメソッドを持ちたい」と奮闘した末、『スラムダンク』にたどり着いた医師がいる。35万部を突破した『スラムダンク勝利学』の著者である医師がスポーツと禅から見いだした新しい医療とは。

「スポーツ医学」をインターネットで検索すると、「競技スポーツ選手の身体能力の強化、好成績を出すための体の使い方、故障の予防、治療などを取り扱う総合的な専門医学分野のことを指す」とあるが、これは日本で展開されているスポーツ医学だ。アメリカでは、スポーツだけに留まらず社会にも役立てるスポーツ医学が研究され、実践されている。

そのようなスポーツ医学を学び、「実学的な自分のメソッドを持ちたい」と奮闘した末、『スラムダンク』にたどり着いた医師がいる。35万部を突破した『スラムダンク勝利学』の著者である医師がスポーツと禅から見いだした新しい医療とは。

◆スポーツを通してQOLの向上を

―スポーツドクターとは、どのようなお仕事ですか?

スポーツ医学というと整形外科の仕事というイメージが強いのですが、必ずしもそうではありません。私が実践しているのは「スポーツを」診ることではなく「スポーツで」診るということです。その中で一人一人の人生の質である「QOL(Quality of Life)」を向上させることを目指しています。いわば、スポーツは入口で、QOLが出口です。この二つを結びつけることが、私がスポーツドクターとしてやりたい仕事です。

一般的な医療は病んだ人を治療しますが、スポーツ医学の対象となるのは、より良くなりたい、仕事のパフォーマンスを上げたい、豊かに生きたいと考える全ての人です。スポーツの価値を高めるとともに、スポーツを通してさまざまな人の人生のQOLをサポートすること。それが、私がしているスポーツドクターの仕事です。

現在はトレーニングやカウンセリングのような個人のサポートから、ワークショップや講演、執筆に至るまで幅広く活動していますが、取り組んでいる内容は、栄養、休養、運動をマネジメントする「ライフスタイルマネジメント」と、いかにコンディションを整え良いパフォーマンスを出すかという「コンディションサポート」です。

―なぜ、スポーツ医学の道へ進もうと思ったのですか?

私の家系は代々医師で、私も31歳までは慶應義塾大学病院で内科医をしていました。毎日忙しく勤務していた当直明けのある朝、医局で同僚の医師に「昨日はこんなことがあってさ」と文句を言っている自分に気づいたのです。もちろん医師として一生懸命やっていましたが、そんなふうに文句を言っている自分がとてつもなく嫌でした。そもそも自分は患者さんに貢献したくて医師になったのではなかったか。それなのに、こんな文句を言っていていいのだろうかと思いました。

大きな転機となったのは『パッチアダムス』という映画との出会いでした。「笑い」で患者さんのQOLをサポートする姿を見て、自分は笑いの専門家にはなれないけれど、私が好きなスポーツが、QOLに果たす役割があるのではないかと思ったのです。自分がやりたいのはこういうことだと気づき、スポーツ医学の道へ入っていきました。

同じ頃、慶應義塾大学の日吉キャンパスにスポーツ医学研究センターが造られました。早速そこの先生に会いに行くと、スポーツ医学について話してくださいました。「これからのスポーツ医学は、整形外科がけがを診るだけじゃないんだ。これからの医療には、生活をサポートするライフスタイルマネジメントが大事なんだよ」と。そこで、病気になった人を治すのではなく、ライフスタイルをマネジメントしてQOLを上げるスポーツ医学を一般の市民に伝えていきたいと思うようになりました。

日本には、病んでしまった心を扱う専門家はたくさんいますが、コンディションを整えたり人生をよりよくしたりするための心の専門家はいません。そこをサポートするのがスポーツ心理学であり、メンタルトレーニングなのです。

海外にも勉強に行きました。アメリカではそれぞれがオリジナルメソッドを持ち、スポーツ心理学を使っていかに社会の役に立てるかという研究を楽しそうに行っていました。私もこんなふうに学問よりも実学的なことがやりたい、自分も何か独自のメソッドを持てないかと考え、思いついたのが『スラムダンク』でした。

漫画『スラムダンク』の作者、井上雄彦先生にお会いしたとき、私のスポーツに対する考えを語りました。そうしたら「それは素晴らしいですね。本を書きなさい」と言われて、初めて書いた一般書が『スラムダンク勝利学』です。結果的にこれが35万部のベストセラーになりました。井上先生は漫画という身近なツールを使って、「人間とは」「心とは」「人生とは」という、目に見えにくいものの価値を表現しているのではないかと思います。それを私はスポーツを題材として、話すことや書くことで伝えています。目に見えない存在を最も表現しやすいのがスポーツだと思うからです。

◆スポーツを「文化」に

―先生のスポーツに対する考えとは、どのようなものですか?

私はスポーツというのは日常を豊かにするための「文化」だと思っています。でも、日本ではスポーツは「体育」の中にしかないので、これを文化だと考えている人はほとんどいません。スポーツは「する」だけではなく、「見る」「聞く」「読む」「話す」「支える」など、さまざまな触れ方があります。私は、みんなにスポーツをしてほしいわけではなく、スポーツに触れて学び、自分の生き方に生かしてほしいのです。スポーツの中にQOLを向上させ、人生を豊かにするヒントがあることを知ってほしい。スポーツの中から生まれた医学と心理学を通して、スポーツにも文化的価値があることを見せたいと思っています。すべての人にスポーツの価値を知ってもらい、生活に役立て人生を豊かにしてもらうことが私のミッションなのです。

◆機嫌のよい状態がパフォーマンスを上げる

―先生の独自メソッドについて教えていただけますか?

柱となる考え方は、「心の法則」です。心の状態には、フロー(Flow)かノン・フロー(Non Flow)の二通りしかありません。フローという状態は、揺らがずとらわれず、機嫌のよい状態です。これは、いわゆる「ゾーン」の状態とは少し違います。いきなり無に近い状態へ行こうとすると逆に揺らいでとらわれてしまうので、まずは気楽に、フローなほうへ、機嫌のよいほうへ傾こうとすればよいのです。

機嫌のよい状態は医学的に健康なだけではなく、パフォーマンスも上がり、周りにもよい影響を与えます。自分で自分の機嫌を取れる力を育もうというのが私のトレーニングなのです。そこでは集中しつつもリラックスしている状態を目指します。自分の状態を観察する習慣を身に着けると、揺らがずとらわれずの心の状態に近づくことができます。

例えば坐禅を組んでいるときに、お坊さんは「考えるな」と言います。でも、「考えるな」と言われると「考えないようにしなければ」と考えてしまう。これはとらわれている状態です。仕事でも、「これをしなければ」「あれはいつまでが期限で」「それはこんな目的で」などと考えているときは、集中しているけれどとらわれている状態です。脳が外に向いていて、心が全部外に持っていかれてしまっているので、新しいアイデアが出なくなったり本来の力を発揮できなくなったりします。このとき同時に、「いま自分はちょっとイライラしているな」「不安に思っているな」「焦っているな」などと自分の内面を見つめて感情に気づく習慣を持つと、バランスがよくなりパフォーマンスも上がります。結局、坐禅でも「まぁいいから坐れ」と。そして内観していくうちに心が落ち着きます。

○辻メソッド(スポーツドクター辻秀一オフィシャルサイト) http://www.doctor-tsuji.com/method/

―辻メソッドでどのような成果があがっていますか?

音楽家の生徒の例があります。コンクールで審査員に評価されることが気になって本番になると力を出せないという子がいました。しかしフローの状態でいられるようにトレーニングしたところ、苦手だった暗譜が得意になり、その後交響楽団の首席奏者になりました。

ある経営者の方は売上を追って戦略だけに走り、できない部下に当たったため、社内が殺伐として空気が悪くなっていました。しかし、やるべきことを明確にしながらも心をフラットにする練習をして経営がうまくいくようになりました。

やるべきことはやりながらもあるがままを受け止め自然体でいく、というのがこれからのあり方だと思っています。日本人はこういうことは得意なのではないでしょうか。

人生もビジネスも全て、最終的には自己実現をしていくことが大きな命題だと思います。私はそれを表している典型的な活動がスポーツだと思うのです。自然体で自分の力を出しながら仲間と協力し、一体感をつくってチームの力を発揮する。そこに豊かな生き方の答えがあるのではないかと思っています。

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【医師プロフィール】

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辻 秀一/内科・スポーツ医学

エミネクロスメディカルクリニック

1961年東京都生まれ。北海道大学医学部卒業後、慶應義塾大学で内科研修を積む。同大スポーツ医学研究センターでスポーツ医学を学び、1986年、QOL向上のための活動実践の場としてエミネクロスメディカルセンター(現:(株)エミネクロス)を設立。1991年NPO法人エミネクロス・スポ-ツワールドを設立、代表理事に就任。2012年一般社団法人カルティベイティブ・スポーツクラブを設立。2013年より日本バスケットボール協会が立ち上げた新リーグNBDLのチーム、東京エクセレンスの代表をつとめる。日本体育協会公認スポーツドクター、日本医師会公認スポーツドクター、日本医師会認定産業医

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