吉田寮は取り壊されても仕方ない。だが京都の街は救うべきだ!

ヴェネツィアやローマ、フィレンツェに匹敵する歴史的景観は、徐々に消えつつあるのだ。
京都大学吉田キャンパス
京都大学吉田キャンパス
時事通信社

爽やかな秋晴れの一日。

京都大学吉田キャンパス内を歩いていると、構内掲示板に貼られたビラの、ある一文が目に留まった。

<Vedi Yoshida-ryo e poi muori.> 「吉田寮を見てから死ね」

日本人にも馴染みがあるらしいイタリアの諺、<Vedi Napoli e poi muori.>「ナポリを見てから死ね」をなぞったキャッチコピーだ。

10年ぶりに京都の街を訪れた私は、モダン化したその美しい街並みに感動しつつ、同時に、やるせない寂しさも感じていた。

「風情ある古都の街並みは、未来永劫に受け継がれてゆくべきだ」

という思いは、四条通りを東西に横断してみると、さらに強くなる。

かつて木造町屋が幹を連ねていたはずの通りには、背の高いビルが競い合うように伸びていた。

ヴェネツィアやローマ、フィレンツェに匹敵する歴史的景観は、徐々に消えつつあるのだ。

盆地を囲む山々と市内を流れる河川は、京都の街に、四季折々の風景をもたらした。

豊かな自然と調和していた趣深い街並みは、時を経て、都会特有の奇妙なほど整えられた街並みへと、確実に変化を遂げていった。

京都の街は、自然との繋がりだけでなく、和の心さえも見失いつつあるのではないか。

昔ながらの景観が残る小さな路地を歩きながら、私は自問自答していた。

なぜ、このような都市化・高級化が起こってしまうのか。

かの有名な枯山水の石庭がある龍安寺から南へと下り、妙心寺に至るまでの道中、気品ある老婦人に声をかけられた。

誘われるままに門をくぐり、古き良き佇まいを残す木造家屋へとあがらせてもらう。

女性は、自宅の一室を開放し、着物のリメイク品などを売る雑貨屋を開いていた。

「そこにな、まっくろけの、味気ないビルが建ってしもうたんよ」

女性は数年前まで、京都市中心部にある京町屋の一室を借りて、友人らと共に、ハンドメイド雑貨の展示会を開いていたそうだ。

女性に教わった場所へ向かうと、中庭もあったらしい立派な町屋の姿はなく、代わりに、10階建ての宿泊施設が堂々とそびえ立っていた。

女性が「味気ないビル」と呼んだその宿泊施設の下階には、見覚えのあるコーヒーチェーン店が白々しく看板を掲げている。

果たしてこの、日本中世界中あちらこちらで見かけるコーヒーチェーン店は、古都の中心地に店舗を構える必要があったのだろうか。

ある人はこう答えるだろう。 ー それが、市場の法則だ。

またある人は、こう答えるかもしれない。 ー 観光客だって、休むためにカフェは必要だ。

「どうして京都へ?」

観光で訪れている人々に尋ねてみた。

誰も、「いつものコーヒーが飲みたくて」とは答えない。

誰も、「新しくできたホテルに泊まりたくて」とは答えない。

「京都は、古典的日本の象徴だから」とか。

「昔ながらのお茶屋さんに行きたくて」とか。

「日本らしい庭園や街並みが見たくて」とか。

中には、小さな手に可愛らしい包み紙を持って、「こんぺいとう」と答えてくれる少女もいた。

彼らは、「京」を感じたくて、「和」を感じたくて、

東京や他の大都市では味わえない体験を期待して、京都へとやって来るのだ。

なのになぜ、昔ながらの町屋を取り壊してまで、他の都市と同じようなサービスを作り出すのか。

イタリア人に聞けば、「妻を取り戻すためにアソコを切り取った男みたい」と言われるようなことが、実際に起こっているのだ。

行政すらもあってないような、大抵のことがうまくいかない、イタリアのような国でさえ、

誰も、コロッセオ周辺の、ルネサンス期や中世の建造物を失ってもいいと考える人はいない。

たとえ、巨額のお金や、入手不可能な世界最高峰のワインや、世界一の美女で釣られても、だ。

歴史というのは、はるかにもっと、何を持ってしても価値をつけられないほど、貴重なものだからだ。

どうして、日本のような素晴らしい国で、文化の虐殺が起こってしまうのか。

なぜ、歴史が失われてゆくのを、悠々と見過ごしてしまっているのか。

先日、月への切符を手にしたという日本人実業家が話題になった。

芸術に関しても造詣が深いそうだが、月旅行という先進的なものに関心を抱く彼が、一方で歴史をおろそかにするとは思えない。

実際に、創作活動のインスピレーションを得られるようにと、アーティストを宇宙へと連れて行く計画を立てているというのだから、

長い歴史を生き延びてきた街並みを保護するべきだ、という考えに、きっと彼も賛同してくれるだろう。

もっとも、彼ほどの財産を持っていれば、京都の街を購入することで、いとも簡単に保護できてしまうのかもしれないが。

京都に滞在している間、京都大学吉田キャンパスにある吉田寮の見学ツアーに参加した。

歴史的建造物として、築105年にもなる吉田寮は保護されるべきだ、と案内役が力説する。

もっともだ。歴史は保護されるべきだ。私も、そう思う。

だが、一つだけ言わせて欲しいのは、

吉田寮が歴史的建造物として価値ある建物であると言うのなら、それ相応の扱いをしてはどうだろうか。

見た限り、寮に住み続けている150名ほどの住人は、とても「衛生的」とは言えない生活を送っているように見受けられた。

あれほどに不当な扱いを受けた建物の急速な老朽化は免れられないだろう。

まるで、ヴァイオリンの名器「ストラディヴァリウス」を、破壊的パフォーマンスが売りのロックバンド に渡してしまうようなものだ。

保護と保存を望むのであれば、もう少し慎重に、丁寧に、扱ってあげてはどうだろうか。

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