サイボウズ式:コミュニケーションコストがかかる人は相手にされない

"仕事ができる人"には2種類のタイプがいる。相談をされる人間と、相談をされない人間だ。逆に言えば、きちんと相談ができる人、できない人という観点もあるが、今回は相談を受ける側について書いてみたいと思う。

【サイボウズ式編集部より】

この「ブロガーズ・コラム」は、著名ブロガーをサイボウズ外部から招いて、チームワークに関するコラムを執筆いただいています。今回は「My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only」のファーレンハイトさんが考える「チームで相談される人、相談されない人の違い」についてです。

"仕事ができる人"には2種類のタイプがいる。相談をされる人間と、相談をされない人間だ。

逆に言えば、きちんと相談ができる人、できない人という観点もあるが、今回は相談を受ける側について書いてみたいと思う。

まわりに人が集まる"できる人間"、集まらない"できない人間"

仕事ができると思われている人は何かと相談を受けている。「知っていますか?」という知識レベルの話であったり、キーパーソンとの仲介を頼まれたり、「どうすればいいのか?」という現状打破へのアドバイスであったり。本人は自分のことをやりたそうなのに、シマにいると誰かしらに声をかけられていたりする。よく見る光景じゃないだろうか。

"他人から頼られる人"と言い換えても良い。わかりやすいもので頼れる人のところに人は集まるし、そうでない人に人は寄ってこない。できる人、頼られる人はそれだけでなく仕事も引き寄せてしまう。非常に不公平感はあるが、ビジネスマン冥利に尽きるといっていいだろう。

さて、逆に"仕事ができる"と本人は思っているし、まわりも凄さを認めているのにあまり人を引き寄せない人がいる。知識も経験も実績もそれなりなのに、誰からも相談されないような人。"同じできる人"のはずなのに前者のタイプとは明確な差があるように思える。それは何なのだろうか。

コミュニケーションコストについて

これはコミュニケーションコストの違いではないかと俺は思う。<仕事は人間関係>とは使い古されたフレーズだけど、やはり本質だと思う。どれだけ優秀な人であっても<ひとり>でできることのスケールは限度がある。これは日野瑛太郎さんのエントリー「『自分でやったほうが早い』でチームは滅ぶ」と絡む話だが、ある一定の規模感を持った仕事はチームをいかに機能させるかという話になる。

「メンバーの負荷分散」「誰がやっても同じアウトプットが出せる再現性」「一丸と取り組むためのチームのビジョン」――。これらは色んな所で語られている話だけど、ベースには<自分だけではない他人といかにうまく仕事をやるか>という思想が根底にある

そこで、だ。他人とかかわる際にはコミュニケーションが必須となる。基本と言われる報告・連絡・相談で考えると非常にとらえやすい。いかにひとりよがり・属人化を排除することができるかということだ。

そもそもコミュニケーションは面倒くさい。気の合う人であれば通じ合うのはたやすいけど、仕事でかかわる人はそんな人ばかりじゃない。パッと言って、サッと話が通じることなんて少ない。コミュニケーションにはコストがかかるのだ。

混みいった状況を他人に共有するのは時間がかかる上に、誤解も受ける。自分より知識や経験が少ない人に同じ視点を持ってもらうには、かなり噛み砕いて説明しないといけない。人の話を聞かない人と合意を取るためには、何度も何度もやりとりをしないといけないでしょう。

相談される人はコミュニケーションコストを下げている

ここで話を戻すと、まわりに人が集まるタイプの人間はコミュニケーションコストを下げる努力を取っているなぁと感じるのです。報連相1つを取っても、声をかける方が億劫にならないようにしている。それは話しかけられたときにうっとおしそうにしないことであったり、聞き返すときに詰めるような物言いをしないことであったり、相手が聞きたいことではなく自分の喋りたいことを喋るような愚行を犯さなかったり。

端的にいうと<からみやすい人間>なのだ。だから進んで状況を共有したくなるし、この人に聞けば何とかしてくれるのではないかと思える。

逆に人が集まらないタイプの人間は<からみづらい>。何かを相談すると俺スゴイアピールが連発されたり、「こんなこともわからないの?」的な物言いをされたり、自分の喋りたいことだけをまくしたてられたり。

特に面倒なのはやりとりのなかでアイデアをブラッシュアップさせたいにもかかわらず、お互いの意見を反映させる気がゼロの人。「俺はこうしたい」を曲げない人に懇々とアプローチを取っていくなんて時間のムダが過ぎる。もうめんどくさいんで、勝手にやってくださいって話になる。

後者のタイプの人間は、「話し合うことそれ自体がコミュニケーション」と誤解しているフシがある。お互いの意思疎通、意見交換ができることがコミュニケーションの良さのはずなのに、通じ合うことなしにやりとりを発生させること自体をコミュニケーションと誤解しているのだ。そんなものに付き合ってられるわけがない。

だからそんな人には最低限のやりとりだけを望むようになるし、何かあったときに相談しようなんて気が起きないのだ。人が集まるはずがない。

相談されることは時間のムダではない

最後に「"人が集まることが良いことなのか?"」についても。これは一概には言えない話だと思う。現実的に色んな人に話しかけられたり、相談を持ちかけられることは一面的には時間のムダといえる。自分の可処分時間が減っていくからだ。

ミーティングのない空き時間を自分の作業時間に充てようとしていたところに、他人が報告や相談にくる。自分の手が止まるわけ。手が止まる理由が自分のためでなく、他人のため。非常にダルい。

けれど、こうやって信頼をつくっていくことで自分が何かをお願いしたいとき、頼りたいときに他人はスムーズに動いてくれるでしょう。テイクからのギブが容易になる。自分が協力してもらったことがない人のお願いと、自分が助けられたことがある人のお願いには雲泥の差があるでしょう。メリットのための人助けを先に考えてはいけないけど、厳然としてある事実。

トータルで考えると、前者のタイプと後者のタイプのどちらが効率的な時間の使い方をしているかは微妙なラインだろう。どちらが良いパフォーマンスを出すのかも難しい話。

ここは自分がどんな人間でいたいかに左右される気がする。でも、他人とかかわること、他人に頼られること、他人と一緒に良好にやっていくことから得られる仕事の充実感はとてつもない。そこに対して価値を置けるかというスタンスの違いなのでしょう。仕事は何をやるかではなく、誰とやるか、とまでは言いません。何ができるかはやはり重要だから。そしてそこに選択の自由がないことが多い。

「仕事をどんな風にその人とやるか?」は自分次第で選択できるもの。あなたはどちらを選びたいだろうか。

ファーレンハイトさんより

普段はブログ「My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only」、Web媒体「AM [アム] 」で恋愛・人間関係について書いています。サイボウズ式のブロガーズ・コラムでは、仕事・チームワークにおける他人との関係性について何らかの価値を提供できたらと思っています。

(サイボウズ式 2014年9月 1日の掲載記事「コミュニケーションコストがかかる人は相手にされない」より転載しました)

イラスト:マツナガエイコ

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