サイボウズ式:自責を相手に強制する「詰め」の無意味さ

「なんでできないの?」はその表面的な意味合いよりも、相手に自責か他責かのスタンスを問うていることに着目するべきです。その理由は...

サイボウズ式編集部より:著名ブロガーをサイボウズ外部から招いて、チームワークに関するコラムを執筆いただく「ブロガーズ・コラム」。今回は、朽木誠一郎さんが考える「正解のないチームマネジメント」について。

はじめまして、朽木誠一郎です。僕は27歳になるまで大学生をしておりまして、卒業後はウェブ系のベンチャー企業に就職、半年後にいきなり管理職に昇進してそこから1年ほどチームのマネジメントをするという、基礎なしの応用一発勝負みたいなキャリアを歩んできました。

数学なんかでも、基礎をないがしろにして問題を解こうとすると、ある程度のレベルまではなんとかなっても、越えられない壁に突き当たることがありましたよね。社会には難問どころか正解なしの悪問がゴロゴロしているので、さまざまな解法へのアプローチを知るという意味で、僕のこれまでの紆余曲折がみなさまのお役に立てば幸いです。

「なんでできないの?」はマネジメントを失敗に導く

さて、世の中には詰める上司というのが存在します。「詰める」の定義はなかなか難しいですが、ここでは「部下の失敗を叱責する行為」としましょう。

この定義だと、僕も部下の指導をするときに「詰める」ことはあります。上司と部下にかぎらず、立場に非対称性がある関係においては、ごく普通のマネジメント方法でしょう。そして、落とし穴というのは、得てしてこのように、一見当たり前の場所にあるものです。

詰める上司の台詞としては「なんでできないの?」が定番です。部下が思わぬ失敗をしたとき、思わず口をついて出ることもあるでしょう。できない理由を聞きたいというよりは「このくらいはできてくれよ」というニュアンスを含んでおり、もともとは部下の成長への期待の表れと言えないこともない台詞だったはずです。しかし、この質問が招くのは、上司の期待とはおそらく反対方向の結果です。

「なんでできないの?」はその表面的な意味合いよりも、相手に自責か他責かのスタンスを問うていることに着目するべきです。前提として、ビジネスの現場では他責(他人の責任)よりは自責(自分の責任)にしたほうが成長できると言われていますし、僕もそう思います。

しかし、もし自責にすることを他人に強制されるとなれば話は別です。そのような行為は、マネジメントを失敗に導くことを、上司は自覚するべきだと思います。

他責より自責は成長につながるが、自責を強制しない方がよい

というのも、上司に「なんでできないの?」と聞かれた部下が、クライアントや(その部下の)部下といった外的要因を原因として挙げれば、他人のせいにするスタンスをさらに詰められるのは想像に難くないでしょう。

他責よりは自責のほうが成長につながるという前提がある以上、失敗の原因を自分以外のせいにしたことを叱責されるというのは、一見正当にも思われます。しかし、注意しなければいけないのは、これが不自由な2択であることです。

自責にしない限り上司が詰めるのを止めてくれないのであれば、部下はしぶしぶ自責にするしかありません。「なんでできないの?」は一見オープン・クエスチョンのようでいて、答えは「自分のせい」か「自分以外のせい」の二択であり、かつ失敗の原因を自分以外におくことはそもそもよしとされないのです。つまり、詰めるという行為は自責を強制するのと同じことになります。

上司に「どうして売り上げが翌月にスライドしたの?」と聞かれた部下が「クライアントの社内稟議に時間がかかり」「(その部下の)部下がクロージングに失敗し」と答えたら、上司としては思わず、他責にする部下への叱責をはじめてしまうでしょう。

部下はここで、「自分がクライアントとの調整に失敗しました」「自分の部下の管理が行き届きませんでした」と答えるしかありません。

しかし、これでは上司による思考の強制であり、どれだけ上司の意見が正当であったとしても、叱責の程度次第ではパワハラやモラハラにあたる可能性があります。これは上司側も胸に手を当てて考えなければいけませんが、詰めるタイプの上司は一部に「詰める」という行為を誇らしげに語る傾向があります。でも、それは体罰を自慢する教師と同じであり、社会的に許容できないというスタンスをとるべきだと僕は思います。

「いつも詰められている部下」を生み出すのは「詰める上司」

そもそも、押し付けられた思考で人間は変化するのでしょうか。ここでいう変化とは、認知と行動の様式の変化を指します。人間はまず主観的にモノゴトを認知し、認知にもとづいて行動しますが、次第にこの認知から行動につながる思考パターンに、固有の一定の偏りが生まれます。

この思考パターンのクセこそ、仕事ができる、できないを左右する重要なポイントです。

たとえば、課題を後回しにしていいか、すぐやるべきかの判断は、それまでの人生における選択と結果により形成された思考パターンのクセに左右されます。課題を後回しにするのは仕事ができないビジネスパーソンの特徴ですが、これは経験上は後回しにしてもなんとかなっていたので、「後回しにしてもなんとかなるだろう」と判断するようになったのでしょう。失敗を繰り返す部下には、本来このような思考パターンの補正が必要です。

一方で、詰める行為によりアプローチできるのは、あくまでも行動パターンです。特定の行動をしたマウスに電流を流すような実験がありますが、罰を与えられたマウスは、あくまでも電流を流された行動をしなくなるだけです。

実験により、また別の条件を設定されれば、何度でもその条件に応じた罰を受けることになるでしょう。残念ながら、このような実験のマウスには、罰を逃れる方法がありません。

「クライアントとの調整ができませんでした」「部下の管理が行き届きませんでした」──これは本当にそうなのですが、ここで上司が「で、どうするの?」とさらに詰める行為におよんでも、部下は「次回はがんばります」としか言いようがありません。本当は、このような失敗の背景にこそ、クライアントへの連絡や、(その部下の)部下へのリマインドを後回しにする思考のクセが隠れているかもしれないのに、です。

もう一例「わかってるの?」という、これも定番の台詞を紹介します。これに「わかっています」と答えると「ではなぜ失敗したのか」、「わかっていません」では「なぜわかってないのか」と詰められます。

要するに正解はなく、上司の気が収まるまで叱責に耐えるのがゴールです。このような環境では、部下は上司の言いなりになって、思考を放棄してしまいがちです。実験で電流を繰り返し流されるマウスとも、大差がないのです。

失敗がカイゼンの対象だとすれば、本当はここがPDCAサイクルにおけるC(Check)とA(Act)にあたり、課題の洗い出しと改善をする重要なタイミングです。

CとAに時間をかけるべきというのは、事業全体については定説ですが、このような個別のケースになると、すぐ目に見える結果を追求しがちです。そのひとつの表れが「詰める」という行為なのかもしれません。よく言えば、部下との認識合わせを早急におこなったとも表現できるのですから。

しかし、人材とは本来、一朝一夕に育成できるものではありません。罰で相手の行動パターンを補正できても、思考パターンまでは補正することができません。そのため、詰められる部下は何度でも詰められることになります。ある意味では、オフィスの風物詩である「いつも詰められている部下」を生み出しているのは、「詰める上司」に他ならないのかもしれません。どうしてこのようなパラドックスが生み出されてしまうのでしょうか。

なぜ問題がある「詰める文化」はなくならないのか

繰り返しになりますが、部下を「詰める」ことは僕にもあります。放っておいても結果を出せる人間もいれば、適切なタイミングでお尻を叩いてあげないと(体罰的な意味ではなく)結果を出せない人間もいるためです。ただしその方法として、「なんでできないの?」に代表されるような、自責を相手に強制する「詰め」は意味がないと、僕は思います。また、相手を叱責するという指導は、そもそもできるだけしたくないとも。

誰だって、怒られたくないし、怒りたくもないのではないでしょうか。それなのに、どうして詰める文化が生まれてしまうのかには、過去に自分が詰められて指導されたためにそれ以外の指導方法を持っていないとか、これまで詰めて指導した部下の育成が上手く行った成功体験があるとか、あとは企業文化として詰めることが常態化しているとか、さまざまな理由があるでしょう。

でも、指導方法が詰める一択では芸がないし、詰めて育った一握りの人材の陰ではたくさんの人材が潰れているのかもしれません。詰めるのが企業文化だとしてはばからない会社からはすぐに逃げ出したほうがいいです。

前述したように、パワハラとかモラハラとかのセンシティブな問題をはらんでいる行為ですので、その自覚が薄いようであれば、他にも何かと苦労することになると思います。

「詰める」のは簡単です。まず、自分の感情をコントロールする必要がありません。叱責された部下は思考を放棄するのでマウントしやすくなり、権力を誇示できるため気分がよくなってしまう上司も一部にいることでしょう。心理的に選択しやすい指導方法だからこそ、詰める文化はなくならないし、詰める文化を存続させるために詰められる部下が出現するという構造的な問題もありそうです。

では、もし部下が失敗をした場合は、どう指導すればいいのでしょうか。以前、跳ねっ返りの強い部下の失敗を「詰めて」いたときのことです。一通りヒアリングを終えて、僕はまず「そもそもココがちがう」とミスを指摘し、最適だと思う方法を提示しました。しかしその部下は、その方法が最適であるとしながらも、「気にくわない」と言います。こちらも若干カチンと来ながらですが、その部下の言い分を聞いてみることにしました。

「自分がまちがっていたことは理解している。だけど、どんなにバカバカしい失敗だったとしても、否定しないでほしい。私は認められたい」──要約するとこんなところです。場合によっては、開き直りをさらに詰めることになりそうですが、そのときの僕は「たしかに、そういうものだよな」と思いました。当たり前ですが、部下は人間です。その心の機微を無視したマネジメントは成功しないか、コミュニケーションロスが大きいと気付いたのです。

しかし、ここまで説明してきたように、さまざまな問題のある「詰める」という指導方法を安易に選択するようになってしまったとき、「相手を成長させて、生産性を上げる」というビジネスの現場における指導の本質が失われがちであることは、マネジメントをする立場の人間として心に留めておきたいと思います。

つい叱責のために口を開きかけたときは「その指導は誰のためにあるのか」と、自分に問いかけるようにするのはいかがでしょうか。

マネジメントは時代と相手により自由自在に変化する、良問であり難問です。正解までたどり着けないと知りつつ特定の解法にこだわるのは、試験のような部分点もない以上、時間のムダになってしまいます。

これまで自分にとって有効だったとしても、目の前の問題の役に立たないのであれば、さっさと捨てて次に行きましょう。さまざまな解法でトライ・アンド・エラーをしつつ、常に正解へのプロセスを自分にストックしておきたいものです。

イラスト:マツナガエイコ

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本記事は、2015年11月26日のサイボウズ式掲載記事自責を相手に強制する「詰め」の無意味さより転載しました。

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