あのテロがなかったら

人は、もう一度、人を取り戻さなければならない。長い歳月のなかでのその覚悟が、私にこの小説を書かせた。
胸のなかに鍾乳石を育むがごとく、長い時の流れがなければつむげなかった物語がある。私にとっては、2001年9月11日のマンハッタンへと向かう青春群像を描いた「あなたという国〜ニューヨーク・サン・ソウル」がまさにそれで、あの日の混沌とした体験からひとつの物語を浮上させ、自分自身も想像していなかったエンディングを導くまでに、相当の歳月を要したことになる。

私がニューヨークに移り住んだのは、同時多発テロが起きる前年の春だった。日本でのある種の生活のなかで心身ともに疲労を覚え、進むべき道さえわからなくなってしまった私は、まったく新しい環境に身を置く自分を日夜夢想するようになっていた。トランクとギターだけを持って、知り合い一人いない摩天楼の街へと飛び込んでいったのは、その衝動の果ての行為でしかなかった。

結局、私は3年近くをマンハッタンとブルックリンで過ごしたのだが、最初に絡めとられたのは粘り着くような孤独というものだった。言葉が通じない。相手が何を言っているのかわからない。これが大きかった。それなりに英語はできるつもりでいたのだが、地下鉄のアナウンスひとつ聞き取れない。語るにしろ歌うにしろ、言葉で生きてきた人間にとっては過酷な状態が続いた。多人種が行き交う街で、私はいっさいの経歴を失った何もできない一人の東洋人に過ぎなかった。自然史博物館に展示されている隕石に触れ、「助けて下さい。力を下さい」とつぶやいたこともある。
そうした日々のなかにも、しかし光は差し込んできた。言葉を交わす者たちが少しずつ増えていったのだ。午前中だけ通った語学学校で出会った若者たちがその相手だった。

親が決めた結婚から逃げてきたコロンビアの美しい女性、マリア。酒を飲む私を非難するくせ、文具をいつも借りようとする中国のシェン。徹夜の厨房仕事からいつも眠たげな顔でやってきたベネズエラのマリオ。「ハラキリ」という日本語が好きだったアルゼンチンの伊達男、マルセロ。広島と長崎の仇をいつ討つのだとささやいたチュニジアの青年。やたらおしゃべりだったトルコの3人組の男たち。

なかでも忘れられないのは、甥っ子の誕生日プレゼントをいっしょに探すことになったウクライナのナディアと、気付けば私の部屋に入り浸るようになっていた韓国の若者たちだった。米国で育ったわけではない彼らはみな、私と似たようなレベルの英語を話した。そして誰もが、どこか寂しげだった。母国と母語を離れ、不器用な人間どうしとして出会った時、世間一般の会話は意味を持たなくなる。どんな日々を歩んできたのか。今心に何を抱えているのか。互いに自然と、それを語りだすのだ。

やがて私は日米のミュージシャンたちとロックバンドを結成し、ニューヨークでの初ライブに向けて奮闘するようになる。孤独はいつの間にか窓から出ていき、どうしたらバンドを軌道に乗せることができるのか、具体的な難題に追われ始めた。急に忙しくなった私を、ナディアもマルセロも、韓国の若者たちも応援してくれた。
世界を震撼とさせた同時多発テロはその最中に起きたのだった。2機目の旅客機が突っ込むところからツインタワーが崩壊するまで、私は窓辺でただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。そしてあろうことか、そのあとは避難してくる人たちの流れに逆らい、現場に近づこうとした。多様な人間の姿を見ることになるとは知らずに。

だが、「あなたという国〜ニューヨーク・サン・ソウル」はそこで見聞きしたものを伝えるために書いたのではない。あの日失われた命のほぼすべてに、心を寄り添わせた人がいたはずだ。犠牲者は数字でカウントされるが、本当の損失と消滅は数えることができない。私は不条理の極みのなかでこの世から去らなければならなかった人たちへの追悼を通じ、もしあのテロがなければあり得たかもしれない別の世界を描いてみたかったのだ。それを書く必要性を感じたのは、あの日から始まった事態、人が人であることを苛むような状況が全地球規模で起き始めたからだ。

人は、もう一度、人を取り戻さなければならない。長い歳月のなかでのその覚悟が、私にこの小説を書かせた。

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(FILE PHOTO) Authorities Release 9-11 Emergency Tapes

2001年9月11日・アメリカ同時多発テロ

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