事故や災害の「負の遺産」をどのように保存すべきなのか――JR福知山線事故から10年

「JR福知山線の事故」と言えば、その事故を覚えていることを「あぁ」という表情で示してくれる人は少なくない。しかしその後に、あの事故現場となったマンションがいまどういう状況にあるか知っているかを尋ねると「ふつうに人が住んでいるんじゃないんですか?」と聞いてくる人もいれば、「あのマンション、まだあるんですか?」と聞き返す人もいる。

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事故現場の「いま」

10年前の2005年4月25日に発生したJR福知山線事故。「JR福知山線の事故」と言えば、その事故を覚えていることを「あぁ」という表情で示してくれる人は少なくない。

しかしその後に、あの事故現場となったマンションがいまどういう状況にあるか知っているかを尋ねると「ふつうに人が住んでいるんじゃないんですか?」と聞いてくる人もいれば、「あのマンション、まだあるんですか?」と聞き返す人もいる。

その記憶が曖昧と言うよりは、そもそもそのマンションが現在どのような姿であるか、ということを考えたことがない人がほとんどだ。もしかすると、拙稿を読んでくださる多くの方もそうかもしれない。

電車が衝突した分譲マンション「エフュージョン尼崎」。このマンションは、事故後に西日本旅客鉄道株式会社(以下「JR西日本」)が区分所有者から買い取り、現在はそのすべてをJR西日本が所有している。

近づいてマンションを仰ぎ見れば、2両目が巻き付くようにぶつかった外壁部分は更に剥がれたり、鉄筋がさびたりもしており、その老朽化は否めない。しかし遠目には、一両目車両が飛び込んだ駐車場部分の一部と屋外ピットが撤去された以外は、今も10年前のままの姿でそこにある。

事故現場に対する「相容れない」強い想い

マンションが当時のままの状況を留めていることにはいくつかの理由があるが、その最も大きな理由は、被害者の間で、真っ向から対立する意見が存在しているからである。

事故現場の象徴となっているマンションについては「いっさい手を付けず、マンションは全て残すべき」という意見がある一方で「一日も早く更地にしてほしい」という意見もある。

原爆ドームのように負の遺産として保存し、広く公開することを強く望む被害者がいる一方で、家族がなくなった場所は見たくない、誰にも見て欲しくないと語る被害者もいる。

また仮にマンションを保存する場合でも、「マンションはできるだけ囲い見えないようにするべき」という意見もあれば「事故の風化を防ぐためには、周りから見えるようにしなければ意味がない」という意見も存在する。

事故現場の公開についても、見世物にはしたくないので「非公開で」という声もあれば、「多くの人がお参りできる場に」という声もある。どの観点をとっても被害者と呼ばれる人々(遺族や負傷者、その家族など)のすべてが納得する解を見いだすことは困難だ。

そして、そればかりではない。事故現場は、周辺に学校や住宅が存在する日常生活の中にある。被害者の方々の気持ちを最優先に、と語る地域住民が少なくないが、線路脇にそびえ立つこのマンションを視界から排除することは困難である。

事故当時、現場で救助活動に当たった方、その支援をした近隣の方々、事故には遭遇しなかったJR福知山線の利用者などまで含めれば、そもそも誰の声まで聴くべきなのかという課題も浮かび上がってくる。

鎮魂の場なのか、風化を防止し安全を誓う場なのか

JR福知山線の事故に限らず、事故や災害において人の命が奪われた場所、また多くの人がその後の人生を変えざるを得なかった場所は、「慰霊・鎮魂の場」と「事故や災害の記憶を風化させずに伝え、安全を誓う場」という2つ意味において位置づけられる場合が少なくない。

この両方が、事故・災害の現場にとって重要な意味をもつこと、そのものについては大きな異論はないように思う。しかし、それが具体的な建物や施設を保存するか否か、という議論となったとたんに紛糾する。これは、東日本大震災の被災地における災害遺構をめぐる様々な葛藤についても同様であろう。

大事な人が亡くなった場所で、心穏やかに祈りたい。故人を偲ぶ場でありたいという気持ちを大事にすれば、生々しい傷跡のままに事故や災害の現場が保存されることは許容しがたい。

「現場を見るのは辛い」「一日も早く撤去して欲しい」という言葉は、早く忘れたいというよりは、大切な人が、突然の事故や災害でその命を失わなければならなかった不条理を、どのように心の中におさめればよいのかわからないという、苦悩の現れであるようにも見える。

JR福知山線事故の場合には、このような意見は遺族に限らない。負傷者の中にも、自らが助かったことへの罪悪感を示しつつ、だからこそ「事故現場は(事故の凄惨さを示す場所というよりは)皆さんの分まで頑張って生きていますと報告できる場であって欲しい」「静かに亡くなった人に祈りを捧げる場所であって欲しい」という想いをもつ人もいる。

一方で、多くの方がなくなった鎮魂の場であるからこそ、今のままの形で残して欲しいとする人もいる。鎮魂の場だからという理由で現場を保存しないのではなく、まだ自分の大事な人がそこに「いる」ように感じるからこそ、建物にはこれ以上手を加えて欲しくないと願う人もいるのだ。

風化を懸念する被害者からみれば、事故や災害にあった建物を解体撤去する、もしくは減築するということは、風化の速度を速めるような、また被害そのものを矮小化されるような心の痛みを伴う行為でもあろう。

どのような事故や災害であっても、単に情報や知識を伝えるだけではその被害や教訓は伝わりにくい。現場に立ち、実物を見ることでしか伝わらない学びがあることは、多くの識者が指摘する通りである。

一方で、事故の教訓を活かすことを最優先に考えるならば、「事故現場を保存することを重視しすぎるがあまり、安全対策に割かれるリソースが削がれることがあってはならない」という指摘が、被害者自らからなされることもある。

このように、何を大切に想うかということと、「選択肢」として提示される保存のあり方(現場を保存するか、否か)は必ずしも一致しない。その意味で、丁寧なプロセス無しに、「現場を保存するか否か」という選択肢を突きつけることの課題は大きい。

まずは、被害にあった方々の心身の傷を少しでも癒やすこと。自分の大事な人が命を落とさなければならなかった、その人生を変えざるを得なかったことの意味を問い直す時間を用意すること。それらを経て被害者自らが、もう誰にも二度と同じような想いはしてほしくないと考え続ける先に、事故や災害の現場をどのように保存するかという具体の形が見えてくるのではないだろうか。

どのように、この難題に向き合うのか

JR西日本はどのように、この難題に向き合ってきたのだろうか。

JR西日本は、4月25日の追悼慰霊式の他に、毎年少なくとも1回は事故後の安全性向上の取り組み等について、被害者(遺族と負傷者は別の日程)に向けた説明する場を設けてきた。

この説明会ではじめて事故現場の整備について提起されたのは、事故から6年半が過ぎた2011年11月のことであった。この段階ではイメージ図などは提示されず、事故現場を整備するという意思をJR西日本が示したに過ぎない。

この後JR西日本は、

(1)慰霊碑や慰霊のためのモニュメントを設置することについて

(2)マンションのあり方について

(3)事故現場を安全につながるものとしていくことについて

(4)訪れた方々に穏やかにお過ごしいただくことについて

(5)その他

の5項目について、被害者の方々に向けた事故現場に関するアンケートを、2012年1月、2012年6月、2013年2月の3回にわたって実施している。

このアンケートと、個別面談などを通じた聴き取りをふまえ、2013年11月の説明会で整備案(イメージ図を含む)が提示される運びとなった。

この説明会では、

(1)慰霊のための慰霊碑や献花台を設置すること

(2)マンションの全ては残さずに、事故の痕跡が残るマンションの一部および屋外ピットおよび線路脇の車輪痕を現地に保存したいと考えていること

(3)マンションを見ることが辛いとする被害者の声や周辺住民への気持ちに配慮し、できる限り周辺から見えないような形で保存したいと考えていること

(4)事故現場に事故の事実を示す資料を保管・展示すること

などの方針が示された。この後、さらに第4回目のアンケート(2013年12月)が実施され、最終的には、2015年3月に、マンションの一部を保存すること、またあわせて慰霊碑を建立するという整備計画が正式に決定された。

私にとっての事故現場

この事故現場をどのように整備していくのかということを決めていくプロセスにおいて、ひとつの特徴的な取り組みが「事故現場に関する(少人数の)語らいの場」である。

イメージ図の提案(2013年11月)に先駆けて、2013年9月に初めてその試みが実施された。その後、2014年2月、2014年9月にわたっても繰り返し開催されており、筆者はその語らいの場(負傷者の分のみ)において、進行役を務めている。

JR福知山線事故の場合、その事故現場と言われた時に、多くの人が象徴的に思い浮かべるのは、マンションであり、また脱線衝突の痕跡が残るピットや柱などであろう。私自身も、語らいの場に参加するまでは、そう考えていた。

しかしある負傷者が語らいの場で告げた「マンションの保存部分を、横に伸ばすということは考えられないでしょうか」という言葉に、はっとさせられた。

この当時のJR西日本の案では、マンションは特に被害の痕跡が残る部分を限定的に保存することになっていた。彼女はそれに対して、一階部分だけは全て保存することができないのか、と問うたのである。

彼女は、事故の教訓を伝えるためにマンションをできる限り大きく残したいと願ったわけではない。「自分自身が、救急車を待つ間に寝かされていた場所は、マンションのエントランスであったと聞いている。自分にとっての事故現場はマンションのエントランス(列車が衝突した箇所とは180度反対の方向)だ」と彼女は言った。

当日同席していた2人の負傷者も同じような想いを語った。これらの発言がのちにJR西日本が原案を大きく変更する契機のひとつとなったと見られ、最終案ではマンションの1階部分(横52メートル)は、すべて保存されることとなった。

事故や災害の現場ということが語られる時、その象徴となる建物や施設(福知山線事故の場合には現場のマンション)に注目が集まる場合が少なくない。

あの事故、あの災害と言われれば、多くの人がもっとも凄惨な被害の写真(多くの場合は俯瞰的に撮影した写真)を思い浮かべることからしても、風化防止のためには、象徴的な建物をどのように保存するのか(しないのか)は重要な論点である。

しかし、ここで示したエピソードからもわかるように、事故による被害は象徴的な建物だけで示すことはできない。別の場面である被害者が「自分にとっての事故現場は、たくさんの方が寝かされていた線路の上であり、もし残すことができるなら、線路こそあの日のままに保存して欲しい」と語ったように、誰かが息を引き取った場所や、亡くなる人を看取った場所、自らが搬送されるまでの時間を過ごした場所など、被害者それぞれに「私にとっての事故現場」がある。

むしろ個別に話を伺えばその分だけ、象徴的な建物を残すのみで、あの日起こったことの凄惨さを共有し、そして伝え続けることは難しいと感じる。その意味で、建物をどう保存するか(しないのか)という結論以上に、何を事実として伝えていくのか、何を教訓として伝えていくのかを考えるプロセスが重要なのだ。

被害者と加害者が語り合うとういうこと

この少人数の語らいの場は、「書面によるアンケートと大勢が集まる説明会の2つの方法だけで、十分に被害者の声を聴けているのか」「説明会の場では声を上げづらい人もいるのではないか。」「そもそも、説明会で被害者と向き合うのは役員であり、事故現場をどうするかを考え、実際にイメージ図を描き、本当にこれで良いのかと自問自答する担当者が、被害者の方々の意見や質問に直接応えられる場がない。本当にこのまま整備案をとりまとめていって良いのか。」このような現場担当者の逡巡からうまれたと聞く。

「多様な立場の意見を、丁寧に聴き取って欲しい」と言い続けた被害者達の声も、このような動きを後押ししたのだろう。

語らいの場では、事故現場の保存のあり方以前に、JR西日本の被害者に対する姿勢や、安全対策のあり方について、率直な厳しい意見も出た。

事故からの時間が経過するにつれ、事故の「後」について率直に語る機会がなくなることへの淋しさやもどかしさ。事故から時間が過ぎたからこそ自分の心の中に生まれた葛藤や、言葉にできるようになった痛みについて語る被害者もいた。

事故現場をどうしたいのかを語る前に、その日に至るまでの長い物語を語らずにはいられないということなのだろう。事故や災害は、どのような場合でも発生した直後に一番の注目が集まる。そして月日がたち、社会の関心が薄れるようになってから、事故を示す象徴的な話題として「マンションを保存するのか否か」という課題に注目が集まるようになった。

しかし当然のことながら、遺族や負傷者、その家族は、社会から注目されているか否かにかかわらず、事故とともにその後の時間を生きている。事故の後の時間も含めて、事故が引き起こした衝撃であり痛みなのである。

そして、「事故現場をどうするのか」という難問をきっかけとして、事故は終わったことではなく、いまだに続いているのだということが改めて露わになった。そしてこれをJR西日本の担当者が直接聴くこと、聴き続けることに、この語らいの場のもうひとつの意義がある。

事故の記憶を風化させないために、現場をできる限り当時のままに残すことは有効な方法のひとつだろう。建物は解体されれば、その後、二度と同じ形でそれを保存することはできない。その意味で、象徴となるマンションをどのように取り扱うかについては、慎重になりすぎても過剰とは言えない。

しかし、それ以上に重要なことは、事故の教訓を決して忘れてはならないJR西日本の社員が、未だ続く事故として被害者の声を聴き続け、それをもとに事故現場のあり方のみならず、それを社内で語り継ぐ方法、安全教育や制度に反映させる方法を考え続けることではないだろうか。そしてそれこそが、事故を風化させない、本当に事故の教訓を活かすということにつながっていくのだと筆者は考える。

すでにJR西日本の職員もその1/3が事故後に入社した社員である。さらに10年が過ぎる頃には、社員のほとんどが事故後の入社ということになるのだろう。加害企業の中で事故の記憶を「風化させない」ということは、現場や事故の記録を保存し、学ぶことに加えて、事故の後を生き続ける被害者とともに安全とは何かについて悩み続ける、そういう取り組みなのだろうと思う。

おわりにかえて

JR福知山線事故の場合には、事故現場のマンションの残し方に一定の方針が示されるまでに10年の月日が必要であった。その月日を振り返り、ある被害者は「最終案は自分の意見とは全く違う形であるが、自分自身はその結論に納得している」と語った。そしてその理由を彼は「長い時間をかけて、いろんな立場の人の声を丁寧に聴いた上で、時間をかけて検討し、それを形にしようと努力した痕跡が見受けられるから」と話してくれた。

事故や災害の現場をどう残すのか、という問いに対して、被害者と呼ばれる人々(遺族や負傷者、その家族等)の全てが納得する解を見いだすことは極めて困難だ。だからこそ、本稿で繰り返し述べたように、さまざまな意見を丁寧に共有するプロセスを大切することが重要なのだと思う。

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(2015年4月25日「SYNODOS」より転載)

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