25年ぶりに実の父親と中国で再会をした話。

辛く当たってごめんね。 毎日一生懸命生きてくれてありがとう。

見知らぬ土地の空港。

「おつかれさま」

聞き覚えがありそうで無い声が目の前から聞こえてくる。

私はなんて返事をすればいいんだろう、と悩みながら「ありがとう」と答えた。

25年前、両親が離婚した。私は母に育てられた。

母は私が5歳のときに継父と再婚した。私は彼のことを最初「パパ」とは呼べず「パパちゃん」と呼んでいた。

彼は心から私を愛してくれた。悪いことをすれば冷酷な顔で論理的に説いてくる。感情的になるのは楽しいときだけ。涙を流しながら笑い、笑いすぎて背中が痛いとまた泣き出す。

勉強ができない私に「あのね、人生長いんだからね、高校なんて6年かけて卒業すればいいの」と頭を撫でてくれる。大きな心をもった人だ。

高校生のとき、生物で「血液型」について学習する時間があった。そのとき、私は自然にクラスメートの前で「私のお母さんはA型で、お父さんはB型で、私はO型。だから、AB型がいればぜんぶ揃うんだよね」と話した。

すると、先生が「そんなはずはないでしょ、どっちかの血液型間違えてるんじゃない?」と笑う。クラスメートは「あんた実は父親か母親違うんじゃない?」と笑う。

「あぁ...私の境遇ってこういう扱いを受けるものなのか」と、ピエロのように笑いながら「あれ〜ちょっと家帰ってもう一回聞いてくるわ!」と心の中で泣いていた。

大人になってA型とB型からO型が生まれる可能性があることを知った。

でも、だからといって、あのときの悲しみは拭えない。

16歳のとき、母と継父の間に子どもが生まれた。なぜだかわからなかった。母は「あなたが1人だとかわいそうだから」と言った。

私にとってそんなものはいらなかった。

母と継父そして私、これで完璧な家族だったのに。妹という余計なものが私の平和を壊しにきた。

実父を強く意識するようになったのはこの頃からだ。

母が継父との間に子どもをつくるほど私は悪い子どもなのか、私ができの悪い子どもだから、2人はきっと子どもが欲しかったんだ。

そういえば、お父さんはいつまで待っても電話も手紙も寄こさない。

あぁ、私はやっぱり邪魔な人間なんだ。

自分で自分のことを責め続け、嫌い続け、許せないでいる。

でも、それは誰のせいでもなく、自分のせいだと大人になって気づいた。

本当に私はダメな子どもだったのか、愛せない子どもだったのか、これらを確認してから、自分を責めるなり焼くなり殺すなりすべきだ。

いつまでも「大人のせい」にして生きるのはダメだ。

2017年3月末に父を探すことを決意し、その一週間後、中国に移住していることがわかった。

電話で25年ぶりに親子の会話をし、父に会いに中国に行くことを決意した。

家を出てから飛行機にのるまでずっと泣いていた。

今までいったことの無い国で、英語も日本語も通じない国で、25年間会わなかったお父さんに身を委ねるなんて、無謀だ。なんてことを決意してしまったんだ。と自分を責め続けた。

搭乗後、何時間も泣き続けたせいもあって中国にはあっという間に到着していた。

荷物を受け取り、ゲートを出ると、見覚えのある人が私に近づいてきた。

「あ、この人が父親か」

「まともそうだ」

悲しいかな、会ったときの感想はこれだけ。

父はよく喋る人だった。

「遠いところまでよくきてくれたね」

「おばあちゃん、おじさん、みんな元気かな」

「ここは中国のなかでも空気が綺麗なところなんだよ」

全ての言葉に「ほう」としか答えられなかった。

ホテルにつくと、「ちょっと散歩にいこう」と言うので、荷物を部屋に置いて2人で近くの大きな公園にいった。

公園は大きな丘になっていて少し登ると街が一望できる。

「ちょっとそこに立って」

「わかった」

父が私にiPhoneを向ける。

「大きくなりすぎだろう」と困った顔でシャッターを押した。

大連市内の「労働公園」にて
大連市内の「労働公園」にて
えるあき

妹が生まれ大学に入学したと同時に煙草を吸い始めた。

特に意味はなく、「悪いことがしたかった」だけ。

公園内のカフェで父と珈琲を飲んだ。外の席だ。父がポッケから煙草を出す。

私のポシェットの中に入っている煙草と同じ「キャスター5mg」だった。

怒られることを覚悟して「私も一本」とポシェットから煙草を取り出し火をつける。「おいおい、そんな大人になったのか。煙草、ちゃんと免税で買ってきたか?こっちで買うと高いぞ」と満面の笑みをみせた。

父にとって2歳だった娘が、突然人妻になって現れたようなもの。ようなものというか実際にそうだ。

「時空の捻じれも甚だしいな」と険しい顔で言っていた。

私は私で微かな記憶を頼りに父を長い間想っていた。東京にいると思っていたら、中国にいて、奥さんがいて、7歳の息子がいる。

お互いに今の置かれている状況、目の前にいる人、全てが不思議で、何から話せばいいのかわからない。一問一答形式で3時間、身の上話を楽しんだ。

そこから5日間、父は私とずっと一緒にいてくれた。

朝ごはんを食べ終えたころにホテルまで迎えにきて、煙草を一箱くれる。

私はそこまでヘビースモーカーではないので、「そんな毎日いらないよ、こっちじゃ高いんだから」と断るが「いままで何もできなかったんだからこれぐらいもらってくれよ」と笑いながら渡してくる。

3日目、お昼ごはんを食べていると父が「なあ、ゴルフ行かないか」と誘ってきた。

涙が出るほど嬉しいお誘いだった。

実は、初日の公園で勇気を出して父に「私ゴルフやってたんだよね、最近やってないんだけど。お父さんゴルフ好きでしょ」。

「一緒にラウンドしようか」という言葉を待っていたけれど「好きだよ、今のお父さんとやってたのか。それは楽しいね」で終わった。

「ラウンドしたいって言うのは図々しいな」と夢を叶えるのは諦めた。

継父はゴルフが好きで、仕事が終わると練習場に寄ってから家に帰ってくる。

私はそんな彼と遊びたくて小学校2年生からゴルフをはじめた。

小学校の授業で生まれたときの自分の写真が必要だった。家の奥にある扉を開くと古いアルバムがいくつもあった。

中をひらくと実父が私を抱いている写真がいっぱいあった。「あ、お父さんここにいるんだ」と、実父に会いたくなると母に見つからないようにこっそり父に会いに行っていた。

あるとき、父に会いたくてアルバムを開くとゴルフをしている写真があった。「あ、お父さんもゴルフ好きなんだ」「ゴルフ頑張ってプロになったらお父さんに会えるかも」と、そこから私はゴルフに打ち込み始めた。

ジュニア育成チームに所属し合宿やレッスンに通う日々。でも、プロになりたいという強い意思を持っているチームメイトたちと「お父さんに会いたい」でやっている自分の間には大きな溝が生まれてくる。

それに耐えられず中学2年生でクラブを握るのをやめた。

でも、頭のなかでは「いつかお父さんとゴルフがしたい」とずっと思ってた。私の大きな夢だった。

そして、父親との再会が決まったとき、実家に帰ってこっそりクラブを持ち出して出発まで練習に励んだ。

4日目の昼、父の奥さんが「私のを使って」とゴルフ用具一式貸してくれた。

車に乗り込み、ゴルフ場へ向かう。

ゴルフ場について、カートに乗り込む。「お父さん、夢みたいだよ」というと「おいおい、そういうこと言うなよ」と父はカートの速度を上げた。

ティーショットは私から、膝が震えるほど緊張した。そんな私をみて父は「キャディーさんに俺がいじめていると思われるからリラックスしてくれよ」と笑う。

父のティーショットは圧巻だった。想像以上にかっこよかった。「すげえ、私この人の血を引いているんだ」と自分が誇らしく感じた。

9番ホールを終えると父が「親子、初の共同作業をしませんか」とスクランブルを誘ってきた。

スクランブルは、それぞれティーショットを打ち、良い球から交互に打っていくゴルフの遊び方の1つだ。

「25年分のおしり拭いてくれるってことでしょ?」と皮肉を言うと「そうだな、お前のうんこついたおしりを拭いてから25年経ったのか」と眉間にシワを寄せる。

「ハーフを2アンダーで上がれたら美味いビールを飲もう」そう言って最初のティーショットを打った。

「世話になってたまるか」と必死になったが、叶うはずなく私のミスを軽やかにリカバリーしていく父。

最終ホールのパターを私が一発で決め、目標を達成した。

「ありがとうございました」と頭を下げ、固い握手を交わした、お互い目には涙を浮かべていた。

えるあき

最終日、父が空港まで送ってくれた。

特に多くは語らず抱き合って「またね」と笑顔で別れた。

セキュリティーゲートを待つ列で「よくがんばったな、私」と自分を讃えた。

この5日間、いろんなことを父と話した。でも、聞きたいことは聞けなかった。

「ねぇ、私って悪い子だった?会いたいと思えない子だった?」

「私のこと愛してた?」

でも、それはまた今度会えたときに笑いながら「ずっと連絡くれなかったの、ほんとにひっどーーい!!」なんて言えればいいよ。今回そんなこと聞いたら泣いて終わるよ。と自分を慰めた。

大連市内
大連市内
えるあき

飛行機に乗り込み、父に「ありがとう楽しかった」とメールをいれてiPhoneの電源を切る。

全てから開放されたように力が抜け、深い眠りに落ちた。

おかげで寂しさを感じることはなく、あっという間に成田空港に着いた。

空港に着いて旦那に連絡するためiPhoneの電源を入れる。

父からメールが届いていた。

微信

今まで息子だったアイコンが私に変わり、ずっと欲しかった言葉がそこには並んでた。

声をあげて泣いた。泣くしかなかった。

父親に会うことは本当に怖かった。異国の地で頼れるのは疎遠だった父だけ。

どんな仕事をしているのか、何よりも信用できる人なのか、私を受け入れてくれるのか、言葉にできない何かも含め、全てが不安だった。

誰かに一緒にいってほしかった、でも、これは自分が1人で解決しなくちゃいけないことだと、自分で自分にプレッシャーをかける。

人生で大きな何かを成し遂げるっていうのは、キャリアを積むことでも、お金持ちになることじゃない。

もちろんそれも一つだけど、過去の自分と戦って、傷ついた部分を癒やすこと、カルマ的な何かを消化することも一つだと思う。

もう自分の人生に悔いはない。

清々しい気持ちで、今、私は生きている。

暗闇のなかで自分を責め続けていた あのころのわたし

たくさん傷つけてごめんね。

嫌いだなんて辛く当たってごめんね。

毎日一生懸命生きてくれてありがとう。

おかげでお父さんに会えたよ。

もう暗くて狭いところにいなくていいよ。大丈夫だから。

大好きだから。これからは楽しいこといっぱいしようね。

また、お父さんに会いに行こうね。

(2018年2月17日 えるあき「まだまだ、おこさまらんち」より)

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