ハーバード大・人気教授が語るアジア式教育の優秀さと弱点とは? マイケル・プエット教授インタビュー

今日のアジアおよび世界の教育の一番大きな問題の一つは、学生に情報を完璧に理解させなくてはならないと判断してしまうことです。
Michael Puett / Emanuel Pastreich

マイケル・プエット教授は、ハーバード大学・東アジア言語文明学部教授で専門は中国史。現ハーバード大学委員会会長。

研究は人類学、歴史、宗教、哲学など多岐の分野にわたり、代表的な著作に『創造の二重性』(原著2001、未邦訳)、『神になること』(原著2002、未邦訳)がある。

ハーバード大学で最も学部講義の面白い教授5人の一人に選ばれている。

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エマニュエル・パストリッチ(以下、パストリッチ):アジア式教育は世界で賞賛を集めています。アメリカではアジア式教育を真似する両親がいるほどですが、アジア人の多くは教育システムにうんざりしていると聞きます。なぜアジアでは学歴が重視され、学生は試験や資格に追われるのでしょうか?

プエット(以下、プエット):アジア式教育には確かに二つの側面があります。

まず、伝統的に東アジアでは教育に大きな比重が置かれ、それが現代の東アジアの経済成長の原動力になっているのは間違いありません。

同時に、東アジアではテストの成績で人生が大きく左右されるため、子どもたちが学校や塾で受ける教育はテストの点数を上げることばかりが強調されます。子どもはテストの点数によって評価され、テストの結果をもとにキャリアを設計していくことになります。例えば、数学のテストの点数が良ければ理系コースを進むことになりますし、他の分野でも同様に、高得点者はその分野に進路を進めることになります。実は、こうした教育方針は古くからあるもので、その歴史は中国の科挙制度にまで遡ります。

中国の科挙制度は、身分に関わらず試験に受かれば高い地位の役職に就けるという制度で、非常に先進的だったと言えるでしょう。

パストリッチ:日本、中国および韓国における今日の科挙制度――能力優先主義とでも呼びましょうか――では、いくつかの重要な試験によって人生が左右されてしまいます。こうした試験は、教育産業と密接に関わっており、利益を創出するために関連業者は、このシステムを維持しようとしています。こうした状況は大きな反動を生み出し、システムから逃れるために子どもをアメリカに送る親も少なくありません。

プエット:アジアの教育は度が過ぎていて、改善しなければならないという意見はわかります。ただ、前近代の東アジアの教育がどう機能していたかを見ると、「伝統的なアジア人から学ぶべき価値がある」と私は言いたいです。狂気とも言える受験競争を伝統的教育と混同してはなりません。

中国の昔の科挙制度が一体どうであり、教育がどういうものだったのかを調べると、現代とは別次元で教育が実践されていたことが分かります。確かに、試験は重要でしたし、勉強は試験に関連付けられていました。しかし、学習の目標は自己を磨く術を身につけることであり、教育は人生や世の中に対する全体的なアプローチの一部でした。テストの点数の取り方ばかり学ぶ視野の狭い現代教育より、遥かに深く意義のあるものだったのです。

パストリッチ:中華民国の評論家、林語堂(1895-1976)の名著『生活の発見』には中国の伝統的な人生観や人間観がよく表れていますね。彼の著作を読んでいると人生そのものが教育の目的だと思うようになります。

プエット:伝統的な中国教育の革新的要素のひとつは、教育は適性に基づくものではないということです。教育の裏側には、我々人類は面倒な存在である、という前提が組み込まれています。どんな人になるかは、人生を生きていく中でどう自分を磨くかにかかっているのです。

なので伝統的な教育においては、数学や他の科目が得意かどうかは重要ではありませんでした。当時の教えは「貴方は何かに才能を持って生まれてきたのではない。自己を鍛えることで物事に精通できるのであって、先天的な才能ではなくて練習と訓練に集中するべきだ」というもので、儒学者たちは適性という概念を認めませんでした。むしろ肯定的な気質を探すのに集中し、訓練こそが差を産むのだと考えました。

ふたつめに、昔の中国人にとって学びの主な目的は技術習得ではありませんでした。技術はより高い目標に到達するために得る手段に過ぎませんでした。彼らにとっては、教養のある道徳的な人物になることが目標そのものだったのです。

昔の中国人は倫理的に正しい人間を生み出すことを願っていました。教育を通じ、状況をよく把握でき、周りの人々を助けられるように振る舞うことを教えました。そして何よりも、リーダーには倫理観が必要だと説きました。人間は自身が権力を行使できる位置にあるならば、権力のない者を助けるために、どう体制を運営しなければならないのかを悩める人格が必要なのです。記憶力や問題解決能力は二の次です。

しかし皮肉にも、現在の東アジアのテスト重視の教育は、このような伝統的な教育の側面のすべてを切り落としています。大抵の場合、適性に重点が置かれ、自己の発展はあまり重要視されません。仮に、発展に関心があっても、倫理観は重視されないでしょう。現代のアジア人にとって教育の核心はこう要約できるでしょう。

「数学は得意ですか?」と。

パストリッチ:日本と韓国の統一試験は、30年前と随分変わりました。以前は、三次元的思考を要する、よりセンスのある問題が出題されていました。問題に対する深い洞察力がない限り、公式を当てはめるだけでは決して解けない類の問題です。しかし今日では、塾に通って何度も練習すれば解けるような問題ばかりで、常識にとらわれない思考は必要なくなってしまいました。練習問題を何度も解けばそれでいいのです。

プエット:ええ、試験が学習の機会ではなく、通過儀礼と化してきたのは非常に残念です。このような動きは、かつての教育の意味を削ぎ落としてしまいます。中国の科挙試験には、一生かけても記憶力では解けないような内容が出題されていました。試験は主に志願者が善人になる努力をしているかを見極めることに目的がありました。

パストリッチ:実際の試験問題はどのようなものだったのですか?王朝ごとに違うでしょうが、昔の中国人は科挙試験を通じてどのように道徳的修養を測ったのでしょうか?

プエット:試験には明確な答えのない問題が出題されました。例えば、「もし貴方が国家公務員ならば、このような状況でどう対処するか」といった類の問題です。試験の趣旨は正確な回答を要求するものではなく、多くの場合、正しい答えなどありませんでした。試験の目的は、もし国家の権力が与えられたと仮定した場合、志願者が複雑な状況にどう善処するかを見ることだったのです。

試験対策は一筋縄ではいかず、一見問題とは関係のない分野の知識まで幅広くカバーする必要があり、相当にハードな教育過程だと言えます。しかし、あくまでも試験の焦点は、この教育過程を通じて善人になる努力をしているかを試すことだったのです。このような問題には知識の詰め込みでは対処できません。

パストリッチ:科挙試験には、詩や文学やエッセイが出題されることも多かったと聞きます。作文が重視されたのは何故なのでしょうか?

プエット:志願者が教育を通じて善人になる努力をしているのかを見極めるのが、試験の目的だったので、試験では志願者の人格を測る問題が出題されました。その目的に適していると思われたのが、詩などを書かせることだったのです。文章には人格がにじみ出ますからね。なので、優れた詩かどうかを採点したのではなく、文章からにじみ出る人格を見ていたのです。

パストリッチ:昔の中国の教育をどう捉えていますか?教授と生徒の関係や、教科書の使用法、口頭・論述試験などの要素を含めた中国古典教育の全体像を伺いたいです。

プエット:教育は、より良い人間になるように訓練することに目的を置いていました。もちろん学生は多くの本を読み、数多くの詩を覚える必要がありました。しかし教育はそこで終わらなかったのです。

パストリッチ:そこからが始まりだったのですね。

プエット:ええ、すべての学びは善人になるためにあったのです。教師は論語に描写される孔子を模倣しました。孔子は、まず自身が善人になるために努力をし、隣人が善人になるのを助ける人物として描写されていますからね。

孔子の基本的教育アプローチはこのような感じです。孔子がある状況に直面したとき、弟子はその状況を表すのに相応しい詩を引用しなくてはなりません。そこに正しい答えはありません。弟子は、状況に相応しいと思う詩句を引用します。すると、孔子は首を横に振り「いや」と言います。別の弟子が、自身が思う相応しい詩句をまた詠みあげます。孔子はまたも首を横に振ります。次に、また別の弟子が他の詩を詠みあげると、やっと孔子は首を縦に振り「そうだ」と言います。

「そうだ」と言うのは、その詩句が状況をよく表していながらも、他の観察者たちの殻を破り新しい視点で考えさせた、という意味なのです。

パストリッチ:試験自体が人びとを変化させるということですね。

プエット:その通りです。この試験の核心は、引用すべき的確な詩句があるわけではないということです。試験の意図は、状況をよく感知し、そこで自身が学んだことをもとに隣人を変化させることができるかなのです。このようなアプローチの要点は、どれだけ学んだかではなく、学んだことを通じて日常生活で周りの人々に良い影響を与えられるかが重要なのです。

パストリッチ:今日のアジアおよび世界の教育の一番大きな問題の一つは、学生に情報を完璧に理解させなくてはならないと判断してしまうことです。学生は、教師が知識を注ぐ皿に過ぎません。しかし結局のところ、同じ皿に、より多くの知識を注いでいるだけなのです。このような過程では変化は起こりません。学生は、学ぶ過程において変化するべきです。

プエット:東アジア文化圏のどこの地域でも、教育は変化のためにあると考えられてきました。それに対し、現在の教育では試験で高得点を取れても、それはどのような方法や形態においても学生が人間として成長したという事実を暗示しません。昔の東アジアでは、現在の教育は決して受け入れられなかったでしょう。教育は善人へと成長していくことを目指していたのです。

パストリッチ:同時に、中国の2000年に及ぶ教育史において、周期的な変化もありました。王朝が交代するにつれて科挙試験は形式化し、道徳や倫理とは一切関係がなくなってしまった時期もありましたよね。

プエット:確かにそういう時期もありましたが、教育に完璧というものはありません。改善の余地は常にあるものです。中国では、教育はどうあるべきで、人格を計るために試験はどうあるべきかについての議論が何世紀にも渡って交わされてきました。そして言うまでもなく、完璧な解決策は見つかりませんでした。

時間と共に、教育政策は癒合し形式化していきましたが、人びとは倫理教育が離れていくことを憂慮し、また議論が再燃するだろうと考えていました。そして実際その通りになったのです。私は中国の伝統文化に魅力を感じているのは、テストの点数よりも価値観に重点が置かれていたからです。

現代を眺めてみると、若者たちは限定的な教育観念の上で、熾烈なテスト競争を強いられています。残念ながら、私たちはこの限定的な教育観念を「必要悪」と考えてしまうため、一歩立ち止まって教育制度を議論することもないのです。しかし、私たちは過去から学ぶことができます。

中国と韓国における教育制度に関する議論は建設的で、アジアの教育体制の変革の糸口となっています。この教育システムによってどのような価値観が蒸発してしまったのかを私たちは自問しなくてはなりません。もしこの教育制度に不満があるのなら――多くの人はそうでしょうが――、どう変えていくべきかを考えるべきです。

パストリッチ:教師の役割についてどうお考えですか?伝統的な東アジア社会における教師の立場は今日とは随分異なっていましたが、今日では教師も生徒も消費される商品として見なされる傾向が強まっているように思えます。

プエット:中国の教師たちは孔子を模範とし、彼の献身的な教育の実践を心がけました。同様に、業績や指導技術といった形式的側面よりも、常に善人になろうとする心がけが教師の条件で最も大事だとされていました。教育課程のすべてが、教師と学生の両者にとって「人間としての成長」だと見なされていたのです。教師が完璧な人間でなくても、善人としての心構えがあれば、周囲の人びとに良い影響をもたらし、生徒もそれを真似するだろうという理念でした。

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