日本のSuicaを、訪日外国人にも使われるようにするための3つの課題とは。モバイル決済最前線

果たして日本、具体的にはSuicaの基準が世界的に見て異常なのだろうか? 今回はこのあたりの背景を探っていく。

最近、Apple Payの日本上陸の足音が近付いていることが話題になっているが、国内ではまずインフラ整備による地ならしが必要になるというのは前回も説明した通り。インフラ整備とは、Apple Payなどで利用されているType-A/Bベースのモバイル端末や非接触ICカードを日本国内の小売店でも利用できるよう、レジでの読み取り端末やソフトウェアを変更していく作業のことだ。

これらは実際のApple Pay上陸を機に、時間とコストさえかければ徐々に対応が進んでいくと思われるが、唯一切り替えが難しいといわれているのが「交通系ICカード」の対応だ。

ガラパゴスとはいわれるけれど......

JR東日本の「Suica」が代表的だが、その要求仕様は200ミリ秒内に非接触ICによる改札処理を完了させるというもので、海外で代表的な英ロンドンのTfL(Transport for London)が要求するクローズドループで250ミリ秒、オープンループで500ミリ秒という水準と比較しても高い。残念ながら筆者はまだ試したことがないが、後者のオープンループの仕組みを利用するApple Payでロンドン地下鉄の改札を通り抜けようとした場合、体感では要求仕様の500ミリ秒を上回る秒単位のタイムラグが感じられるという報告もある。

また、Apple Payでは指紋認証のTouch IDを使って機能を有効化する必要があり、スムーズに改札を抜けるには事前にTouch IDでロックを解除しておかなければならないという感じで手順が煩雑だ。

このように、日本国内の利用者から考えれば「海外のICカードは遅い」と感じるかもしれないが、実際にはSuicaがベースとしているFeliCaを利用しているのは世界でも実質的に日本と香港のみとなっている。果たして日本、具体的にはSuicaの基準が世界的に見て異常なのだろうか? 今回はこのあたりの背景を探っていく。

なぜSuicaの要求仕様は厳しいのか

下の図は、Suicaが駅の改札を通過するにあたって、対応するスマートフォンや携帯電話、そしてICカードが満たさなければならない要求仕様となっている。冒頭の説明のように、処理にかかる時間は200ミリ秒以内、RF(無線)による通信は中心部から85ミリメートルの半径距離でアンテナが反応しなければならない。一般に、FeliCaやNFCをベースにしたICカードを読み取り機にタッチする場合、ICカードを読み取り機から一定の距離に近付けるとアンテナが反応して誘導電流が発生し、ICカードが起動して処理が行われるようになっている。

この85ミリメートルという距離は、少なくともこの範囲内にICカードが位置する場合に、ICカードが起動して読み取れる状態になっていることを規定するものだ。この処理を200ミリ秒で完了させ、実際の改札の通過にかかる時間を考慮したうえで「1分間に60人が通過できる」というのが最終的な目標となる。

▲Suicaにおける改札通過の要求仕様(出典:東日本旅客鉄道)

問題は、この「1分間に60人が通過できる」という基準が多いか少ないかという点だが、JR東日本はSuicaのシステムを2001年に導入する際、実際にさまざまなシミュレーションを経て「1分間に60人」という数字を割り出している。下の図は、1990年代の改築前の田町駅で朝のラッシュ時の動態シミュレーションを行ったものだが、1分間に32人の改札通過を想定したケースでは、電車が数本到着するとともに改札階から人が溢れてしまったものが、1分間に47人のケースではなんとか溢れずに捌ききっている。

田町駅は山手線の駅でも乗降客数が際立って高いというわけではないが(実際、トップの新宿駅と比べても5分の1程度)、改札が1ヶ所しかないためにラッシュ時に人がたまりやすい性質があるようだ。とはいえ、日本全国のターミナル駅で発生する膨大な乗降客を短時間に捌くには、少なくとも田町駅で算出されている「1分間に47~50人」という水準はクリアせねばならず、「1分間に60人」という数字はここからきているものとみられる。

▲1990年代の田町駅をベースにした朝のラッシュ時の動態シミュレーション(出典:東日本旅客鉄道)

交通各社が自動改札に非接触のICカードを導入する理由は主に2つあると考えている。1つは前述のように「ラッシュ時の大量の旅客を短時間で捌く」ことにあり、巨額の投資も利用者の利便性と安全性を確保するものであるならば、「1分間に60人」という線は譲れず、要求基準を厳しくして受け入れ可能な端末が限定されたとしても致し方ないというわけだ。

もう1つは「メンテナンスの容易性」だ。JR東日本では過去2~3年ほどの間に主要駅の間で改札システムの入れ替えが行われ、ICカード専用のゲートが増えたことに気付いた人もいるだろう。切符を挿入可能な改札では機構が複雑になり、それに伴う故障の頻度やメンテナンスによるダウンタイムが増える。「利用者のICカード比率が増えた」という理由ももちろんあるが、コスト削減をにらんだ施策の1つともなる。

置き換えではなく、日本の要求仕様を世界標準にする

では、こうした日本の仕組みが特殊なものとして、例えばApple Payが日本にやってきたときに、ロンドンのTfLが公共交通で導入しているようなクレジットカードで乗車できる仕組みを導入できるよう、既存のFeliCaベースの仕組みを置き換えなければいけないのだろうか。あるいは少なくとも、Mifareや、実質的な世界標準となっているType-A/Bの仕組みに対応すべきなのだろうか。

実際、シンガポールでは2002年に導入された交通系カードの「EZ-Link」ではFeliCaベースの技術を採用していたが、後の2009年にカードの適用範囲を物販に拡大するとともにEZ-Linkに代わるカードとしてType-A/Bベースの「CEPAS」が導入され、旧EZ-Linkカードは回収されてCEPASへと交換されるようになっている。

別の方法としては、FeliCaベースの技術はそのままに、改札や物販でのレジを改修して、Type-A/B系の技術をベースとしたスマートフォン端末や非接触クレジットカードも受け入れることも考えられる。日本のユーザーには従来のICカードやおサイフケータイ対応のFeliCaチップ搭載端末を利用してもらい、主に海外のユーザーにはおサイフケータイを利用できないスマートフォンにSuicaアプリを導入したり、あるいは非接触クレジットカードを持ち込んでオープンループ決済を行ってもらうのだ。

ただ、これには現状で致命的な問題があり、例えば朝のラッシュ時などにSuicaの要求基準を満たさない端末が改札にやってきた時点で流れがストップしてしまい、ホームに人が溢れて危険な状態となる。こうした要求基準で難しいのは、必ず100%の端末が要求スペックを満たしていなければならない点だ。仮に95%の端末が基準をパスしていたとして、残り5%がやってきた時点で問題が発生してしまう。

現在、こうしたNFCの非接触通信技術の分野で最も熱いトピックの1つが「交通系システムでの世界標準の策定」となっている。2016年4月にNFC Forumからも公式アナウンスが行われているが、NFC Forum、GSMA、Smart Ticketing Alliance、CEN TC278といった業界の標準化団体が集まり、こうした公共交通での非接触通信での標準仕様を策定し、どの携帯端末を持ち込んでもサービスが利用できる仕組みを模索している。

これらは主に欧州系の標準化団体だが、このほかAPTA(American Public Transportation Association)という米国系の標準化団体のほか、日本からはJR東日本が標準策定に参加している。サイバネ規格のようなものこそあるが、日本では欧米と異なり実質的にこうした標準化団体が存在しないため、JR東日本が日本代表として加わっているようだ。この場では「なぜSuicaの要求基準が厳しいのか」も含め、海外に日本での事情や理由を説明して理解を求めているという。

世界での鉄道駅での乗降客数のトップ10をほぼ日本で独占していることからもわかるように、日本の単位時間あたりの乗客数は世界でも抜きんでている。もし仮に世界標準ということで欧米の基準を押しつけられた場合、日本ではほぼ機能しないことが明確だ。ゆえにJR東日本が国内代表として標準化に参加するという構図になっている。

目指すのは、世界の事情を鑑みた「最大公約数」的な標準ではなく、「ユーザー体験」を重視した各国の要求を最大限に満たす標準だという。その場合、「現状で市場に出回っているNFC対応端末が標準仕様を満たさない」可能性も高くなるが、将来的な合意に向けて仕様を模索中の段階だ。逆に、日本の「モバイルSuica」がそのままアプリを使って海外の交通機関を自由に乗りこなせるようになる日もそう遠くないかもしれない。

訪日外国人向けSuicaと今後

このように、当面は国内での交通系カードのFeliCa技術の置き換えが発生するようなこともなく、海外のFeliCaをサポートしない端末でのモバイルSuica提供もないだろう。一方で、2020年の東京オリンピック開催を目標に訪日外国人受け入れに向けた準備は着々と進んでおり、国内の鉄道事業者もまた対応を進めている。

東日本旅客鉄道(JR東日本) IT・Suica事業本部 部長 山田 肇氏によれば、現在同社では将来的なSuicaシステムの拡張に向けて3つの課題があると指摘する。1つは前述にあるようなNFC Forumなど外部の標準化団体との協業(ハーモナイズ)で、現在水面下で標準化が進められている。

課題の2つめは「Suicaの海外提供」で、どのように訪日外国人にうまく利用してもらうかという部分だ。現状で、交通系ICカードなしで鉄道など都市部での公共交通機関を使いこなすのは非常に難しいが、一方で空港の鉄道窓口ではICカード購入に行列を作らねばならず、こうした問題を解決する必要がある。そのため、海外に窓口を設置して訪日前にカードを販売する方法なども検討されている。また逆に帰国時にはICカードのデポジットを返金するニーズもあるが、やはり窓口が行列では厳しい。

そこでデポジットのない期間利用を想定した「トラベルカード」を発行したり、それに合わせて記念になるような「絵柄付きの専用カード」を用意したりといった工夫も検討されている。このほか、ICカードの再チャージでクレジットカードが利用できない問題もある。特に外国から持ち込まれる海外発行のカードが利用できない問題があるが、現状では手数料負担を巡って解決すべき部分が残っており、順次解決を目指していくようだ。

▲交通系ICカードさえあれば駅の自販機をすぐに利用できる。写真は最近増え始めたSuica専用自販機。価格が1円単位で設定されているのが特徴

3つめは課題とは少し異なるが、「Suicaで得られるデータを次のビジネス改善に役立てる」というものだ。1枚のSuicaを通じて訪日外国人の行動パターンを分析することで、どういった潜在ニーズがあるかの分析が可能となる。例えば、成田空港の行き帰りとも成田エクスプレス(NEX)を利用しているということがわかったので、あらかじめ往復利用での割り引き設定を行い、前述のような専用の絵柄を印刷した記念カードを発行するといった具合だ。

このほか、都内の主要な移動先として浅草、新宿、原宿、渋谷といった駅が利用されていることがわかったので、ここでの外国語での案内を重点的に整備することも検討されている。面白いところでは、なぜか「三鷹駅」での外国人の乗降数が多いというデータが判明したのだが、どうやら「ジブリ美術館」を目的にする人が多いのではないかということがデータ解析を通じて発見されたわけだ。

▲Suicaの物販における決済件数比率。駅外でのコンビニや自販機利用が多くを占めていることがわかる(出典:東日本旅客鉄道)

いずれにせよ、訪日外国人向けの「トラベルカード」としてSuicaなどの交通系ICカードを当面の間は活用してもらうことになるだろう。日本で交通系ICカードは乗り物が利用できるだけでなく、自動販売機やコンビニなど物販でも利用できる点が大きい。これもFeliCaベースのインフラが浸透しているおかげだ。

実際、Suica利用における物販の比率は日に日に大きくなってきており、特に駅外でのコンビニと自販機での利用が大きな比重を占めている。外国からの旅行客にはまず交通系ICカードを入手してもらって、国内の便利な非接触インフラを体験してもらいたいところだ。同時に、前回も触れたようにApple Payの国内参入にあたってまず最初に狙うべき市場はここであり、逆にここを押さえなければ日本参入の意味はあまりないとも考える。

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