「年越し派遣村」から10年。この国は、悲劇にすっかり慣れてしまったように感じる。
Yuichi Ogura via Getty Images

2018年もあとほんの少しで終わりだ。

前回の原稿では「#MeToo」関連のことを振り返ったわけだが、今回は2018年全体を振り返りたい。

まず思い出すのは、オウム真理教の一連の事件によって死刑が確定していた13人への刑の執行だ。地下鉄サリン事件から実に20年以上。さまざまな謎が残されたまま、「オウムとはなんだったのか」解明されないままに、強制的に幕が引かれたような後味の悪さ。こうして事件は忘れられていくことに、なんとも言えない違和感が募る。

そんな2018年は、「私に戦争体験を語ってくれた」人が亡くなった年でもあった。

2月に金子兜太さんが98歳で亡くなり、11月には赤木春恵さんが94歳で亡くなった。お二人に、私は『14歳からの戦争のリアル』という本でインタビューしている。金子兜太さんへのインタビューについては、連載で「金子兜太さんの訃報 24歳が体験した戦争」という原稿を書いている。

赤木春恵さんには、「女優が見た戦争」というタイトルで、本の最終章に登場してもらっている。10代後半から20代前半という、女性がもっとも「女の子」を謳歌する季節、赤木さんは女優だったものの時代は戦争の真っ只中。取材に答えて、彼女は言った。

「楽しいことなんてひとつもなかったですね。軍事教練から神社の清掃、陸軍病院への慰問、何をとっても青春時代で楽しかったことはひとつもないんです。青春そのものがなった。楽しいこと、何があっただろうと考えても、一言もお答えすることができないんです」

戦時中は「明日出撃する特攻隊」への慰問公演などをしていたという。しかし、空襲が激しくなり、終戦を迎える半年前に満州へ疎開。そこでも軍隊慰問の劇団に所属して女優を続けたが、満州で終戦を迎える。日本に引き揚げるまでの一年以上、赤木さんはソ連兵に怯えながら暮らし、襲われないよう、お婆さんに変装したことを語ってくれた。また、日本への引き揚げの道のりもあまりに過酷なものだった。

赤木さんのご自宅での取材は、2時間ほどに及んだと思う。取材の最後、赤木さんは言った。

「本当は、戦争の話は苦手なんですね。だから、家族にもあまり話したくないんです。なかなか思い出しても、言えることと言えないこと、言いたくもないこと、いっぱいありますのでね。

こうして取材して頂くと、夜になっていろいろ思い出して眠れなくなるんです。『ああ、こういうことがあった』『いや、こんなこともあった』って。でも、戦争体験者がもう少ないんですよね。特に8月になると、いろんなところから取材が来る。戦争の話は嫌だと言っても、そういう仕事がくるとまた引き受けてしまうんです」

淡々と語る赤木さんからは、「話しておかなければ」という覚悟のようなものをひしひしと感じた。取材の日から、約3年。あの戦争を経験した人がまた一人、この世からいなくなってしまった。94歳。戦争が終わって、73年も経ったのだ。

そんな18年で嬉しかったのは、シリアで拘束されていた安田純平さんが帰国したこと。一報を聞き、命が無事だとわかった時は飛び上がりたくなるほど嬉しかった。

そうして今年、じわじわと嬉しかったのは、韓国の大統領である文在寅氏が、私の『生きさせろ!』を読んでいると知ったこと。しかも「文在寅の書斎」という本で紹介してくれているのだ。なんと、12冊紹介しているうちの1冊目に。

文在寅氏の自伝『運命』の解説には、そのことについて、以下のように書かれている。

「ホームレスにもならず、過労死や自死に追い込まれることもない社会を求め、『ただ生きさせろ!』という若者の叫びは、『人が先だ』という彼の哲学および新自由主義批判と重なったのだろう」

私の本はこれまで韓国や台湾で翻訳出版されてきたのだが、もっとも多く翻訳されているのが、韓国。が、翻訳され出版されたと言っても、それが本当に韓国で読まれているのか、こっちとしてはまったくの未知数で、なんだかいつも実感がなかった。韓国から、翻訳されたハングル版の実物が届いても、「本当にこれが韓国の書店に並んでいるのか?」といつも半信半疑だったのだ。

もちろん、「あなたの本を読んだ」という韓国の人に会ったこともある。が、「この人はわざわざ日本にやって来て私のイベントに来るくらいだからものすごく特殊なのだろう」とどこかで思っていた。そういう人が研究者だったりすることもあったので、「一般の人には届いていないのでは」という疑念があった。しかし、文在寅大統領が紹介してくれたことによって、「届いているのだ」と、やっと思えたのだ。自分の本が、言葉が、他の国の人たちに読まれ、届いているということ。国が違っても、共感できる部分は多くあるということ。そのことが、なんだかしみじみと嬉しかったのだ。

そう思うと、自分の本が海外で出版されているなんて、本当に奇跡のようなことだと思う。なんて有難いことなんだろう、と思う。

なぜなら、心のどこかに、自分はいまだにフリーターのままでもおかしくないという思いがあるからだ。それが、様々な偶然や、機会を与えてくれる人たちとの出会いによって文筆業を名乗れるようになり、何十冊も本を出せるという幸運に恵まれた。その幸運を、私は自分の「才能」や「努力」によるものだとはまったく思っていない。チャンスさえあれば、機会さえ与えられれば、誰かに信じてもらえれば、人はなんだってできると思うからだ。少なくとも、私のしていることくらいは誰だってできると思う。

そんなふうに思うのは、チャンスも機会もまったくつかめずに何もできないまま歯噛みした時期が長かったからである。その時の私が努力していなかったわけではまったくないけれど、社会は私を使い捨て労働力としてしか必要としなかった。これがずっとずっと続いたら自分はどうなってしまうんだろう。常にそんな恐怖があった。

私は25歳で「脱フリーター」し、物書きとなったものの、周りを見渡せば、ずーっとフリーターなどの非正規のまま、機会もなく力を発揮するチャンスもなくアラフォーとなった同世代のロスジェネが少なくない。様々な才能や能力があり、特定の分野にものすごく詳しかったりトンデモない発想力の持ち主だったりするのに、それを生かす機会に恵まれない人々。そのことを思うたびに、暗澹たる気持ちに包まれる。

18年の終わりには、改正入管法が成立、外国人労働者受け入れ拡大に舵が切られた。この法改正には「拙速」という批判がある一方で、「雇用の調整弁として非正規で使い捨てられたロスジェネと同じような目に外国人があわされるのでは」という声もある。そう、外国人労働者の前に、国は自国民であるロスジェネの一部を見捨てるような仕打ちをしてきたのだ。今も、その層へ支援の手は差し伸べられていない。みんな存在を、そして苦境を知っているのに、「仕方なかったよね」「犠牲になったってわかってるけどどうにもならないよね」というような言葉で忘れられていくロスジェネ。そして今年も、「中年となってしまったロスジェネをなんとかしよう」という機運などはやはり、起こらなかった。だからこそ、私はこの問題にこだわっていきたい。

さて、今年一年を振り返ったが、10年前の年末は、「年越し派遣村」が開催されていた。08年9月にリーマンショックが起き、派遣切りの嵐が吹き荒れ、全国に失業者が溢れた08年末。年の瀬に寮を追い出される人々も続出し、日比谷公園で開催された「年越し派遣村」には500人以上が集まった。連日メディアはその様子を伝え、政治家が多く派遣村を訪れ、そうして全国から莫大な寄付金が集まった年末年始。多くの人が失業からそのまま路上に行ってしまう人々の姿に心を痛め、何か自分にできることはないかと派遣村を訪れる人も多くいた。

あれから、10年。この国は、そんな悲劇にすっかり慣れてしまったように感じる。

10年前のように失業者が一斉にホームレス化、という現象こそないものの、今も多くの人が失業などで住む場所を失い、途方に暮れている。しかし、この社会はいつからか、一部の人がホームレス化することを「仕方ないこと」と許容してしまっている。誰かを困窮に追い込むことに加担もしないけれど助けもしない。胸は痛むけれど、「そういう時代だ」と多くの人が思っている時、社会は弱者を見捨てることを正当化する。

そんな現実を見ていて思うのは、この10年で、この国の人々は以前よりも冷酷になったということだ。思考停止もうまくなった。どうにもならない事態を目の当たりにした時、人は思考停止するのだと、私はこの10年以上、貧困の現場から社会を見てきて痛感した。思考停止した上で、自分に都合のいいストーリーに置き換える。多くの人にとってもっとも都合がいいのはやはり「自己責任」という言葉だ。そうしてしまえば胸が痛むこともないし、自分が何かしてあげる必要もない。深く考えずに切り捨てられるので、より効率よく「心の安定」が得られるし何もしない自分も正当化される。そんな自己責任の「圧」はより強まった。

そしてこの10年で出てきたものとしてもっとも嫌なのは「貧困叩き」だ。メディアなどに登場する困窮した人々に対して、「お前は本当に正真正銘の貧困者なのか証明してみろ、それができないなら今すぐ黙れ」というようなバッシング。同時に社会から寛容さは消え、誰かを罰する資格など誰にもないはずなのに、常に誰かが誰かを断罪している。

10年前の派遣村の時、33歳だった私は43歳になった。同世代のロスジェネは「若者」という枠ではくくられなくなって久しい。

文在寅氏が読んだ『生きさせろ!』のサブタイトルは「難民化する若者たち」。しかし、当初は「外国人労働者化する若者たち」という案も自分の中にあった。が、今は、外国人が「ロスジェネ化」を懸念されている。

そんな18年の年の瀬、辺野古に土砂が投入されたニュースを前に、ただただ凍りついている。

2019年は、人々の声が無視され踏みにじられるようなことが決して起きない年になりますように。今はただ、祈ることしかできない。

(2018年12月26日 雨宮処凛がゆく!より転載)

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