人工知能(AI)は自意識を持つようになるのか?

機械には還元できない真実は厳然としてあるし、その意味での機械と人間の相違を深く探究していくことこそ、人間が人間であることの意味の再発見につながる。

▪2015年を代表するキーワードの一つ:テクノロジー

2015年がまもなく終わろうとしている。前回は、2015年がテロの年になってしまったことを取り上げてテーマとした。だが、2015年を代表するもう一つのキーワードを忘れるわけにはいかない。テクノロジーだ。

昨年のちょうど今頃、今後の世界は、テクノロジーが社会を今よりずっと強く牽引するようになる、いわゆる『テクノロジー・ドリブン』の時代となっていくことは明白で、それがはっきりと認識されるようになるのが2015年だと述べた。手前味噌ではないが、実際にその予測は当たったと言っていいのではないか。

『人工知能(AI)』という、少し前ならSFを思わせるような用語を誰もが普通に使うようになったし、自動運転車やドローン等も、連日メディアを賑わすようになった。それどころか、AIが指数関数的進化を遂げ、人間の脳を完全にシュミレートするばかりか、さらにそれを超えていくことで人間を超える超知能(自意識)を持つに至る時点、いわゆる『シンギュラリティ(=技術的特異点)』というような本来非常に特殊な用語さえ、堂々と一般のメディアに載るようになった。

▪自分の思うところを明らかに

私も第三世代のAIの進化に興味を持つようになってすぐに『シンギュラリティ』の真偽に関わる議論にも興味を持ち、様々な人々の意見に目を通してみるようになった。だが、さすがにこの問題を自分が突き詰めて熟考するのはまだもう少し先のことと高を括っていた。ところが、時代のスピードは自分の予想をはるかに上回っていて、そんな悠長なことは言っていられなくなってきた。人工知能について何がしか語ろうというなら、『シンギュラリティ』についても自分なりのスタンスを明白にするように求められるような場面に出くわすようになってきた。まあ、確かに潮時かもしれない。2015年末時点での私の思うところをここに明らかにしておこうと思う。

▪シンギュラリティ肯定派の信念

AIには『強いAI』と『弱いAI』という区別があるのはご存知だろうか。『強いAI』とは『人間の知能に迫まり、何らかの自意識を持つようになったAI』のことを言う(専門家によっては見解の相違もあるかもしれないが、ここではこのような定義を前提に話しを進める)。『シンギュラリティ』の議論の核心は『果たして強いAIは実現するのか』、言い換えれば、『AIは何らかの自意識を持つようになるのか』という問いに集約できる。『シンギュラリティ』肯定派は、『強いAI』が実現すると信じていることになる。だが、どうして近い将来(2045年頃)にそれが可能になると言えるのか。その根幹には、次のような信念がある。

『そもそも、人間の脳も電気信号と化学変化によって動いています。原理的に言って、コンピュータで再現できないわけがない』

これは、昨今の人工知能の話題の火付け役の一人と言える、東京大学の松尾准教授のインタビュー記事からの抜粋だ(但し、松尾准教授がシンギュラリティ肯定派とは言えないようだ)。

現段階では、日本の最高レベルのスーパーコンピュータである『京』であっても、人間の脳をすべてトレースできるだけの能力はない。だが、コンピュータの能力は今後とも指数関数的に増大していくことは期待できる。加えて、『ディープ・ラーニング』という人間の脳の仕組みを真似た機械の学習の方法によって、従来コンピューには不可能だった『人間のような』能力(画像から『猫』を認識する等)が習得され始めるに至って、人間の脳の仕組みを電気信号と化学変化のレベルで完全にトレースできるようになる近未来も、あながち夢想とも言えなくなった。

だから、『強いAI』実現肯定派は、魂や霊など脳とは別の仕組みでもない限り(そんなものは存在しないのだから)、脳の仕組みを完全にトレースできれば人間と同じく自意識が宿り、『強いAI』の実現は可能、と主張しているわけだ。

▪意識のハード・プロブレム

だが、本当にそうだろうか。AIが電気信号と化学変化のレベルで脳と同等となるからといって、人間同様の自我や自意識が宿ることが合理的に説明されているわけではない。『そうに違いない』との信念が表明されているに過ぎない。

オーストラリアの哲学者デイヴィド・チャーマーズは1994年に、著書『意識する心』*1で『意識のハード・プロブレム』という問題を提起した。物質および電気的/化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験(現象意識、クオリア)というものが生まれるのかという問いだ。当時『意識に関する大きな問題は、もう何も残されていない』と考えていた一部の神経科学者や認知科学者等、関連分野の研究者を批判して、彼らが『解けた』と考えているのは全て意識に関するやさしい問題ばかり(意識のイージー・プロブレム)とチャーマーズは主張した。

Wikipediaには、デモクリトス(古代ギリシャの哲学者)、ガリレオ・ガリレイ(物理学者)、アイザック・ニュートン(物理学者)、ジョン・ロック(哲学者)、エミール・デュ・ボア・レーモン(生理学者)、エルヴィン・シュレディンガー(理論物理学者)等、チャーマーズ以外にも、過去、同様の問題意識を吐露してきた、そうそうたる人物の名が並んでいる。

意識のハード・プロブレム - Wikipedia

一例として、シュレディンガーが著書『精神と物質』で語っている部位を引用する。

この最後の章で私は、かの著名なアブデラのデモクリトスの断片のなかで指摘された、まことに奇妙な事実について少し詳しく述べることにしましょう-奇妙な事実と申しますのは、日常生活で得た身のまわりの世界に関する知識も、実験室で苦心さんたんして行った実験によって提供された知識も、すべて直接の感覚に依存しているのですが、他方このような知識は、外界と知覚との関係を明らかにしてはおりませんので、自然科学の発見によってよたらされた外界に関する描像やモデルには、感覚的性質がまったくかけているということなのであります。

私の信じますところ、この主張の最初の部分は、あなた方すべてが容易にお認めになるでしょうが、あとの半分はおそらくそれほど多くの人が認めるものではないでしょう。その理由は単純なことです。科学者でない人は概して、科学に対して絶大な敬意を表するものなのでして、その「とてつもなく精巧な方法」によって科学者が、人類に不明なことがらや、これからさきにも明らかにできそうにないことがらまでも解明できると信じているからであります。

観察されたことがらは、常に感覚的な性質に依存しているものですから、理論はこのような感覚的性質を説明してくれると安易に考えてしまうのです。しかしながら、理論は決して感覚的性質を説明するものではありません。

2015年末の現時点でも、感覚的性質を説明する有効な理論は提示されていない。やはり物理的な『脳』で『意識のハード・プロブレム』を含む生命現象の全てを説明するのには無理があるのではないか。とすれば、脳と意識は別物なのだろうか。これは、デカルト以来の心身二元論*2を想起する論点だ。

この系譜にあって最も納得のいく議論を展開するのは(と私が考えるのは)、フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンだ。ベルクソンは、失語症の研究を通して脳の記憶の関係について探求し、1896年に発表した『物質と記憶』で『記憶は脳から独立して実在する』と述べている。(但し、ベルクソンもベルクソンを批判的に継承したモーリス・メルロ・ポインティも、独自の身体論を展開して、デカルト的な心身二元論は批判している。)

▪オカルトではない!

この種の議論を持ち出すと、すぐにオカルトとか宗教というような安易な批判が出がちだが、それは少々短絡的と言わざるを得ない。

たとえば、思想家の吉本隆明は、観念論や唯物論の対立を乗り越えるために、疎外論を用いた心身二元論を展開している。少々長いが、重要な論点が含まれているので引用する。

意識は身体がないと発生しないが、脳のような身体の部分部分には還元できない。生命体の身体は、機械のように要素や各部分に分解して、また組み立てなおすことはできない。分解したら死んでしまい、意識は消え、生命体ではなくなってしまうからである。要素性ではなく、身体的な全体性こそが生命現象や意識の本質なのである。よって、身体と精神は相対的に自立していると考えている。

霊魂や生命エネルギー(フロイトの概念でいうエス)は、デカルトの二元論のように大脳や松果腺のような部分や器官に集中して偏在しているのではなく、生物のすべての細胞にまんべんなく存在するものである。だから脳死しても他の器官が活動し続けると言う現象も起こるのであり、死とは瞬間的な現象ではなく、すべての細胞が死滅するまでの段階的な過程なのである。

意識と身体は、炎とロウソクの関係に似ている。ロウソク(燃える物)が存在しないと炎は生まれないが、炎という燃焼現象はロウソクには還元されない。よって、いくらロウソクを調べたところで炎という燃焼現象の本質は理解されない。炎はロウソクから疎外された現象なのである。

吉本は、すべての生命体を〈原生的疎外〉と呼び、自然から疎外されたものあるから、自然科学的には心的現象やエスは観察できないと述べている。エスや心的現象とはもともと物質ではないのである。しかし、自然科学的に観察できないからと言って、存在しないわけではないし、オカルト的なものでもない。文学や芸術が自然科学的に説明できないにもかかわらず、確実に存在するのと同じである。心身二元論を自然科学者が否定するのは当然であり、エスや心的現象はもともと自然科学的カテゴリーではないからである。物理的現象ではないために、因果的閉鎖性など最初から考える必要がないのである。

脳の動きが物理的な作用によらずに動き始めたら超能力だと言うが、生命とはもともとそういうものであり、無生物がなにも物理的な力を加えずに動き始めたら確かに超能力だが、生命体が自分の意思で自分自身の身体を動かす分にはなんの矛盾も問題もない。自分の意思で自分の身体を動かすことができるから生物なのである。

心的現象とは自然科学的に〈観察〉するのではなく、文学や芸術のように人文科学的に〈了解〉することによって始めて出現するのである。吉本は心的現象とは〈幻想〉であり、自然科学では取り扱えないために、幻想は幻想として取り扱わなくてはならないと指摘している。脳科学や神経学の発達で、知覚の問題は説明できるかもしれないが、人間の持つ感想、解釈、意味付与、価値観、審美眼の問題は説明できないのと同じである。

▪奇妙な科学:量子物理学

思想家の言説は『科学』とは言えず、オカルトと大差ない、との声も聞こえてきそうだ。だが、『自然科学的に観察できないからと言って、存在しないわけではない』と述べる吉本から私が一番初めに連想してしまうのは、量子物理学だ。量子物理学者は私達の一般常識では、まったく理解不能ともいえる、極微の世界の量子の非常に奇妙な振る舞いについて述べる。例えばその一つが『観測問題』と言われる問題だ。

量子は、観測されるまでは何処にいるのか解らないが、一旦観測されれば物質として実体化するという。すなわち、事象は誰かの観測や認識によって状態がはじめて決まるものであり、観測や認識をしていないときには何も決まっていない。どの現象も観測されるまでは実在の現象ではないとすると、極論すれば『誰も見ていない時には月は存在していない』ということにさえなる。

さらにもっと奇妙な現象/理論に『量子のもつれ』、『量子の非局在性』がある。『量子は、時間も空間も越えて繋がりあっている』という。量子は何万光年離れていようと、片割れが変化するとその情報が瞬時に伝わる。片割れを観測したら、その状態が決定され、空間的に遠く離れた片割れの状態も同時に決定される。時間も越えるなら、何万年前の過去の振る舞いが現在の観測によって事後的に決定されるということになる。

オカルトというなら、こちらのほうがよほどオカルト的だろう。だが、れっきとした最新の科学理論(仮説)だ。

現代思想2015年12月号*3で、情報学者の西垣通は次のように語る。

なるほど、人間の身体は高分子タンパク質でできているし、脳の中で起きているのは単なる科学作用で、別に神秘的なものではないだろう。だが、だからといって、そこに謎が無いとは言えない。たとえ宇宙の万象が量子力学の方程式に従っているとしても、解明されず予測できない自然現象は限りなくある。とりわけ、生命現象は分からないことだらけだ。その点が、人間の設計した機械とは全く異なるのである。

▪当面自意識が生じるのは難しそう

量子と言えば、ケンブリッジ大学の物理学者・数学者ロジャー・ペンローズとアリゾナ大学の麻酔研究家医のスチュワート・ハメロフは、意識は何らかの量子過程から生じてくると推測していると述べている(量子脳理論)。また、『量子力学で生命の謎を解く』*4の著者、ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデンは、生命の秘密は量子の世界に隠されていると説く。

ここでは立ち入って説明する余裕はないが、私は、意識を含む生命現象の謎も解明が進む可能性は否定できないと思うし、その解明が進んだ暁には、あらためて『強いAI』ができる可能性も否定はしない。ただ、現段階の『シンギュラリティ』や『強いAI』の出現を語るのが物理的な脳がすべてとする脳一元論者ばかりだとすると、2045年の『シンギュラリティ』で自意識が生じるのは難しそうだし、時期尚早と言って差し支えないのではないか。

▪人間と区別できないAIは近いうちに実現する

ただ、私自身は急激なAIの進化を過小評価するわけではなく、人間のような意識が生じることはなくとも、ほとんど人間と見紛うような、人間の意識や感情等を相当なレベルまでシュミレートしたAIは確実にできてくると考える。そのAIが怪物的に振る舞うこともあり得るし、その場合には、物理学者のスティーヴン・ホーキングらが危惧するように、AIが人類を滅亡の淵に追い込むような存在になる可能性もあるだろう。逆に、慈愛に満ちた神のようなAIができる可能性もある。そういう意味では、巷間議論されている類のAIの議論にもリアリティは十分あると考えている。

また、現状の機械論的な脳一元論者における人間観は、AIが自意識を持つに至るかどうかを議論する以前に、やはり問題含みと言わざるをえない。生命を知覚や反射のレベルでしか解釈できないのであれば、吉本の言う人間の心的現象(感情、価値観、審美眼等)の真価は理解できないだろう。文学や思想など真面目に相手にするのも馬鹿らしいと思うだろう(まさに今の日本がそうだ)。

だが、機械には還元できない真実は厳然としてあるし、その意味での機械と人間の相違を深く探究していくことこそ、人間が人間であることの意味の再発見につながると私は確信している。現状の人間の仕事のほとんどをAI / ロボットが代替するであろう近未来であればこそ、その価値はいやがうえにも上がっていくはずだ。

*2:心身二元論とは、心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、この世界には物と心という本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方。ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、つまりは脳が無くとも心はあるとする考え方を表す。

(2015年12月23日「風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る」より転載)

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