『Badi』編集部かく闘えり。惜しまれつつ25年の歴史を閉じたゲイ雑誌

ゲイシーンを牽引してきた雑誌『Badi』はどう闘ってきたのか。“最後の編集長”、村上ひろしさんに話を聞いた。

2019年1月、惜しまれながら休刊となったゲイ雑誌『Badi』。

雑誌『Badi』最終号
雑誌『Badi』最終号
JUN TSUBOIKE

1993年に創刊した同誌は、当時の代表的なゲイ雑誌『薔薇族』を部数で抜き去り、その後のゲイシーンを牽引してきた。

「僕らのハッピー・ゲイライフ」というキャッチコピーを掲げ、ゲイのライフスタイルに大きな影響を与えた同誌だけに25年間の歴史には、多くの物語が生まれた。

初期からスーパーバイザーを務め同誌の立役者となった元編集長の小倉東さんや、長く連載していた漫画家の田亀源五郎さんのほか、同誌編集部が輩出したマツコ・デラックスさんやブルボンヌさんのような著名人も活躍している。

出版業界の斜陽化が進み、インターネットやSNSの普及によって雑誌というメディアの存在価値が本格的に問われはじめて以降、ゲイ雑誌『Badi』はどう闘ってきたのか。実際に現場を見つめてきた“最後の編集長”、村上ひろしさんに話を聞いた。

JUN TSUBOIKE

2019年「ゲイコミュニティの未来へ」

——25周年記念号となる2019年1月号は「ゲイコミュニティの未来へ」と題して多くの人のインタビューを載せていましたね。

普段よりページも増やして、手のかかるインタビュー記事を何本も入れたので進行は本当に大変でした。

——マツコ・デラックスさんや小倉東さんやといった『Badi』の編集に携わっていた人をはじめ、ライバル誌だった『薔薇族』元編集長の伊藤文學さん、『G-men』元編集長の長谷川博史さんも登場。今まで表に出てこなかったオーナーさんが登場したことも話題になりました。まさに渾身の一冊だったと思いますが、この時点ですでに休刊は決まっていたのでしょうか?

この時点ではまだ決定はしていません。

ただ、数年前から休刊について考えていましたし、編集部内では半年ほど前から相談もしていました。ですから思い入れを込めて作ったことは確かです。読んだ人から、「まるでもう雑誌が終わっちゃうみたいな特集だね」といわれましたね。

地方の本屋で見つけた『Badi』に憧れて上京

JUN TSUBOIKE

——そもそも、村上さんはどのような経緯で『Badi』編集部に入ったんですか?

僕は地方の出身なんですけど、上京したのは『Badi』に入りたかったからなんですよ。中学の頃に田舎の本屋でゲイ雑誌を見つけて、じつは……今だから告白しますけど、モラルとして良くないことをしました……。買うのが恥ずかしかったから。

でも半年くらいしたら監視カメラが付けられて、このままだと捕まると思ったし、本屋さんに申し訳ないことをしていたと気づいてやめました。

自分がゲイであることは受け入れていたけど、それが世の中に受け入れられないだろうということは薄々感じていました。

——1983年には『薔薇族』を万引きしたのを店員に見咎められた高校生が、書店のビルから身を投げて自死する事件も起きています。スーパーバイザーの小倉東さんは「子どもの頃に『薔薇族』を万引きしたことがあって、『Badi』は万引きしなきゃいけないような後ろ暗い雰囲気じゃない雑誌にしたかった」と語ってらっしゃいました。

まあ結局、僕は良くない方法で手に入れて読んでいたんですけどね。でも当時はまだ『薔薇族』や『さぶ』もあって、その中ではやっぱり『Badi』が面白かった。

それで、この編集部に入ったら楽しいだろうな、ゲイライフを満喫できるだろうなと思ったんです。ゲイバーとかゲイのクラブに1人で行く勇気はないけど、仕事だったら行けるな、みたいな(笑)。

『Badi』への思い入れは強かったです。じつは入社後に2回、編集部を辞めてまた復帰してるんです。そのうち1度はオーストラリアへの語学留学を決めていて、渡豪の3日前に「戻ってきて編集長をやってくれないか」って言われたんですよ。留学費用も払い込み済みだったからさすがに悩みました。

お世話になっている方に相談したら「語学留学はいつでも出来るけど、編集長になるチャンスはなかなかないよ」って言われて。大きな決断をして編集長になったこともあって、『Badi』のためだったらなんでもやろうっていうつもりで働いてきました。

デザイナーとしての感性でこだわったビジュアル

JUN TSUBOIKE

——2006年に入社されて2011年からは編集長を務めてらっしゃいますね。編集長になってからは、どんな方針で誌面作りをされていましたか?

もともと僕はデザイをやりたくて入社したので、アートディレクションにはこだわりがあっていろいろ変えました。

たとえば表紙をマットな印刷にしたり、紙質をインクの乗りがいいザラザラしたものに変えたり。そういうところにこだわりたい性分なんです。

内容的には、今のゲイがどんなことを考えているのかをビジュアルで見せたいと思いました。そのためにカメラマンもかなり入れ替えています。

商業誌らしい誌面にしたかったんです。自分がデザイナーなのでまずビジュアルから入るんですよ。僕自身が、どんなに内容が良くてもデザインが良くなければ読まないというタイプなので。

一人ひとりが責任者になったことで生まれた変化

担当者が好きなように悩みながらもやり続けた結果、2年くらいの歳月を経てTwitterでトレンド入りするなど各ニュースサイトなどで話題に。
担当者が好きなように悩みながらもやり続けた結果、2年くらいの歳月を経てTwitterでトレンド入りするなど各ニュースサイトなどで話題に。
JUN TSUBOIKE

――他に、どんな工夫をしたのでしょうか?

編集体制も変えました。雑誌というのはカメラマンがいて、デザイナーがいて編集がいてと、多くの人が関わって出来上がるものです。自分1人では作れない。

でも、僕には編集長としてみんなの意見をまとめる力がないと思ったんです。それで僕がみんなに言ったのは、「それぞれの担当スタッフが責任者としてやりたいようにやってください」ということでした。

以前は、ひとつの企画について2、3人で会議をして動いていたのですが、スタッフが少なくなってそれが出来なくなったこともあります。アダルトページを作る人、ライフページを作る人、特集を作る人、インタビューをする人と、各担当がその人の責任で動く体制にしました。

——一時期からの『Badi』は表紙のコピーがかなりユニークになったと話題になりました。これもそういった体制の中で出てきたことなんですね。

あれはアダルトページの担当者に「もう自由にやれば」って言った結果なんです。それまで表紙にいろいろな制約を設けていました。書店で買いやすくするために、表紙では脱がない、過激な文章は載せない、というように。でも、もう、そういうことより楽しさを優先させていい時代かなと思ったんです。

作り手としては、『Badi』はバラエティ雑誌でありたいと思っていました。LGBTムーブメントでゲイが可視化されるなかで、当たり前な存在になってきた。

そうするとゲイであっても何か情報が欲しい時に、特にゲイ雑誌じゃなくてもいいんじゃないかと思えてくる。ファッションの情報を知りたければゲイ雑誌のファッションページを読むのではなく、ファッション誌を買えばいい。

ゲイ雑誌の意味を考えたときに、「正直、なくていいよね」と思えてしまう。そういうなかで、『Badi』じゃなければ出来ないことは何かと考えて、「ゲイが読んで楽しいことをまとめたバラエティ誌」というスタンスを意識したんです。

大きな変革の第一歩となった大判化

JUN TSUBOIKE

——アダルト誌はネットに需要を奪われて軒並み苦戦していますが、『Badi』は初期の頃から「僕らのハッピー・ゲイライフ」などのキャッチを掲げて、ライフスタイル誌の側面を打ち出していました。休刊ではなく、更にライフスタイル誌に寄せていく選択肢もあったように思います。

それは考えましたし、ライフスタイル誌に寄せていく方向性は以前からありました。たとえば判型を変えたのもそうです。創刊当初は(一回り小さい)A5判で、いかにもアダルト誌という体裁でした。

昔のゲイ雑誌は一般の書店で平積みされることがなかったので、判型の大きさより、背表紙に厚みがあることのほうが大事でした。その方が棚に差さっている時に目立ちますから。

ですから、2009年にB4判へと大判化し一般誌としてのイメージを打ち出したことは大きな変革でした。(会社の)オーナーは古くからゲイ業界にいる人でもあり、当初この変更に大反対だったんです。

最終的には現場で編集している者の声を尊重するということで納得してくれました。この後、オーナーは現場から少し距離を取って編集部を見守るスタンスになり、編集者もかなり入れ替わったために誌面刷新が進むことになります。

とはいえ、読者アンケートを見ると、やはりアダルトページがあっての『Badi』であることも確かなんです。ただ、アダルトDVDの紹介ページはそれも含めてライフスタイルと読者に受け止められているように思います。


ゲイがオープンになっていく時代

——時代の変化という面では、『Badi』に携わってきたなかで、肌感覚としてどのようなことを感じられましたか?

取材をしていると、昔は「カミングアウトしてないので顔出しはNG」っていう人が多かったんですが、最近は、「顔出し自体はいいけどSNSで拡散されるから嫌だ」っていう人が多くなりました。

ゲイであることをオープンにしている人は増えましたね。カミングアウトについて質問すると「そんな質問してどうするんですか?」って逆に聞かれることもありました。「え、普通じゃないの?」って。そういう時には、自分たちも歳を取ったなあと感じました(笑)。

それは休刊にいたった理由のひとつでもあります。新しいスタッフを募集してもなかなか集まらないし、自分たちは若い世代の感覚とちょっとズレてきている。がんばって続けていくのも限界があるな、と。

数年前から、終わるタイミングを見極めてる部分はありました。

——スタッフが減ったとおっしゃっていましたが、募集しても応募がないんですか?

若い人が入ってきてもすぐに辞めてしまうんです。これは新しい働きかたが広まったということもあると思います。自分が入った頃には(編集部の人数は)20数人だったのが、最後は5人でした。

一番、大きい変化は、これは悲しいことですけど若いゲイの子と話している時に「『Badi』って何?」って言われることが多くなったことですね。

——『Badi』を知らないゲイ当事者がいるのは、確かに大きな変化かもしれません。昔は、情報が少なかったからゲイ雑誌に頼る部分が大きかった。

情報の入手先が増えてゲイ雑誌がいらなくなってきたということは、全体から見ればいい流れだとは思うんですよ。ただ、ずっと読んできてくれている読者もいるわけです。そういう人たちはすでに50代、60代なんですね。

その世代がネットを使わないわけではないんですけど、やっぱり紙にこだわりがあります。紙に印刷された情報のほうが安心するみたいな。

その世代に合わせた誌面で続けて行くこともできたかもしれませんが、やはり限界がある。限界が来るものにこだわるよりは、ここで一度、リセットして新しい可能性のために努力したほうがいいと判断したわけです。

『Badi』がなくなると困るという年代の人も含めて、みんなで一緒に新しいことに挑戦しようよ、と。25年間続いた雑誌だからこそカッコ良く終わらせたいという気持ちもありました。

変化を嘆くより新しい物を作りたい

——『Badi』編集長として、ゲイ・コミュニティの変化を見つめてきたわけですが、これからどうなっていくと思いますか?

LGBTが当たり前になることで、ゲイ・コミュニティも変わっていくでしょうね。ゲイタウンである新宿2丁目は、ストレートの人たちも訪れるようになったりと、現に変わってきています。

それは古くからのゲイ・カルチャーに親しんでいる人には淋しいことなのかもしれない。自分も新宿2丁目という街に育てられたようなところがあるので愛着もあります。

でも、LGBTが当たり前の存在になっていくなかで変化するのは仕方ないことだと思うんです。嘆いているよりは新しい発想で新しい物を作るほうがいい。

僕自身が『Badi』に救われたという思いもありますが、『Badi』を必要としない時代をこれから作っていくことが大事なんじゃないでしょうか。

(取材・文:宇田川しい、写真:坪池順、編集:笹川かおり)

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