仏像を「革新」した天才仏師「運慶」の生涯--フォーサイト編集部

運慶の史上最大となる展覧会が、東京国立博物館で開催されている。

隆々と盛り上がる筋肉、翻る天衣(てんね)、1点を見つめる潤んだような瞳――。

平安から鎌倉に移行する動乱の時代、写実的で力強い仏像を生み出した「運慶」。

平家の焼き討ちで灰燼に帰した興福寺(奈良)や東大寺(同)の復興を手掛け、貴族のみならず、新たに台頭した東国武士の依頼を受けて、従来とはまったく異なる独自の作風を打ち立てた希代の天才仏師である。

その運慶の史上最大となる展覧会が、東京国立博物館で開催されている。

人々の心をとらえて離さない運慶仏の魅力について、東京国立博物館絵画・彫刻室主任研究員で、今展覧会のワーキンググループの1人として「運慶展」にかかわった皿井舞さんに聞いた。

■肉体を「リアル」に

運慶(1150頃~1223年)は、数多い仏師のなかでも知名度では圧倒的です。誰でも一度は教科書の「鎌倉文化」で堂々たる体躯の東大寺南大門の金剛力士立像(仁王像)とともに、その名を目にしたことがあるはずです。しかも創造性が豊かで、ビジュアル的にも迫真性があり、人々の心をくすぐる。直前の平安時代は、起伏の少ないなだらかで穏やかなスタイルの仏像が主流だった中で、鎌倉という新たな時代を迎え、運慶はまったく異なる価値観を突きつけました。激動の世を生き抜いた1人の人間としても、魅力的な個性を確立していたのです。

父で師でもある康慶(こうけい、生没年不詳)や長男の湛慶(たんけい、1173~1256年)をはじめとする息子たち、兄弟弟子の快慶(生没年不詳)など、いずれも名を遺した素晴らしい仏師が同時代に活躍していましたが、やはり運慶の存在は抜きん出ています。

まずは父の康慶ですが、彼も革新的な仏師であったことは確かです。平安時代は、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像の作者・定朝(じょうちょう、生年不明~1057年)の流れを汲んだ「定朝様(よう)」と呼ばれる仏像表現のスタイルが確立されていました。康慶はこの定朝から3つに分かれた仏師集団の1つ「奈良仏師」に属していました。彼らは「南都」(現在の奈良)の興福寺を拠点にしており、康慶の「革新性」はこの集団が母体。彼のオリジナルではありませんが、それを受け継ぎ、発展させていったのです。

今展覧会にも出品されている瑞林寺(静岡)所蔵の地蔵菩薩坐像、興福寺南円堂(奈良)に安置されていた法相六祖(ほっそうろくそ)坐像などは、表情や着衣の表現に写実性があり、平安時代の後期にあっては目新しい作風でした。運慶も父のこうした形を真似、仏像の型ではぴったり重なるものもあります。ただ康慶の作品は、組んだ足のふくらはぎ部分が落ち窪んでいたり、腹部が薄かったり、人間が座った際の肉体の膨らみを再現し切れていないところがある。運慶は肉体を「写実的」に表すことにかけては、卓抜した技術を持っていました。運慶20代のデビュー作、円城寺の大日如来坐像は、組んだ足にかかる衣の襞(ひだ)が「U」の字を何本も重ねたようになっていて、平安時代風の図式的なところを払拭しきれていない部分はあります。しかし、張った胸、腰を引き締めた側面、智拳印(ちけんいん)を結んだ指と指、腕と胸の間の絶妙な彫刻空間などはゆったりとしながらも緊張感のある形を実現し、これまでに好まれてきた仏像の作風とは一線を画していて、次につながるものを予感させます。康慶の地蔵菩薩坐像はこの1年後に作られているので、この頃にはすでに父親と変わらない力量を持っていたことがわかる。仏像を作るには、絵から形を決めるものですが、2次元を3次元にするための、運慶の「人体把握能力」は相当なものだったと思います。

■工房の棟梁に

1196~7年頃に康慶が亡くなると、長男である運慶が「康慶工房」の後継者となります。工房の棟梁として、仏師集団を率いるわけですけれども、いわば「プロデューサー」的な役割を担い、運慶が主体になって大きな仏像なども仕上げていきました。先述した東大寺南大門にある金剛力士立像(阿形・吽形)は、運慶が棟梁となって初めての大事業だと言われています。

この仁王像2体は、1988(昭和63)年から5年の歳月をかけて修理されました。それまで、筋肉表現が吽形よりも控えめで全体的なバランスがとれた絵画的な阿形像を快慶が、吽形像は立体表現の仕方が的確で迫真性があるので運慶が直接手掛けたのではないかと言われていました。

それが修理後、阿形像の金剛杵内から「運慶」「アン(梵字)阿弥陀仏(快慶のこと)」と書かれた墨書が見つかり、一方の吽形像の体内に残されていた経典には「定覚(じょうかく、生没年不詳、運慶の弟と見られる)」「湛慶」の名前が書かれていたのです。これは担当仏師の名を示したものではありますが、最終的には2体とも運慶が棟梁として仕上げたことには間違いがないため、「運慶作」とされています。研究者の中には、快慶の作り上げる仏様は美麗なものが多いので、「阿形像はベテランだった快慶に任せて、運慶自身は定覚と湛慶が担当していた吽形像により力を入れたのでは」、と言う人もいます。

快慶の作は確かに慶派らしいリアリティを持っていますが、肉体美を強調するというよりは、どちらかといえばシンメトリィに仕上げていく方向の作家。彼が追求した仏の姿は「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれ、江戸時代まで仏師たちに影響を及ぼしました。鎌倉彫刻史において、運慶と並び称される快慶は、「運慶快慶」とセットで覚えている方も多いのではないでしょうか。それでも、康慶の後継者はあくまでも嫡子である運慶。快慶は有力弟子筋の1人にすぎませんでした。ですから、その後も運慶工房は長男の湛慶が継いでいきますが、湛慶は東国とのつながりはなく、また快慶と造像することが多かったためか、重厚な運慶の作風よりも洗練された快慶の作風に近い。高山寺(京都)の子犬や神鹿には、写実性が高く洗練された技術を持つ湛慶の個性を見ることができます。

■「迫真性」「リアリズム」「構想力」

運慶作品の顕著な特徴は、「迫真性」「リアリズム」「構想力」の3つです。奈良時代の仏像も写実的だと言われるのですが、運慶は単なる写実とは異なって「実在感をどう実現するか」という意味でのリアリズムを追求していました。肉体をありのままに再現するのは「写実」ですが、運慶の場合、実は造形として不自然な部分はあるけれども、見ている人にとって非常にリアルに感じられるような造像をしています。

例えば、先ほどの仁王像ですが、修理の際に乳首とへその位置を当初よりも下にずらしていたことがわかりました。これは8メートル以上の巨大な像を立たせたときに、下から見上げるとどう見えるのかに重きをおいたためです。

興福寺の無著(むじゃく)菩薩立像、世親(せしん)菩薩立像は、2メートル近い大きさで、体にも厚みを持たせている「巨像」です。5世紀、北インドに実在した学僧をありのままに再現しているわけではないのですが、お堂で見ると、本当にそこに人がたたずんでいるようなリアルさを感じさせるのです。運慶は、像が置かれる場所までも考慮に入れ、空間的に場を捉えようとしていたのではないでしょうか。

運慶は熱心な仏教徒でもありました。宗教者としての顔なのか彫刻を突き詰めるうえでのことなのか、先人の仏師らの作品をよく勉強していたようです。

その運慶の作風が劇的に変わるのは、東国武士の依頼を受け、願成就院(静岡)と浄楽寺(神奈川)の作品を手掛けてからです。一気にボリューム感あふれるものになりました。平安時代の仏像の形を完全に払拭し、古典に学びつつ、それを昇華してクリエイティブに見せています。学んだものをそのままではなく、それを昇華して、自分の個性を打ち出していく。現代のアーティストにも通じるその創造力、構成力はさすがです。

■東国武士の依頼で個性を発揮

運慶はよく武士の精神にマッチしたものを作ったと言われていますが、本当にそうなのだろうかと疑問に思うところもあります。

「奈良仏師」という他にはない作風を作り出していた集団があり、さらに父親の康慶と東国武士は以前からつながりがあって、たまたま依頼主と受注側の好みが合致したということもあるでしょう。もしくは、東国武士が当時京都で活躍していた円派、院派と言われる仏師集団にはなかなか依頼しづらかったという状況もあったかもしれません。様々な要因が絡みあい、運慶の作品は鎌倉幕府、東国武士にかかわる造像が大きな比重を占めることになりました。

でも、貴族ではない新興勢力の武士に依頼されたからこそ、より大胆に躍動感あふれる個性を発揮できたのだと思います。特に北条時政の発願で作られた願成就院の5体のうち毘沙門天立像には伝統の形式を振り払ったかのような勢いが感じられます。戟(げき)を持つ右手は、これまで頭より高い位置か腰のあたりに配されるものでしたが、この毘沙門像では肩と同じ高さで、肘を横に張り出し、腰は左にぐっとひねりを入れている。引き締まった体つきと精悍な顔つきにも力がみなぎっています。この形が武士に好まれたのか、この後、様々なところで頻出するようになります。

■一瞬の動きを再現

運慶の作風ということで言えば、先ほど述べた「迫真性」「リアリズム」「構想力」は、生涯に通底しています。それは変わらないのですが、初期は先人たちの作風を継承しながらも模索しており、東国にかかわって以降の成熟期には古典を踏まえてそれを昇華し、自分の作風を打ち出しました。さらにそれを洗練したのが晩年期になります。

初期の代表作は、やはり最初に手掛けた大日如来坐像でしょう。通常、1メートル程度の像では工期は3カ月ほどですが、これは11カ月と3倍以上の時間をかけています。そのぶん完成度が高くなるのは当然ですが、20代そこそこでここまでの作品を、という衝撃がありました。

前述した毘沙門天立像と金剛峯寺(和歌山)の八大童子立像は東国以降、運慶が自らの作風を打ち立てた後の作品で、3つのキーワードに非常に合致しています。八大童子は壮年期の運慶が制作したもので、まるで写真に収めたかのように、斜め下を見る童子たちの一瞬の動きが再現されています。人間の目を再現した玉眼、張りのある肉づき、天衣の自然な動きなど、人間の童子が生きているような「実在感」をもたらしているのです。

童子は不動明王の眷属ですが、経典にある童子の性格に合わせて各像を配置すると、体や顔の向きや視線が、不動明王を礼拝する行者に向けられていることがわかりました。経典を深く理解したうえで、八大童子像を群像として仕上げており、彼の構成力がいかんなく発揮されています。

晩年の作は何と言っても、無著菩薩立像、世親菩薩立像。体躯の大きさと厚みだけではなく、大ぶりな襞が刻まれる衣にも重厚感を持たせ、インドの学僧兄弟である無著と世親の精神性の深さまでも表した運慶渾身の傑作です。今回、出展はかないませんでしたが、興福寺でこの両像の間に安置されているご本尊の弥勒如来坐像も、如来という究極の存在をどう表現するか、運慶が突き詰めた作だと思います。願成就院の阿弥陀如来坐像と比較すればおとなしいと感じるかもしれませんが、そこには人間とは別次元で佇む救世主の如来の姿を見ることができる。歳を経て、様々な経験を積んできた運慶だからこその作品と言えます。

■発見された最晩年の作品

運慶の調査・研究はかなり進んでおり、ここ15年の間にも3件の運慶作品が発見されています。

1つは、興福寺西金堂に伝来した釈迦如来像の頭部である仏頭です。残念ながら、江戸時代の大火で頭部のみの姿になってしまいました。これまで仏頭は、同じ年に制作された願成就院の阿弥陀如来坐像との作風とは異なっていたので、定朝の直系に当たる成朝(せいちょう、生没年不詳)の作品だとする説が強かったのです。しかし、興福寺の僧の日記を編纂した『類聚世要抄(るいじゅせようしょう)』という史料に、「文治二年正月二十八日」に運慶が大仏師として完成した像の堂内安置にかかわっていたと明記されていたことが、2007年に発見されました。文献史学に基づいた研究の成果ですね。

余談ですが、この発見によって、現存する成朝作品が1つもなくなってしまいました。運慶の活躍ぶりの陰に隠れ、成朝はこれ以降ぷっつりと姿を見せなくなります。研究者の中には、康慶は運慶に工房を継がせて大きな仕事をさせたかったから、定朝直系の成朝が邪魔で暗殺したのでは、と冗談で言う人までいます。もちろん小説のような話で想像を膨らませているだけですが、大きな才能の陰にならざるを得なかった成朝がかわいそうな気もします。

2つ目は、光明院(神奈川)の大威徳明王坐像。2006年の修理の際、像内に大威徳明王の真言・陀羅尼などが書き写された紙が見つかり、その紙の奥書に、運慶によって造像されたことなど詳細が記されていました。先の無箸、世親、弥勒仏よりも後の1216(建保4)年に制作され、発願者が源頼家、実朝の乳母・大弐局(だいにのつぼね)でした。運慶は晩年、鎌倉将軍家の造像を盛んに行っていたことが、文献史料から知られていましたが、その実作例が現れたことになり、その意味でも非常に重要な作品です。

■『十二神将像』も運慶?

最後は、13年前に初めてその存在が知られた真如苑真澄寺(東京)の大日如来坐像です。北関東で伝わってきたと言われていますが、伝来は不明。もともとは個人の方がご所蔵になっていて、研究者に調査を依頼され、その際のX線撮影で、金属製の蓮華が付いた水晶と水晶製の舎利塔、五輪塔をかたどった木札(もくさつ)が体内に納入されていると確認できました。蓮華付きの水晶は密教で言う心月輪(しんがちりん)で、仏の魂のようなものと考えていただいてかまいません。この3つの組み合わせは、やはり運慶作と言われる光得寺(栃木)の大日如来坐像と共通しており、髻(もとどり。まげを頭長で束ねたところ)や顔つき、体つきといった外見も運慶風であるため、「運慶作」とされています。

さらに、「おしい!」と言われたのが、今回42年ぶりに勢ぞろいで公開された十二神将立像(東京・静嘉堂文庫美術館、東京国立博物館蔵)です。明治期に修理された12体のどれかに運慶作だとする銘文が入っていたという新聞報道があったとする論文が5年前に発表され、その翌年から静嘉堂文庫美術館が所蔵する7体が修理され始めたので、研究者たちはいつその銘文が出てくるのか、固唾をのんで待っていました。しかし、1体また1体と修理が終わっても何も出ず、ようやく最後の亥神(がいしん)像の頭部から「1228(安貞2)年」と書かれた墨書が見つかりました。残念なことに運慶はその5年前に亡くなっているので、運慶真作とはならなかったのです。激しい動きをしている筋肉の表現がリアルで、慶派の作品で間違いないと研究者の誰もが思っていたことではありますが、運慶作というのには力量が足りないと見る人も多くいました。ただ、当館所蔵の5体はまだ修理していませんから、もしかしたらということがあるかもしれません。

■「背面」にも才能を発揮

「運慶展」はこれまでも切り口を変えて数多く行われてきましたが、今回は慶派の中でも康慶以降の直系に絞って、その作風をたどっています。また展覧会名を「運慶」と銘打っている通り、一般的に運慶作と判断される31体のうち22体が出陳されており、まさしく「史上最大」の展覧会と言えるでしょう。中には、寺外初公開となる聖観音菩薩立像(愛知・瀧山寺)や、42年ぶりに5体そろって寺外に出る浄楽寺(神奈川)の阿弥陀如来坐像および両脇侍立像、不動明王立像、毘沙門天立像など、なかなかまとめて見られる機会のない仏像もあります。

また、像を360度から見ることができるよう展示に工夫をしています。運慶の仏像は背面から見ても、背骨と背筋のくびれまで表しており、2Dから3Dにできる才能が、側面にも背面にも手を抜くことなく発揮されているのがわかるでしょう。

ただ、美術館や博物館に展示されると、常置されている寺院とは違って様々な角度から自由に見ることができる反面、仏像は宗教的な環境とは切り離されてしまいます。運慶は仏教をよく理解し、寺の空間そのものも考慮に入れた造像をしていますので、それぞれのお寺にも足を運んで拝んでいただけると、より深い味わいを得られると思います。

興福寺中金堂再建記念特別展

運慶

会期:11月26日(日)まで

会場:東京国立博物館 平成館

休館日:月曜日

開館時間:9:30~17:00

※金曜・土曜および11月2日(木)は21:00まで開館

※入館は閉館の30分前まで

フォーサイト編集部

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(2017年10月15日フォーサイトより転載)

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