LIFE

ぼくはずっと孤独感を抱えていた。聴こえない親を持つ「CODA」のふたりが語り合ったこと

大人になったぼくは、同じ境遇に生まれ育った「CODA」に会ってみたいと強く思うようになった。

幼い頃を振り返ってみると、ぼくは耳の聴こえない両親について“安心”して話せる場所を持っていなかった。

両親の耳が聴こえないという事実によって、ぼくの体験談はいつも“美談”や“感動”へとすり替えられてきたからだ。

「両親の代わりに電話に出ていた」「来客の対応をしていた」といった、ぼくにとっては“ふつう”だった日常も、ろう者が身近にいない人からすると困難やハードルを抱えている“可哀想”なものとして映るらしい。

だからこそ、大人になったぼくは、自分と同じ境遇に生まれ育った「CODA」に会ってみたいと強く思うようになった。

けれど、見つからない。

一体、“仲間”はどこにいるんだろう――。

最近になってぼくがCODAについてSNSで積極的に発信をするようになってから、ひとつの出会いがあった。同じCODAの女性と知り合うことができたのだ。

彼女の名前は安東明珠花(あんどうあすか)さん。東京大学の大学院でCODAの研究をし、さらには聴こえない子どもたちが通う明晴学園で教職に就いている人物だ。1歳の子どもを育てる母親でもある。

聴こえない世界から距離をとっていたぼくとは対照的に、彼女は聴こえない世界と常に正面から対峙してきた。

安東さんは、CODAとして生まれたことで苦しむことはなかったのか。そして、いまなにを思うのか。同じCODAとして、正反対の道を歩んできたように見える彼女に話を聞いた。

口話教育の“犠牲”となったろう者たち

安東明珠花さん
安東明珠花さん

安東さんは現在28歳。岡山県に生まれ、三姉妹の次女として育った。そして、彼女の両親は耳が聴こえないろう者だ。自分がCODAと呼ばれる存在だと知ったのは、大学に進学してからのことだったという。

「進学のために上京してきて、新入生レクリエーションに参加したときのことでした。カナダ人の教授に親の耳が聴こえない話をしたら、『じゃあ、あなたCODAなのね』と言われて」

「最初は意味がわからなかったんですが、詳しく聞いてみると、聴こえない親を持つ聴こえる子どもたちがCODAと総称されることを教えてくれたんです。それを姉や妹にも伝えたところ、『え、なにそれ!』って盛り上がって(笑)」

自分自身がCODAだと知ったときの衝撃は、ぼくも忘れられない。自分の境遇に初めて呼び名がつき、“居場所”を与えられたかのような感覚を覚えた。

ぼくにとってそれは、孤独感からの解放にも近いものだったのだが、安東さんも同じ気持ちを感じたという。

「名付けられてホッとしました。ろう者でも健聴者でもなく、『私はCODAなんだ』ってしっくりきました。同時に、他のCODAにも会ってみたいと思うようになっていったんです」

自分が“何者か”を知った安東さんは、聴こえない世界へと目を向けるようになった。すると、いままで目につかなかったろう者を取り巻く現実が見えてきたという。

「CODAだと自覚してから、社会の理不尽さにより気づくようになったんです。いまでも忘れられないのは、空港での出来事。留学している姉のもとに母が初めてひとりで向かうことになり、空港まで付き添ったんです」

「そしたらサポートしてくれることになっていた航空会社の人から、『お母さまは、日本語が読めるんですか?』と聞かれて……。ろう者は聴こえないだけで、日本語だって読めますし、コミュニケーションも図れる。そんなことも知らないんだと絶望しましたし、怒りも覚えました」

そのスタッフに悪気があったわけではない。おそらく、聴こえない人の現状を知らないだけなのだ。

ぼくの両親も、ただ聴こえないというだけで、“なにもできない人”というレッテルを貼られてしまう場面が多々あった。

聴こえない人は、テレビを楽しめない。注文ができない。聴者とコミュニケーションが図れない。だから、手取り足取りサポートしなければいけない存在なのだ――。

そう感じる場面を目の当たりにするたび、ぼくは絶望し、疲弊した。

「私の親世代、いまの50代~60代くらいのろう者たちは、口話教育を受けてきた人たちなんですよね。手話を禁じられて、聴者のように音声言語を使いなさい、と。でも、それを聴こえない人たちに強いるのは酷な話だと思います」

「口話教育のせいで、勉強が理解できなかった人たちもいるんです。そして、その事実だけを切り取って、『ろう者=頭が悪い』と見なしてしまう」

ぼくの母親はこの口話教育の犠牲者だった。

聴覚障害に理解のなかった祖父母は、彼女が手話を使用することを禁じ、聴者と同じ小学校に通わせた。

母は先天性の障害のため、まったく音が聴こえない。その結果、教師の指導を理解することもできず、ただ席に座り続けた。小学校時代のテストはいつも0点だったという。彼女はいまだに日本語を正しい文法で使うことができない。

「お母さん、バカだからね」

母はよくそういって笑った。母は、なにも悪くないのに。

「でも、手話を使ってきちんと教育すれば、ろう者は聴者となにも変わらない。私が勤務する明晴学園では、日本手話と日本語のバイリンガル教育をしています。ろう者にとって、日本語はあくまでも第二言語。彼らの第一言語は、手話なんです

ろう者は「手話を第一言語とする人」である

ろう者にとって、手話が第一言語。この視点はなかった。

安東さんの話を聞いていると、視界が拓けていくような感覚を覚える。

「ろう者について考えるとき、病理的視点と文化的視点というふたつの見方ができるんです。病理的視点で彼らを捉えると、ろう者は障害者でしかないんですが、文化的視点で見てみると『ろう者は手話という言語を使って生きる人たち』と考えることができます

「文化的視点で彼らを捉えると、『可哀想な人たち』にはならないんですよ」

手話という言語を使って生きる人たち。彼らの環境は、日本語を母語としない外国人に置き換えてみるとわかりすいかもしれない。

たとえば、英語を母国語とする人たちが日本語をうまく使えないとして、“可哀想”や“頭が悪い”と見なすだろうか。いや、彼らは第一言語が異なると捉えるのが自然だろう。

手話を使うろう者だって、それと一緒なのだ。しかし、ろう者が“劣っている”と見なされがちなのは、手話が言語として一般に認知されていないから。

「視点を変えるだけで、ろう者の在り方だって変わるはずなんです。とはいえ、それを主張すると、『だったら、障害者手帳なんかいらないじゃないか』と指摘されてしまう」

「社会がもっとフラットになって、障害者も健常者も分け隔てなく生きられるようになれば障害者手帳も不要になるかもしれない。でも、残念ながら、障害者にとって社会はまだまだ不便なわけで、だから障害者手帳があるのかな、と思います」

手話と音声言語のバイリンガルとして存在するCODA

安東さんは大学を卒業後、現在は大学院でCODAの研究を進めている。

「修士課程では、CODAの言語使用とアイデンティティについて研究しました。CODAがどのように手話を使用しているのか、背景にはなにがあるのか、手話使用が彼らのアイデンティティ形成にどのように影響しているのか、当事者へのインタビューを通して深堀りしていったんです」

「いまは博士課程にいて、CODAのライフストーリーについて研究していく予定。私も含め、彼らがどんな人生を歩んでいくのか、学術的に分析しているんです」

「CODAはろう者の子どもである、とされていますが、これも文化的視点で捉え直すと、『手話と音声言語のバイリンガル』と見なすこともできます。そのような視点から、CODAを分析していきたいと思っています」

正直、知らないことだらけだった。同じCODAとして、アカデミックな立場からCODAを紐解こうとする安東さんの話を聞いていると、全力でバックアップしたい気持ちに駆られる。

一方で、彼女のようにCODAを研究する人たちの絶対数が少ないようにも感じた。

「それは、CODAが研究テーマとして見られにくいのが一因だと思います。アメリカでは日本と比べて細分化もされていますけど、日本ではまだまだ認知度が低い。CODAという言葉だけが広がっていて、その実態はあやふやで知られていませんよね」

澁谷智子さんのインタビューでもあったように、アメリカでのCODA研究は進んでいる。CODA Internationalという組織もあり、当事者への就学支援なども活発だ。

ろう者と健聴者をつなぐ――CODAだからできること

ぼくの目の前に座る安東さんは、CODAとしての自分にプライドを持っているように見える。CODAであることがアイデンティティになっている、とも言い換えられるかもしれない。

「CODAのアイデンティティは、大きく3種類に分類されると考えています」

ひとつはろう者と聴者の“間”にいるという感覚。もうひとつは、ろう者でもあるし聴者でもあるという感覚。そして最後が、ろう者でも聴者でもなく、CODAという枠組みのなかにいるという感覚。私自身は、おそらく3番目。ろう者でもなく聴者でもなく、『私はCODAだ』と思っています」

なるほど。CODAにもさまざまな価値観を持っている人がいるということだ。

では、ぼくの場合はどうだろう。……もしかするとぼくは、ろう者でもあり聴者でもある、という感覚が強かったかもしれない。いま思えばそれは、ろう者でも聴者でもないという感覚と紙一重で、ゆえに孤独感に苛まれる要因になっていたのだろう。

「その気持ちも理解できますよ」と安東さんは微笑む。

「だから私は、第3の枠組みであるCODAだと思っているんです。ろう者でも聴者でもないから。でも、それってどちらの世界にも入って仲良くできるってことだと思いませんか?

幼少期のぼくは、どこにも属さないという気持ちが強く、常にさみしい想いをしてきた。けれど大人になり、CODAの自覚が芽生えたときから、どちらの世界も行き来できる自分に気がついた。

振り返ってみれば、哀しい思い出ばかりではない。同世代のろう者の友達もできた。手話を使って彼らとコミュニケーションを取る時間は、とても楽しかった。

「ろう者と一緒にいると、楽ちんですよね。変に気を使わなくていいですし。手話ってストレートに意見や考えを伝える言語なので、いい意味で遠慮もないし、空気も読まない。たまに傷つくようなことを言われたりもするんですけど、裏表がないのはとても気楽。逆に、空気を読みすぎる聴者といると疲れることもあります(笑)」

そう、聴者とろう者のコミュニケーション文化には、違いがある。

特にろう者のストレートな物言いには、時にカチンとくることもあるけれど、反面、居心地のよさも感じる。時折、ろう者の友人と真正面からぶつかり、喧嘩をしてしまうこともある。

けれど、安東さんは、「それはCODAだからできることなんですよ」と笑う。

「聴者の多くは、どうしてもろう者に遠慮してしまいがち。どう接したらいいのかわからないんですよね。全部やってあげなきゃって思い込んでしまう人もいますし、あまり踏み込んだことを言っちゃいけないと思う人もいます」

「私は幼少期からろう者と過ごしてきたので、遠慮なくはっきり言える。そして、それこそが、CODAの役割だとも思います」

過剰な“遠慮”は、差別につながることもある。ろう者を含む障害者をアンタッチャブルなものとする態度は、彼らを透明人間にしてしまう。

けれど、いまこの瞬間も、障害者はぼくらの隣に存在している。

ろう者に対し、別け隔てなく接することができるCODAは、もしかしたら、彼らと社会とをつなぐ存在になれるかもしれない。

そう思うと、生まれてきた意味が見えてくる気がした。

「私もCODAだからできることを追求しているんです。明晴学園では、ろうの生徒たちに、私のCODAとしての経験を伝えています。将来生まれてくるCODAたちのためにもなると信じています」

「同時に、大学院で研究していることを発信していくことで、CODAについてもっと知ってもらいたい。最終的には、自分がCODAだと打ち明けたときに、『へー、あなたCODAなんだね』という反応が当たり前な世の中になってほしい。ダブルの子たちのように、CODAも市民権を得られるといいなと思っています」

CODAとして生まれ、CODAのために貢献しようとしている安東さん。彼女との対話は、CODAとして生まれてきた意味について考えさせられる時間だった。

ぼくは彼女のような研究者ではないし、書くことしかできない。けれど、聴こえる世界と聴こえない世界を知る者として、その架け橋になりたいと、強く思った。

※編集部注:安東さん個人は「コーダ」という表記を使用しますが、本連載では「CODA」表記で統一しています。

【CODA連載】

五十嵐 大

フリーランスのライター・編集者。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。

(編集:笹川かおり)