「地位はあるけど教養がない」人たちの末路

人も企業も進化するために「哲学」が必要だ

ビジネスパーソンには教養が求められます(写真:manx_in_the_world/iStock)

ビジネスパーソンの間で「教養」ブームが広がっています。一方で、哲学科出身の外資系コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さんは、『武器になる哲学』のなかで、「日本には、教養がないまま地位だけを手に入れた実務家が多い」と指摘します。ビジネスマンが、これまで「役に立たない学問の代表」とされてきた哲学を学ぶ意味とは何なのでしょうか。

無教養なビジネスパーソンは「危険な存在」

近代以降、ヨーロッパのエリート養成を担ってきた教育機関では長らく哲学と歴史が必修とされてきました。今日に至っても、たとえば政治・経済のエリートを数多く輩出しているオックスフォードの看板学部「PPE=Philosophy, Politics and Economics」(哲学・政治・経済学科)では、哲学が三学領域の筆頭となっていますし、フランスの高等学校課程=リセでは、理系・文系を問わずに哲学が必修科目となっており、バカロレアの第一日目の最初に実施されるのは伝統的に哲学の試験とされています。パリにしばらく滞在した人であれば、バカロレアの哲学試験にどのような問題が出されたか、自分ならどう答えるかがオフィスやカフェで話題になっているのを耳にしたことがあるのではないでしょうか。

本記事は「東洋経済オンライン」からの転載記事です。元記事はこちら

あるいはアメリカに目を転じても、エリート経営者の教育機関として名高いアスペン研究所では、世界中で最も「時給」の高い人々であるグローバル企業の経営幹部候補が集められ、風光明媚なスキーリゾートとして知られるアスペンの山麓で、プラトン、アリストテレス、マキャベリ、ホッブズ、ロック、ルソー、マルクスといった哲学・社会学の古典をみっちりと学んでいます。

彼らはなぜ、ともすれば「役に立たない学問の代表」とされがちな「哲学」を、これだけプライオリティの高い学問として学んでいるのでしょうか。アスペン研究所設立のきっかけとなった1949年の国際カンファレンス「ゲーテ生誕200年祭」において、発起人の一人であるシカゴ大学教授(当時)のロバート・ハッチンスは「リーダーに教養が求められる理由」について次のように言及しています。

・無教養な専門家こそ、われわれの文明にとっての最大の脅威

・専門家というものは、専門的能力があるからといって無教養であったり、諸々の事柄に無知であったりしていいものだろうか

(日本アスペン研究所HPより)

実に強烈です。哲学を学ぶと「役に立つ」とか「カッコいい」とか「賢くなる」ということではない、哲学を学ばずに社会的な立場だけを得た人、そのような人は「文明にとっての脅威」、つまり「危険な存在」になってしまうというのがハッチンスの指摘です。

ひるがえって、わが国の状況はどうでしょうか。たまさか、筆者は先日ある経済団体の集まりに問題提起者として参加し、財界を代表する経営者と「文化と企業」の関係について議論する機会を持ちました。しかし、ここでわかったのは、このテーマについて、まともに「自分の意見を述べる」ことができる経営者が、少なくともその場にはいなかった、ということでした。多くの経営者は「文化は儲からない」「祇園におカネを落としたいが時間がない」といった幼稚なコメントに終始し、まともに「企業経営が文化形成に与える影響」について議論することができませんでした。

一方で、このように無教養な「お金儲けの専門家」によって率いられている多くの日本企業から、子どもでさえ仰天させるようなコンプライアンス違反が続出しているわが国の状況を鑑みれば、このアスペン研究所設立の前提となったハッチンスの問題意識が極めて予見性に満ちたものであったことがわかります。

「弁証法」を理解する意味

哲学を学ぶことの最大の効用は、「いま、目の前で何が起きているのか」を深く洞察するためのヒントを数多く手に入れることができるということです。そして、この「いま、目の前で何が起きているのか」という問いは、言うまでもなく、多くの経営者やビジネスパーソンが向き合わなければならない、最重要の問いでもあります。つまり、哲学者の残したキーコンセプトを学ぶことで、この「いま、何が起きているのか」という問いに対して答えを出すための、大きな洞察を得ることができる、ということです。これは具体例を出して説明しないとなかなかわからないかもしれません。

たとえば、いま世界で教育革命と言われる流れが進行していますね。フィンランドのそれが最も有名ですが、たとえば年次別のカリキュラムを止めてしまう、教科別の授業を止めてしまうという流れです。日本で育った私たちからすると、学校の授業といえば、同じ年齢の子どもが教室に並んで、同じ教科を同時に勉強する、というイメージが強く、フィンランドで採用されているこのシステムは奇異に聞こえるかもしれません。自分たちが慣れ親しんでいるものとは異なる、なんらかの「新しい教育の仕組み」が出てきた、という理解です。

ところが、ここで「弁証法」という枠組みを用いて考えてみると違う理解が立ち上がってくる。それは「新しい教育システムが出てきた」ということではなく、「古い教育システムが復活してきた」という理解です。

弁証法というのは、ある主張=Aがあったとして、それに反対する、あるいは矛盾する主張=Bがあり、それが両者を否定することなく統合する新しい主張=Cに進化するという思考のプロセスを指す言葉ですが、この時、この統合・進化は直線上ではなく、「らせん状」に行われることになります。らせん状ということはつまり、横から見ればジグザグの上昇運動に、上から見れば円上の回転運動に見えるということで、要するに「発展」と「復古」が同時に起きる、ということです。

ある一定の年齢になった子どもを同じ場所に集めて、単位時間を区切って同じ教科を学ばせるという、私たちが慣れ親しんでいる教育システムは、明治時代の富国強兵政策のもとに、大量の子どもに工場のように教育を施すために編み出されたシステムです。人類は誕生以来、ずっと子どもの教育をやってきたわけですから、その歴史は数万年の長さにわたります。現在の教育システムというのは、この長い歴史の中における極めて短い期間に採用されているだけの、言ってみれば例外的なシステムなんですね。

では明治維新以前はどういう教育システムだったかというと、これはいわゆる寺子屋ということになります。この寺子屋のシステムを振り返ってみると、年齢もバラバラ、学ぶ教科もバラバラということで、現在、世界で進めようとしている教育システムの方向性に近い。

つまり、近代の教育システムに慣れ親しんでいる私たちから見ると、大変「新しい」ように見えるものが、実は長い時間軸で考えてみると、「古い」ものだということです。ただし「古いもの」が「古い」まま復活したのでは、単なる後退ということになってしまいます。この時、古いシステムは、なんらかの発展的要素を含んで回帰してくる。教育システムの場合、この「発展的要素」はICTということになるわけですが、ここでは教育システムの発展についての解説にこれ以上の紙幅を割くことは止めたいと思います。

この教育システムの話は一例ですが、この動きを「過去のシステムの発展的な回帰だ」として洞察できるかどうかは、弁証法というコンセプトを知っているかどうかによって大きく変わってきます。

哲学は「クリティカルシンキング」の教科書

ビジネスパーソンが哲学を学ぶもう1つのメリットが、「批判的思考のツボを学ぶ」という点です。

哲学の歴史というのは、そのまま、それまでに世の中で言われてきたことに対する批判的考察の歴史だと言うことができます。

過去の哲学者が向き合ってきた問いは、「世界はどのように成り立っているのか」という「Whatの問い」と、「その中で私たちはどのように生きるべきなのか」という「Howの問い」の2つに整理することができます。古代ギリシア以来、ほとんどの哲学者が向き合った「問い」がすべてこの2つに収れんするにもかかわらず、これほどまでに多くの哲学者の論考が存在するということは、つまりこれらの問いに対する「決定打」と言える回答が、未だに示されていない、ということの証左でもあります。

哲学者が問いに向き合う。そして彼なりの「こうじゃないかな」という答えを打ち出す。その答えが、説得力を持つと思われれば、しばらくのあいだはその答えが世の中の「定番」として普及します。しかしそのうち、現実が変化し、定番となった回答にも粗(あら)が見えてくる......つまり、その回答では現実をうまく説明できていなかったり、現実にうまく対処できなかったりするようになるわけです。すると新しい哲学者が、「その答えって、もしかしたらダメなんじゃないの?」と批判し、別の回答を提案する。哲学の歴史はそのような「提案 批判 再提案」という流れの連続で出来上がっているわけです。

さて、ではこれがなぜビジネスパーソンにとって重要なのかというと、ビジネスでもまた、批判的思考が求められるからです。変化する現実に対して、現在の考え方や取り組みを批判的に見直して、自分たちの構えを変化させていく。かつてはうまくいっていた仕組みを、現実の変化に適応する形で変更していく。企業のことを英語ではゴーイングコンサーンと言いますね。これは「永続することを前提にした組織」ということですが、重要なのは「環境が変化する」のに対して、「企業が永続する」という点で、これはつまり、企業というのは「どんどん変化していく」ことが前提となっているということです。

なぜ、日本の組織は変化できないのか

このように指摘すると、「そんなことは当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、では、その「当たり前」がなぜ、多くの日本企業では難しいのか。

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最大のポイントは「変化」には必ず「否定が伴う」という点です。これまでやってきた考え方、動き方を否定したうえで、新しい考え方、動き方を取り入れていく。難しいのは「新しい考え方・動き方」を「始める」ことではなく、「古い考え方・動き方」を批判的にとらえて、これを「終わらせる」ことなんです。これまで通用した「考え方」を、一旦批判的に見直してみる。そして、それが現実にうまく適応できていない、現実をうまく説明できていないのだとすると、その理由を考察して、新しいパラダイムを提案する、ということが求められるわけですが、これはまさに、哲学者が連綿とやってきたことです。

対象となる問題はもちろん異なりますが、このような「自分たちの行動や判断を無意識のうちに規定している暗黙の前提」に対して、意識的に批判・考察してみる知的態度や切り口を得ることができる、というのも哲学を学ぶメリットとして挙げられると思います。

山口 周 : コーン・フェリー・ヘイグループ シニア・クライアント・パートナー

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