"緊急事態条項" ~危機が迫る今こそ徹底した議論を

世界がテロの脅威で揺れる中、「緊急事態条項」の新設を焦点とする憲法改正論がにわかにクローズアップされてきました。

3月22日、ベルギーの首都ブリュッセルで起きた連続テロ。空港と地下鉄にテロリストが持ち込んだ爆博物は一瞬にして35名の命を奪い、230名以上が負傷、日本人2名も巻き込まれました。

爆破されたマルベーク駅はEU本部のほど近く。私自身も、EC(現EU)からの招聘でビジッティング・プログラムに参加した際、10日間に亘る本部での研修中毎日のように利用した駅でもあり、事件の一報を聞いた際は戦慄が走りました。

EUやNATOの本部が置かれるブリュッセルは、言わば欧州の首都。欧州連合条約には、EUの存在価値について次のようにうたわれています。

「連合は人間の尊厳に対する敬意、自由、民主主義、平等、法の支配、マイノリティに属する権利を含む人権の尊重、という価値観に基づいて設置されている。これらの価値観は多元的共存、無差別、寛容、正義、結束、女性と男性との間での平等が普及する社会において、加盟国に共通するものである。」[欧州連合条約第2条]

相次ぐテロの脅威は、こうした高邁なEUの理想や設立の精神を根幹から揺るがし、欧州だけでなく全世界に大きな"分断"をもたらしつつあります。

自由と人権を何より尊重するフランスでも、昨年11月に起きた同時多発テロ直後に発動された非常事態宣言について国民議会が、既に3カ月延長されていた同宣言の更なる3か月延長を決定。仏政府は、治安維持の名目で憲法改正にも着手しました。

テロの標的という意味で、伊勢志摩サミットを5月下旬に控える日本も決して例外ではありません。ISから「十字軍」の一員とみなされ、昨年初めには拘束された日本人が殺害されるという事件も起きています。

また昨今の北朝鮮によるミサイル発射や水爆実験をはじめ、不安定化を強める東アジア情勢も安全保障面での大きなリスク要因です。

こうした中、「緊急事態条項」の新設を焦点とする憲法改正論が、にわかにクローズアップされてきました。安倍総理も1月19日の参院予算員会の答弁で、緊急事態条項の必要性について次のように言及しています。

「大規模な災害が発生したような緊急時において国民の安全を守るため、国家そして国民自らがどのような役割を果たしてゆくべきかを憲法にどのように位置付けるかはきわめて重く、大切な課題と考えている」

確かに、首都直下や南海トラフなどの大地震の発生も高い確率で指摘されている中、天災・人災に対し万全の備えを行い、必要な法整備を急ぐ必要があることは事実です。

ただ緊急事態に関する法整備については、侵略を受けた場合は「武力攻撃事態法」、内乱には「警察官職務執行法」や自衛隊の「治安出動条項」、災害には「災害対策基本法」や「災害救助法」などが既に存在し、もしこれらの法律に不備があるのだとすれば、まずはこうした現行法の改正を進めるなり、運用を見直すことが先決であると思います。

その一方で、大陸法を採用するほとんどの諸外国では、憲法に「国家緊急権」、つまり国家の平和と独立を脅かす急迫不正の事態に際して、憲法の一部を停止し"超法規的措置"によって危機を防除しようとする規定が存在することも事実です。

そこで、緊急事態条項を盛り込んだ憲法改正の必要性を主張している自由民主党の「日本国憲法改正草案」において、同条項がどのように記載されているか熟読してみました。

[自民党改正案 第9章 98、99条]

読後の印象を一言で表すなら、アクセルはメチャクチャ強力なのに、ブレーキがものすごく甘い車といった感じです。こんな車が暴走しないと思えるほど、私は楽観主義者にはなれません。

まずはアクセルについてですが、99条の「緊急事態の宣言の効果」には、絶大な効力が規定されています。

たとえば、「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」とあります。ひとたび緊急事態が宣言されたら、時の内閣は国会の議論を経ずに、国民の権利を制限し義務を課すことができることになります。

しかも、予算の裏付けなしに「財政上必要な支出その他の処分」が可能になります。

「地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」わけですから、内閣の方針に従わない知事や市長村長を更迭することもできます。

そして、緊急事態中、「基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない」けれど「保障」はされなくなってしまいます。

更にこうした緊急事態宣言が一度発せられると、その効力は100日間も継続されます。これは諸外国の規定と比較し、異例の長さです。

次にブレーキについて検証してみましょう。

まずは、どのような場合にこれだけの超法規的措置が適用されるのかという「発動要件」ですが、明確で具体的な記載はほとんど見当たらず、きわめて曖昧と言わざるを得ません。

しかも、国会承認が事後で良いとされているので、この条文だけを読む限り「手続き的歯止め」は無きに等しいように思えます。

このように所謂"行け行けドンドン"的な草案を提示されると、迫りくる国際的危機を目前にして現実を直視し、日本も緊急事態への備えを強化せねばならないと考える私でさえ、「ワイマール憲法」の悲劇を思い起こさずにはいられません。

1919年にドイツの国民議会で制定された「ワイマール憲法」は、国民主権、男女平等の普通選挙、生存権の保障などが先進的に規定され"民主主義憲法の雛型"と称されながらも、ナチスの要請に従った当時のヒンデンブルク大統領が第48条(大統領緊急令)を乱発したことにより次第に形骸化し、最終的に全権委任法の制定によりナチスが政権を掌握したことにより事実上消滅します。

ナチスやヒットラーなど遠い昔の話...と思っている内に、欧州各国ではポピュリズム(大衆迎合主義)政党が台頭・躍進し、米国では遂に"暴言王"トランプ氏が大統領選の共和党指名候補に王手をかけつつあります。

「安全」か「人権」かの二者択一でなく、「安全」も「人権」も守り抜くという強固な意志のもと、中庸で寛容で我慢強い"しなやかな政治"が今ほど求められている時代はないのではないでしょうか。

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