「お父さんは自殺じゃない、病気だったんだよ」父の死後の"それから”

これは、2万7283分の1の家族の話である。

2019年7月末日、父の7回忌の命日を迎えた。

私の父は、6年前に突然亡くなった。死因は窒息による脳死だった。

2013年の全国の自殺者は、2万7283人。

これは、2万7283分の1の家族の語である。

(写真はイメージ)
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Eriko Koga via Getty Images

私の家族は、地方公務員の父、パート勤務の母、姉、私の4人で社宅で暮らす、一見どこにでもいる家族だった。

物心ついた時から、私にとって、父は “権威”と “恐怖”の象徴だった。プライドが高く、気難しい性格の父は、些細なことで怒鳴り、暴言を吐いた。家の空気はいつもピリピリしていた。

ただ、父はウィンドサーフィンが昔からの趣味で、週末はほとんど海に出かけており、父がいない休日だけは心休まる日だった。

時折機嫌がいいときに、「ウィンドサーフィンを教えてやる」と父から海に誘われると、日頃のギャップに戸惑った。幼い頃のイメージが強く、私は父との会話の仕方が分からなくてなってしまっていたからだ。

高校生になった頃、私は初めて父が躁鬱病を患っていることを知った。薬を飲みながら、なんとか仕事に行っていると。遅い時間に帰宅後、自室に閉じこもり、お酒を注ぐ時にしか出てこない。そうかと思えば、時には上機嫌で会社やテレビのニュースについて話す。

父のことがすっかり煩わしくなっていた私は、躁鬱病と聞いても、「ふーん、そうなんだ。私には関係ないけど」としか思っていなかった。

私と父の関係は変わらず、私は何度も両親の離婚を願った。母は都度「私は仕事してないから、あんたたちが大きくなるまでは」と言った。私はその度にもどかしく、行き場のない気持ちを発散するかのように、反抗期も長く続いた。

大学進学後、私は広島の家を出て、就職して東京に上京した。実家にはすっかり足を運ばなくなり、父とはほぼ会わなくなった。同窓会や結婚式で広島に帰っても、友人の家を渡り歩き、母とは家の外で会った。

物理的に父から離れたが、心のどこかにはいつも父の影がつきまとっていた。「絶対にあんな人間にはならない」と父を反面教師にしながら、何かにつまづくと「こんなにうまくいかないのは父のせいだ」と父を恨んだ。

多分私は、父に認めてほしくてたまらなかったのだと思う。父の存在が消えない呪縛のようになっていた。

この状態を脱するため、私は父と真剣に話をしたいと願うようになった。口論になっても、本当の喧嘩別れになってもいい、一度本音でぶつかり何を考えているのか知り、知ってほしい。

ただ、その勇気はいつまでもわかないまま、時だけが過ぎていった。

*******

ある日、母から「父が鬱病で休職している」との電話があった。新しい職場に慣れず、体調が悪化し、休職しているのだという。一度様子を見に来てくれないか、という相談だった。

母からの「来て欲しい」というSOSは初めてだった。私と姉はその週末、実家に帰る新幹線の中で、父の様子を予想し対策を練っていた。だが、その予想は全く当たらなかった。

数年ぶりに対面した父に、昔の“権威”と “恐怖”の面影は消えていた。やせ細り、口数も表情もほとんどない。大好きなお酒も、ほとんど飲まなくなったらしい。朝方まで起き、日中のほとんどを布団で過ごし、深夜にやっと寝つくことができていた。

「お父さん最近は弱ってて、拍子抜けやわ。今まで暴君やったからちょっとはお灸すえになったんちゃうか。はよ元気になってもらわんとな」


母はあっけらかんと話しながら、父を労っていた。今まで母にも様々な思いがあっただろう。言葉では説明できない、夫婦の長い時がつくり出した “無償の愛”を強く感じた。

想像以上に変わり果てた父と、父に対する母の愛に、心から自分を恥じ、心から父を心配した。

たまたま父の誕生日が近く、十数年ぶりに家族4人で食卓を囲んでお祝いをした。全員が言葉を選びながら、核心はつかず、たわいもない会話をする、不思議な時間を過ごした。私は、今後は定期的に実家に帰って父と母を労おう、と心に決めていた。

食事が終わり、ホテルに戻る私たちを見送りながら、父は困ったような顔で、ボソッと「ありがとうな」と呟いた。「またね」。私と姉が手を振ると、父はその言葉には返事をせず、手を振り返した。

私たちが父の言葉を聞いたのは、それが最後となった。

その1週間後、父が危篤状態だという連絡を受け、新幹線に飛び乗った。第一発見者は母だ。パートから戻ると、父と二人で暮らすいつもの家で、父は首をつっていた。

私が病院につくと、父は呼吸器に繋がれていた。側には、震えながら父の手を握り、「お父さん、お父さん」と何度も呼ぶ母がいた。

担当医は、家族が揃ったのを見ると言葉を選んでこう言った。

「脳死の状態で、残念ながら、このまま蘇生はしません。人工呼吸器を止めますか?」

母は、じっと考え、「よろしくお願いします」と答えた。

たった数秒間の時間だったが、私には果てしない時間のように感じた。

担当医がそっと呼吸器を止め、父の心拍は止まった。

「2013年7月●日、22時●分。ご臨終です」

父は亡くなった。

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その後の数週間は、悪夢をゆっくり見ているかのような感覚だった。

母の意向もあり、お葬式は親族数人で執り行った。職場の上司が葬儀場まで訪ねてきたが、家族葬という趣旨を説明し帰ってもらった。

葬儀も落ち着き、今後のことを相談した。母は社宅に住んでいたので、父がいない今、数カ月後に退去しなければならない。それ以上に、父が亡くなった部屋に母を一人にするわけにはいかない。そこで、母に私(たち)の暮らす東京近辺に引っ越してもらうことに決めた。

私は、亡くなった後の事務的手続きとともに、父の自殺の理由を必死に探した。

おそらく、理由は一つではなかった。複合的な要因とタイミングが重なり、自ら命を絶つという選択をしたのだと思う。

しかし、私の中には、「私のせいだ」という感情が渦巻いていた。

遺書はなかった。日記もメモもなかった。家中の父のものやPC、携帯、職場のデスク、父が通った心療内科の記録......。手がかりとなりそうなものをしらみつぶしに探したが、父の死のメッセージは何も見つからなかった。

その代わり、私が知らない父を、たくさん見つけた。

とても丁寧に保存されていた、私たちの幼い頃のアルバム。

私が広島代表として選ばれ、作品が掲載された作文集。

文化祭で私が発表した演劇を撮ったビデオ(見に来ていたことすら知らなかった)。

私が内定が決まった際に、念のため報告したメールを丁寧にプリントした紙。

父がもう数十年前から睡眠薬を飲まないと眠れなかったこと。

「仕事に行くのが辛いが、家族を養うために頑張らないと」と担当医に言っていたこと。

心が荒んで、友人が離れてしまっていくのを憂いていたこと。

最後の数カ月は、電車に乗るだけで、幻聴に苦しんでいたこと。

父のデスクには、こんなメモがあった。

もうだめだという時に効く十のことば

1,ゆっくりしてなさい

2,身体をまずやすめなさい

3,許しなさい

4,目を閉じなさい

5,深呼吸しなさい

6,考えるのを一度やめなさい

7,自分を労わりなさい

8,少し食べなさい

9,死にたいと呟いてもいいから、生きなさい

10,おやすみ、よく生きました。今は眠りなさい

私は、堪えきれず、立ち尽くして、しばらくポロポロ泣いた。

人は失ってから後悔する。なぜ私は今まで、父の全てを知っていると決めつけてしまっていたのだろう、SOSを受け取ろうとしなかったんだろう、些細な会話をしようとしなかったのだろう。

なぜ、なぜ、なぜ......新しい父の一面を見つけるたびに、自分を責めた。

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私は何をしていても自分を責める言葉が脳裏によぎり、だんだんと心身のバランスが崩れていった。食欲がなくなり、眠れなくなった。

外に出ると、道行く人が父の死について噂話をしているように感じ、身を隠すように過ごした。怖くて、情けなくて、誰にも会いたくない。誰かのせいにしたくて、父の死の理由を探し続けるしかなかった。

そんな極限の心理の中で、ふと、かつての恩人であるAさんの顔が浮かんだ。私が激しい反抗期だった時に出会い、私に学問の大切さと視野の広さを教えてくれた恩師だ。

いつも笑顔で笑いじわがチャームポイントのAさんに、無性に会いたくなり、連絡をすると、すぐに返信がきた。

「連絡をくれてありがとう。今日の夜はちょっと遅くなるんだけど、事務所にお母さんと一緒にきんちゃい。待ってるね」

その夜、母と事務所に向かった。到着するとAさんはタッパーにたくさんつめたおかずを広げながら、「あんまり食べてないとおもってね。食べ物は元気の源じゃけ、好きなもの食べんちゃい」と笑いじわを寄せて微笑んだ。

母と私は、美味しいおかずを食べながら、父が自殺したこと、理由がわからないこと、後悔していることをボソボソと話し始めた。Aさんは、真剣な顔でウンウンと頷きながら私と母の話を聞いた。

私たちが話し終わり、一呼吸を置いてAさんは微笑んで言った。

「あのね、まず、お父さんの死因は自殺じゃない、病気だったんよ。病死じゃけん、誰のせいでもないんよ。お父さん、よく頑張ったね。二人とも、ここまでよく頑張ったね」

Aさんの言葉に母は涙を流した。父の葬儀以来、初めて見た涙だった。

大きく同情するでもなく、鼓舞するでもないAさんの言葉は温かかった。

「深呼吸して、泣きたい時は泣いて、何か言いたい時は言って、言えなかったら紙に書いて、時と向き合いんちゃい。それで、“これから”はもっと幸せにならんとね」

Aさんの言葉で、私は二つの真実に気づいた。

まず、悲しみや後悔は変わることはない。受け入れて向き合うことが必要だということ。そして、私たちには “これから”の未来がある、ということ。

私はそれまで、父との過去ばかりにこだわり、身動きが取れなくなっていた。しかし、自分自身を過去に縛り付けて、未来を見ようとしないのは、一体誰のためになるだろうか。

私は、父の死を自分のせいにすること、誰かのせいにしようとすることをやめ、この感情を時間をかけて受け止めることを決意した。

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あれから6年の月日がたった。

6年前、Aさんと話し東京に戻る新幹線の中、私はこう書いていた。あの日から生きる指針にしている。

これからは、一生の思いをした母と、姉と、近くで笑って過ごすし、
沢山の人と笑っていたい。

世の中にもっと多くの事業も、沢山の組織も、家族も残したい。

別に苦しくても貧しくてもなんでもいいから、後悔だけはしないように、未来を見て、目の前のことにしっかり向き合って、一秒ずつ真剣に、楽しんで生きていく」


現在、家族は近くにいて、笑って過ごしている。

私には家族ができて、愛する子供と幸せな日々を送っている。

この6年間、悲しくて涙が溢れる日もあれば、嬉し涙を流す日もあった。人の言葉に傷ついたり、傷つけてしまったりしたこともあった。離れていく人もいたし、素敵な出会いもたくさんあった。

総じて、いろんな人に支えられながら、笑って生きてこられた。私と関わってくれた全ての人に、心から感謝している。

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私たちの家族の話を通じて、誰かに何か教訓めいた話をするつもりはない。でも、昔の自分自身に伝えたいことがある

まずは、人には様々な側面があること。

私が大好きなあの人も、少し苦手なあの人も、私には見えない側面を持っている。家族の前ではそっけない人かもしれないし、優しく思いやりのある人かもしれないし、実は心にとても不安を抱えている人かもしれない。自分の目線だけで、人を決めつけてはいけない。

次に、自分のSOSを出すこと、人のSOSをできる限り見落とさないこと。

私は今、何かに悩んだ際、頭に浮かぶ人に相談することを心がけている。誰も思い浮かばなければ、紙に書きだしている。自分の心だけに留めておくと、心のモヤモヤが大きくなるにつれて身動きが取れなくなり、心身がすり減ってしまうから。

また、身近な人のSOSを感じ取った時は、絶対に耳を傾けている。解決は決してできない。でも私は、私の側でウンウンと話を聞いてくれる人がいただけで勇気が生まれた。

最後に、どんなことが起きても、決して自分を責めないこと。

父が亡くなった際、私は自分を責め、恥じた。しかし、私がそのまま過去の時に留まり続けることは、誰も望むことではないと気づいた。私にできる1番の父への弔いと恩返しは、受け止め、その上で未来を見て、自分の人生を生きることだ。

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父はハワイに行って、サーフィンのメッカで思いっきり波に乗ることが好きだったらしい。いつか娘を連れて、父の愛する夢の場所に行きたい。

自殺を少しでも考えてしまう人や、周りに悩んでいる方がいる人たちなどに向けて、以下のような相談窓口があります。

自殺総合対策推進センター|いのち支える相談窓口一覧

全国の精神保健福祉センター一覧

いのちと暮らしの相談ナビ

厚生労働省|自殺対策ホームページ

東京自殺防止センター

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