ガザにも、車椅子先生がいた。乙武洋匡が“二人〇脚”の対談で得たもの

彼が歩んできた人生とは。そして、彼の目に映るガザとは。

ガザにも、"車椅子先生"がいた−−。

アフメッド・アルサワフェリさんは、1990年生まれの27歳。17歳のときにイスラエルの空爆によって両脚と左腕を失った。しかし、そうした悲劇にも屈することなく、当時からの夢だった小学校教師として子どもたちと毎日を過ごしている。

彼が歩んできた人生とは。そして、彼の目に映るガザとは。海を越えて、"二人〇脚"の対談が実現した。

乙武洋匡

−−今日はお会いできて光栄です。以前にアフメッドさんのことを記事で読んでから、ずっとお会いしたいと思っていたんです。

こちらこそ光栄です。こうして私の家までお越しいただけたことを本当にうれしく思っています。

−私とアフメッドさんは同様の障害を抱えているようにも思えますが、私は先天性、アフメッドさんは後天性という違いもあります。当時のことをお聞きしてもよろしいですか?

もちろんです。私が空爆を受けたのは、2008年4月。本格的に戦争が始まる直前のことでした。当時は17歳、高校の最終学年でした。ガザでは高校の最終学年に共通試験のようなものがあり、その結果によってドクターに進むコース、エンジニアに進むコースなど進路が決定するのですが、その試験を目前に控えた時期だったのです。

−−当時のアフメッドさんには、何か将来の夢がありましたか?

もちろん、ありました。他の若い子と同じように。私は以前から学校の先生や校長として教育に関わりたいと思っていたんです。

−−そうした夢に向かって努力を続けていた矢先に空爆を受け、両脚と左手を失った。それでもあきらめることなく、教師になるという夢を実現させたのですね。その強靭な精神力と積み重ねてきただろう努力に、心から敬服します。

当時の私には、2つの選択肢がありました。ひとつは夢をあきらめること。もうひとつは夢をあきらめることなく、希望を持つことです。もちろん、私は後者を選びました。私は、人生で一度もあきらめるという選択をしたことがありません。人生とは、あきらめるものではないですから。

−−言葉にすると簡単に聞こえてしまいますが、実際にその気持ちを持ち続けることは非常に難しいことだったと思います。アフメッドさんにとって、誰かロールモデルとなるような存在はいたのでしょうか?

あなたの存在です。

−−えっ、私ですか?

ええ、以前にあなたのビデオを見たんです。それ以来、あなたは常に私のモデルです。また、アメリカにも同じような境遇の人がいるのですが、彼のキャラクターにも非常に感心しています。そうそう、奇遇なことに彼も教師をしているんです。お二人の存在が、私に希望と勇気を与えてくれました。

乙武洋匡

−−それは何ともありがたいような、気恥ずかしいような...。じつは、私も日本の小学校で3年間、教師を務めていたんです。

何と、そうでしたか。では、私たち3人で新しい学校を作りましょうか(笑)

−−完全にバリアフリーな学校になりそうですね(笑)。アフメッドさんが、教師として子どもたちに伝えたいと思っていることは何ですか?

あきらめないこと。どんな酷い状況でも、希望を持ち続けること。そして、年上の人に敬意を払うことです。

−−子どもたちは、"手足のない先生"のことをどのように受け止めているのでしょうか?

私自身、学校に行くまでは『受け入れてもらえないのではないか』と恐怖に感じる部分もありました。でも、実際に子どもたちはみんな私を受け入れてくれました。そのことが私に大きな希望を与えてくれました。

もちろん、当初こそ私を受け入れてくれなかった子もいたのですが、少しずつ時間をかけ、仲良くなることで、次第に受け入れてくれるようになりました。

−−大人たちの反応はどうでしたか? ガザは保守的な人が多いとも聞くので、ネガティブな声もあったのではないのでしょうか...。

もちろん、そうした声もありました。私が学校に来るべきではないと口にする人もいました。それは、私が唯一、障害者の教師だから。でも、『私は教員です』と自己紹介すると、ほとんどの人が私を受け入れ、ハグをしてくれます。

−−ご自身では、どのように受け止めていますか。じつは、私も教員時代には自分の障害を突きつけられ、苦しい思いを強いられるような場面が何度かあったんです。

それは、どんなことですか?

−−たとえば日本の学校では月に一回、避難訓練という地震や火災などの災害時にどう避難するかといった訓練を行うのですが、私はこの身体なので、子どもたちを迅速に避難させることに大きな不安が残ります。

そこで学校との取り決めで、災害が発生した際には私ではない教師が子どもたちを誘導するということになっていたんです。もちろん、それがベストだと頭では理解できているのですが、やはり教師としての責任を果たせていないような気がして、「子どもたちに申し訳ない...」と、避難訓練を迎えるたびに胸が押しつぶされそうでした。

私が勤務する学校にはエレベーターもありませんから、一階の教室でクラスを持たせてもらっています。でも、いまのお話にはとても共感します。

というのも、2年前に学校のすぐ近くで爆撃があったのです。もちろん、私の責任は子どもたちを守ることなのですが、この身体でどうやって守ればいいのか。どうやって助ければいいのか。何より、私自身が空爆の被害者ですから、どうしても爆撃に対して恐怖を感じてしまうんです。

−−ええ、わかります。日本でも2011年に大きな地震があったのですが、その際には私もそれまで経験したことのない恐怖を感じましたし、自分自身がいかに無力な存在であるかを痛感させられました。

日本は自然災害、こちらは人工的な災害ですね...。

乙武洋匡

アフメッドさんが浮かべるいたずらっぽい笑みに、いったいどんな言葉を返したらいいのだろうとまごついていると、部屋の奥から天使のようにかわいらしい女の子が現れた。

長女のジェンナちゃん。アフメッドさんは、2010年に従姉妹のタレルさんと結婚。同年に長女のジェンナちゃん、2014年に長男のモタセム君が生まれた。2012年には次女のサマちゃんが生まれていたが、その3カ月後に空爆を受け、この世を去っている。

乙武洋匡

−−とてもかわいらしいお嬢さんですね。

ありがとうございます。ジェンナというのは、"パラダイス"を意味するアラビア語からつけているんです。

−−それは、とても素敵なお名前ですね。どんな思いを込めて名付けたのですか?

私は大学でイスラム文化を学んでいたのですが、"ジェンナ"というのはイスラムにおいて、とても美しい名前なのです。

−−そうなんですね。少し難しい質問かもしれませんが、アフメッドさんにとって、"パラダイス"とはどんな社会ですか?

まずは平和であること。そして障害者に対して寛容であり、障害者でも仕事を持ったり、活躍できる社会です。私はそうした社会をつくるために、神の声を聞きながら−−。

.........

そのとき、電気が消えた。もともと薄暗かった部屋が、いよいよ暗くなった。ガザではほとんどの地域で、1日に2〜4時間しか電気が使えない状況が続いている。それまで部屋の空気をかき混ぜてくれていた扇風機がピタリと止まり、シャツの中で一気に汗が吹き出した。

.........

失礼しました。そう、神の声を聞きながら、ボランティアにも励んだりしています。私の体がどういう状況であろうと、ボランティアができるということが重要であると感じています。

−−アフメッドさんにとってのパラダイスとは、平和であり、障害者でも活躍できる社会。その意味において、現在のガザは"パラダイス"からは程遠い状況にあると言えるのでしょうか?

そうですね。いまのガザには多くの問題があると言わざるを得ません。

−−具体的には、どんなことが問題だと感じていますか?

まずは仕事ですね。多くの人には仕事がないため、収入を得ることができません。あとは階段の問題です。エレベーターもないことがほとんどですから、とても障害者にとって適した環境とは言えないのです。もしエレベーターが使えるようになれば、もっと障害者にもできることが増えるはずです。

−−どちらも重要な問題ですね。ガザでの失業率は40%超とのことですから、これは障害者に限った話でもないのでしょうし。

私からも、いくつかお聞きしたいことがあるんです。

−−ええ、もちろんです。

あなたの目に、日本の社会はどう映っていますか?

乙武洋匡

−−とても難しい質問ですね...。そうですね、先ほどの"パラダイス"という定義で言えば、日本は地震があったり、最近では他国からミサイルが飛んできたりということもありますが、それでもガザと比較すれば「平和な国だ」と言えると思います。

はい、わかります。

−−障害者に対して寛容で、障害者でも活躍できる社会であるか。これは評価の分かれるところだと思います。ガザに比べれば、答えはYES。しかし、経済的に同じレベルにある先進国と比べれば、答えはNO。大きく遅れを取っていると感じます。

日本では同質性を重んじる文化があるので、障害者に限らず、マジョリティから外れてしまった人々は、どうしても大きなハンデを背負うことになってしまうんです。

建物などのバリアフリーに関してはどうですか?

−−私はこれまで世界50ヶ国以上を旅してきましたが、これに関して言えば、日本...まあ、少なくとも私が住んでいる東京は、世界でもトップレベルにあると思います。

それはいいですね。ガザでは先ほどもお話ししたように建物などのバリアフリーはかなり遅れを取っていますが、そのぶん人々が手助けをしてくれます。それも、こちらからお願いする前に。これは素晴らしいことだと感じます。私もこのエリアに引っ越してきた時には知り合いがいなかったのですが、それでも多くの人が助けてくれました。

−−それは私自身も強く感じるところです。ガザ訪問は今回で2回目となりますが、前回に引き続き、今回も多くの人々のサポートに助けられています。ガザの人々は、本当にやさしいですね。

日本でも、やはり多くの人々が手助けをしてくれますか?

−−日本人もとても親切なので、こちらからお願いすれば、もちろん快く手を貸してくれます。しかし、ガザのようにこちらからお願いする前に手助けをしてくれるというケースは、あまり多くはありません。

それは日本人がシャイであることと、障害者と接する機会が少ないために、どう手伝ったらいいのかという戸惑いが先に来てしまうといったことが理由だと感じています。

なるほど、そういう側面があるのですね。

−−最後に、アフメッドさんの現在の夢や目標があれば教えてください。

いまは教師をしていますが、将来的には校長になりたいと思っています。そして、できれば自分の学校を作りたいと思っています。そのために、いまは大学院に通っているところです。

−−それは素晴らしい夢ですね。学校づくり、何かお手伝いできることがあれば、ぜひ声をかけてください。

ありがとうございます。そう言えば、私は車を運転するのですが、乗っているところを見てみますか?

−−え、運転ですか? アフメッドさんがご自分で?

はい、ハンドルは残された右手で、アクセルやブレーキは自分で改造したレバーを義手をつけた左手で操作できるようにしてあるんです。

−−な、なるほど...。

.........

不安がよぎらないわけでもなかったが、ここで断るわけにもいかない。私たちは連れ立って表通りへと出た。路上に停車してある乗用車に、手慣れた様子で乗り込んでいく。アフメッドさんがそれまで乗っていた車椅子は、弟のムハンマドさんがトランクへと積み込んだ。

「それでは、ドライブへと出発しましょう」

私の顔に浮かぶ不安の色に気づいてか、アフメッドさんは少しいたずらっぽい口調でそう言った。車が静かに滑り出し、徐々にスピードを上げていく。それらの操作は、極端に短い左腕の先に引っかけた義手によって行なっているのだが、フロントガラスから見える景色だけに集中していれば、健常者の運転となんら遜色のない動きに感じられた。

乙武洋匡

−−アフメッドさん、今日はありがとうございました。あなたにお会いできて本当に良かっです。

私こそあなたのことを本当に尊敬しています。またお会いしましょう。いつか日本にも行ってみたいと思っています。そして、日本の人々に希望を伝えたい。

.........

ガザは、たしかに厳しい状況にある。しかし、決して"絶望の地"ではなかった。

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