「危機感はある。問題は、どう戦っていくか」 是枝裕和監督が語る、文化助成のあり方や表現の現在地

最新作『真実』が公開を迎えた是枝裕和監督。新作への思い、物議をかもす日本の文化行政のあり方など…。表現をめぐる現在地について聞きました。
映画監督・是枝裕和さん
映画監督・是枝裕和さん
ERIKO KAJI

映画監督・是枝裕和の最新作『真実』が公開された。是枝にとって初の国際共同制作にして、フランスを代表する名女優、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジュリエット・ビノシュが出演することが上映前から話題になっていた。

「フェイクニュースや真実とは何かが、問われる時代にこのタイトルをつけることは勇気がいった」と是枝は話す。

母と娘の間に起きる小さな諍いから、物語は動き出す。彼はこの作品で何を伝えたかったのか? 日本の文化行政についても包み隠さず語った。

ドヌーヴ演じる国民的大女優ファビエンヌが綴った自叙伝「真実」を読んだ娘、リュミール(ビノシュが演じる)は憤る。学校まで娘を迎えに行った思い出が書かれていたが、そのような事実は一度としてなかったからだ。迎えに来ていたのは、ファビエンヌの親友にして最大のライバルである「サラおばさん」だったのだが、サラの存在は自叙伝からすべて抜け落ちていた。それは一体なぜかーー。

映画「真実」
映画「真実」
©2019 3B-分福-MI MOVIES-FRANCE 3 CINEMA

インタビューは、主要キャストが来日したプレミア試写会の合間を縫って収録した。ファビエンヌ同様、現実のドヌーヴも自由奔放で、私たちが取材現場に指定されたホテルに着くとスタッフが慌ただしく動き回っていた。ドヌーヴの取材対応だという。

「なかなか大変そうですね。現場も大変だったのではないですか」という質問から始めた。フランスでは1日8時間、週休2日と規則的に撮影する。さらに相手はドヌーヴだ。脚本を覚えて現場入りするのではなく、現場に入ってから脚本を覚えて、撮影に挑む。

《僕は大丈夫なんですけどね。スタッフの顔色が…大丈夫かな?(スタッフが「大丈夫です」と返事をする)。文化の違いはそんなに気にならなかったかな。

むしろ、現場に入ってしまえば、役者もスタッフもみんな監督の言うことは素直に聞く。ドヌーヴさんが脚本を覚えてこないというのは、いい加減だからじゃなくて、彼女は現場に入って、その日の天気や自分の体調、撮影で使う椅子の座り心地なんかも含めて、すべて自分のなかに取り込んで、お芝居を創るタイプ。僕にはありがたいタイプなんです。

これまでの現場では、そういう役割は子どもに担わせていた。固まっていく現場を、壊していく役割ですね。今回は“大きな子ども”が中心にいたということですね。》

ERIKO KAJI

ドキュメンタリー出身の是枝は、これまでの映画でも決まりきった演技を計算通りにとるのではなく、現場のなかに偶然性を取り込んできた。「まるでドキュメンタリーのように、劇映画を撮ることができる」という評価は、そこに起因する。子役だけでなく、ドヌーヴも自然体であることが、作品に活力を与える。

《今回は子役が2人いるような感じだったかな。2人して現場で遊んでいるのよ。ファビエンヌはドヌーヴそのままじゃないか、という人もいるけど、本人は「私とは違う」って平然と言うんだよね。「こんなことしていたら嫌われるわ」って言ってたな。

そういうところがとてもチャーミングで、みんな彼女のことを大好きだと言って撮影を終えていた。僕も大好きですよ。

そして、いざ演技に入ると「今日もすごいな」って思わされることばかりだった。「最初からこのテイクが撮れるならもっとすごいのに」って冗談でスタッフと話していた(笑)。彼女はハラハラさせておいて帳尻を合わせるタイプなんだよね。そういうところもチャーミング。》

カトリーヌ・ドヌーヴ演じるファビエンヌ
カトリーヌ・ドヌーヴ演じるファビエンヌ
PHOTO L. CHAMPOUSSIN ©3B-分福-MI MOVIES-FR3

初の国際共同制作作品でも、撮影に選んだテーマは是枝作品の代名詞とも言える「家族」だった。狙いはどこにあったのか。

《僕は家族ものだと思って撮っていないんだよね。最初の構想は、ある老女優がいて、かつてのライバルが若くして死んでいて、幻影に怯えているという話だった。唯一の友人でもライバルでもある女性との関係が中心だった。そこに女優になりそこなった娘を入れて、3人の話をしようと思って登場人物をちょっとずつ膨らませていったら、家族の話になってしまった。》

是枝作品に登場するモチーフに「不在の他者」がある。彼の作品では、しばしば物語の鍵を握っている人物がまったく登場しないか、登場が極めて限定されている。今回で言えば、おそらく若くして亡くなった「サラおばさん」がそれにあたる。

サラの再来と呼ばれる若手女優、マノン(マノン・クラヴェル)。劇中劇『母の記憶に』で、ファビエンヌと共演する。
サラの再来と呼ばれる若手女優、マノン(マノン・クラヴェル)。劇中劇『母の記憶に』で、ファビエンヌと共演する。
PHOTO L. CHAMPOUSSIN ©3B-分福-MI MOVIES-FR3

「この映画は確かに家族ものではないかもしれません。ポイントは親子関係ではなく、サラが徹底して『不在』であり、親子関係ではなく、不在の他者を入れた三者関係で進んでいるところにポイントがあるからです。なぜ不在の他者を取り入れるのですか」と訊ねると、是枝は「うわー」と声をあげたまま、しばらく沈黙し、口を開いた。

《……それはね、好きなんだよね。『歩いても 歩いても』という映画を公開したときに、海外の記者からも「不在の死者」について、聞かれたんだよ。そこで、僕は日本人にとって神様はご先祖様で、死んだ人に恥ずかしくない生を送るという考え方が日本にはあって、それがかろうじて倫理観を保っているのではないかという話をした記憶がある。

物語世界の中にいる子供と、物語の外にいる死者が、物語に登場する大人を見つめているという構図が好きだからとしか言えないなぁ。》

だが、今回の作品がこれまでと決定的に異なるのは、「不在の他者」をある人物が埋めていくことにある。ネタバレにならない程度で書けば、ある出来事から「不在」が解消されたとき、母と娘は真にサラの不在を受け止める。

《つまり、これは喪が明ける話なんです。そこは最初から決めていた。最後のシーンも結末も最初から決めていた。

作品を見た人たちから、今回のラストが新鮮だったという声をよく聞くんだけど、それは僕にとっても新鮮だった。》

ファビエンヌとリュミール
ファビエンヌとリュミール
PHOTO L. CHAMPOUSSIN ©3B-分福-MI MOVIES-FR3

「真実」というタイトルで描かれているのは、理解を通じた和解の可能性である。是枝は真実という言葉を絶対的な存在として扱ってはいない。映画で描かれるのは、どこか曖昧であり、繊細な感情の上に成立する「真実」だ。

《テレビマンユニオン時代に、恩師である村木良彦から学んだのは「世界は正しく理解できるわけもなく、真実があって私はそれを正しく伝えられるという近代ジャーナリズムの誤解が一番の罪」という考え方だった。この映画でも、それは貫かれている。》

是枝は、作品の中で母と娘の間にある誤解を解きほぐし、ファビエンヌが自叙伝『真実』で、なぜ真実を書けなかったのかという謎を設定する。娘の里帰りを機に、ファビエンヌが自分史の中にある認めたくなかった気持ちと向き合っていく過程を丁寧に描き出す。

《ファビエンヌは自叙伝の中で嘘を書くわけだけど、それを書いたということは、彼女にとってはそうなりたかった「真実」だったんですよね。リュミールも嘘を追及することで、ファビエンヌに対して抱いていた自らのわだかまりを知ることになる。自分のことを迎えに来なかったという事実と、迎えに行ったという嘘の裏側にあるお互いの本音に気がつくんだよね。そして、(物語のなかで)少しずつ求め合った真実を発見していく。

今の時代は、みんな嘘と真実を二元論的にわけようとする。でも、フェイクも真実もそんなに単純なものではないでしょう。》

PHOTO L. CHAMPOUSSIN ©3B-分福-MI MOVIES-FR3

そして、わかりやすい悪役も登場しない。

《悪役は……。苦手なんだよね。簡単だから》

「わかりやすい悪役を登場させて、バッシングするのはメディアでもよく見かけますが……」と私は重ねた。

《でも、日本のメディアは本当に叩くべき対象を叩けてないでしょ。

ケン・ローチ(イギリスの映画監督。是枝が尊敬していると公言している)と話した時、「あなたの映画では労働者が犯す罪はほとんど裁かれない」って話をしたの。例えば、労働者は盗んだお酒を横流ししてお金を儲けて、車を買って幸せになりました、という話を描いている。

ケン・ローチは「本来、裁かれるべき相手が合法的に裁かれていない。本当に大きな悪が存在する以上、労働者の犯した罪なんて大した話ではない」って言うんだよね。それはすごいこと。彼は怒りの対象が僕よりもっと明確なんだよね。そして、その怒りは正しい。日本の映画にも正しい怒りはもっとあってもいい。》

怒りの表現方法が、ケン・ローチと是枝では違う。

《そうだね。僕は『万引き家族』で、彼ら(万引きで生計を立てていた一家)は解体されるべきだと思っていた。「彼らを解体するのは誰か」ということを映画を観た人たちに問いかけたかったんだよね。居心地が悪いような映画でいい、と考えた。ケン・ローチとアプローチは違うけど、通底しているものはあると思う。》

『万引き家族』といえば、文化庁からの助成金を使って撮影しながら、「国の恥部を描く反日映画」という批判も一部で巻き起こった。国から金を受けとったら、表現はかなりの制約を受けるべきであるという考えが蔓延している。

ERIKO KAJI

《危機感はありますよ。問題は、どう戦っていくかでしょ。言い返すことも戦い方だけど、文化助成はなぜ必要なのかという情報がなさすぎる。「あいちトリエンナーレ」の騒動でも、テレビで識者と呼ばれる人たちが「そんなことは自分の金でやれよ」と言って済ましている状況では、いくら反論しても、無理なんですよね。文化を巡る制度設計の話と、作品への好悪は分けて考えないと。文化庁はいらないという話にしかならない。》

「常識」とは何か。文化助成のあり方を巡って、是枝は語る。

《フランスは、自分たちの文化を守るために業界もお金を出している。映画にしても、市場原理だけに任せていると、ハリウッド映画ばかりになる。だから、映画の多様性を守るために助成をするんですよね。みんなが支持してマーケットで支えられる映画は、マーケットが支えればいい。それとは別の尺度で表現の多様性を確保するために助成をする。

「国は金を出すけど、口は出さない」のは西欧では常識なんだよね。政権の価値観に合致するものを文化に求めるのはおかしい。そもそも学問や芸術は国益のためにやるものではないけど、豊かな学問や多様な作品は巡り巡って結果として国益になる……なんて話を作り手が言わないといけないこと自体がおかしいことなんだよね。時の政権の価値観とは違うことを研究したり、作品にしたりしていくことで、社会も文化も更新されていく。

そんなことを言ったら、反日だって言われる……。でも「……」で終わらせていけないからさ。国に資するのではなく、映画に資することが優先されるべきでしょ。文化庁の助成をもらったときに僕がしなくてはいけないのは、まず良い映画をつくること。作品が助成への最大のお礼。だから、その作品が面白いかどうかはいくら批判されてもかまわない。ただ、その基準は目先の“国益”にかなうかどうかではない。

常識が共有されていない中で、声をあげるのは大変だけど欧州だけでなくて、民主化から30年の韓国でも常識になっているからね。出来ないはずはないんです。》

釜山映画祭では、旅客船セウォル号沈没事故を描いた映画が行政の反対を振り切って上映されたことをめぐり、行政と映画関係者が対立した過去がある。結果として、映画祭も行政は「金は出すが、口は出さない」原則を貫くことで決着し、今でも続いている。

《僕が矢面に立って発言するのもなぁ……と思うこともある。でも文化助成のあれこれについては当事者だから責任があるので、聞かれれば言うけどね。もう全うに怒ってくれる大島渚みたいな人がいないからさ。なんでこんなに熱く語ってしまったんだろう。》

そう笑いながら話す。

起きている事態は笑い事ではすまないが、憂うばかりが戦い方ではない。

《『誰も知らない』も『万引き家族』も文化庁の助成金をもらっているけど、逆に落ちた作品もある。

申請が落ちたものは、それに値しないか、マーケットで支持されると判断されたのかも知れない。実際にヒットしたと言えるものもあった。少なくとも僕の作品については、マーケットの支持だけでは成立しないものを見極めて、助成を決めている文化庁の判断は的確だったと思っている。その判断を外部の圧力によって、歪めないでほしいよね。》

予定の時間がやってきた。最後に是枝にとって「良い映画」とは何かと聞いてみた。市場が支持するものが良いものであるという価値観が強まるなかで、という意味も込めてである。

《監督の喜怒哀楽が作品のなかにある。それを観終わったお客さんと共有できるものが僕にとっては良い映画。日本では少なくなっているよね。》

多忙を極めている社会派映画監督は、きっぱりと言い切り、インタビューを締めくくったのだった。

ERIKO KAJI

映画「真実

10月11日(金)TOHOシネマズ 日比谷ほかにて全国公開中

(執筆:石戸諭 @satoruishido / 編集:生田綾 @ayikuta ・ 南麻理江 @scmariesc

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